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◇説教◇
「まことの証人・殉教者」

使徒言行録 第7章44節―第8章1節a

東野 尚志

7:44 わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。 7:45 この幕屋は、それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました。 7:46 ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、 7:47 神のために家を建てたのはソロモンでした。 7:48 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。 7:49 『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。 7:50 これらはすべて、/わたしの手が造ったものではないか。」』 7:51 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。 7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。 7:53 天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」
◆ステファノの殉教
7:54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。 7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、 7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。 7:57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、 7:58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。 7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。 7:60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
[ 8 ]
8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。

 クリスマスの出来事には、さまざまなしるしが伴っています。不思議に輝く星は、三人の学者たちを導くしるしになりました。乳飲み子が布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされたのも大事なしるしです。そして、それらのしるしの意味を説き明かすために、聖書がひもとかれ、天使の御告げが響きます。神の言葉によって証しされるときに、しるしはその本来の役割を正しく果たすのです。聖書の民を導いてきたのは、まさしく、そのような神の証しであり、証しの言葉を託された証人たちは、命を懸けて救いの出来事を指し示しました。神の救いが現されたクリスマスを喜び祝うとき、与えられた御言葉を通してステファノの物語を読むことは、実に意義深いことではないかと思います。その命を懸けた証言を通して、救い主キリストのお姿をしっかりと見つめることができるのです。

 ステファノは、その時、最高法院の法廷に立たせられていました。神の神殿とモーセの律法を軽んじ、これを汚す者として、偽りの告発によって裁かれようとしていたのです。弁明の機会が与えられ、促されてステファノが語った言葉は、自分の命を守るための弁解ではありませんでした。それはむしろ、神の救いとしての福音を力強く弁証し、救い主であるイエス・キリストを証しする言葉でありました。それゆえにこそ、ステファノは、ユダヤ人たちの激しい憤りに身をさらすことになったのです。既に学んできたように、十二人の使徒たち自身は、以前と変わりなく、神殿を中心とする生活を続けていました。決められた時刻には神殿に詣でて、祈りをしていたのです。そのおかげで、祭司たちの中からも、多くの受洗者が生み出されました。しかしそれは、初代教会にとって大きな祝福であると同時に、誘惑にもなったのではないかと思います。エルサレムの神殿とのつながりが、ますます強く、また深くなって行くからです。ステファノが神殿を汚している、という告発は、確かに偽りの証言としてなされたものでした。けれども、あたっている面もあるのだと思います。それは、主イエスご自身が、神殿の存在を相対化されたという意味においてです。主イエスは、やがて神殿が破壊され、神殿宗教が崩壊することを見通しておられました。その上で、ご自身のよみがえりの体こそが、まことの神殿であることを語られました。主イエスにおいて、神と神の民とが真実に相いまみえることができるのです。イエス・キリストにおいて、すなわち、さまざまな動物の犠牲によってではなくて、ただ一度、永遠に献げられた神の独り子の犠牲によって、私たちのすべての罪が贖われ、罪をぬぐわれて、怖じ恐れることなく大胆に神に近づくことのできる道が切り拓かれました。イエス・キリストこそは、父なる神へとつながる、まことの命の道です。目に見える壮麗な神殿が、救いを保証するわけではありません。ステファノは、まさにその意味で、主イエスの道を正しく受け継いだのだと思います。それによって、神の民にとっての礼拝の原点となった「証しの幕屋」を正しく受け継ぎながら、しかもそれを乗り越えていくのです。

 ステファノは、荒れ野の天幕として始まった礼拝の場所が、やがて壮麗な神の住まいとしての神殿にとって代わられた歴史をたどって行きます。荒れ野における証しの幕屋は、モーセの後継者であるヨシュアによって約束の地カナンに導き入れられました。ステファノはこのように語っています。

「この幕屋は、それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました」(四五節)

一つ興味深いことを申しますと、ここに出てくる「ヨシュア」という名前は、新約聖書の原語であるギリシア語では、「イエス」と書いてあります。イエス・キリストの「イエス」と全く同じです。恐らく多くの方が、「イエス」という名前が実は当時のユダヤ社会においてはごくありふれた名前であり、ヘブライ語の「ヨシュア」をギリシア語に移した名前なのだ、ということをお聞きになったことがあると思います。ここに、その実例が現れているわけです。ギリシア語の原語で読むと、確かに「イエス」と書いてあります。しかしそれは、明らかに、旧約時代のモーセの後継者であるヨシュアを指しているわけですから、ヨシュアと訳し直したのです。日本語だけで読んでいるとそんなことには気づきません。しかし、最初にこの言葉を読んだ人たち、それが読まれるのを耳で聞いた人たちは、明らかに、ここで、「イエス」という名前を目にし、耳にしたのです。もちろん、それがヨシュアを指していることは分かるとしても、主イエスのことを意識せざるを得なかったのではないでしょうか。少しうがった見方になるかもしれませんが、地上において、神の民を約束の地に導いた指導者の名前は、永遠の救いの道を切り開き、私たちに先立ってくださる、まことの救い主の名前を指し示しているのです。

 ところが、その旧約時代のヨシュアと新約時代の主イエスの間に割り込んできたのが、神殿という存在であります。ダビデは、神の住まいとしての神殿を建てることを願いましたが、ダビデ自身には許されず、ダビデの子であるソロモンが実行しました。しかし、ステファノは、きっぱりと語ります。

「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」(四八節)

そして、目に見える建物としての神殿を絶対化したり、神聖化したりする宗教的な営みを批判して、旧約聖書イザヤの預言を引用するのです。ステファノは明らかに、証しの幕屋として受け継がれた天幕が神殿にとって代わられたところに、イスラエルの宗教的な堕落を見ています。そしてむしろ、壮麗な神殿よりも、素朴な幕屋の方が、神の臨在を示すのに適当であったと言いたいのだと思います。ご承知のように、幕屋というのは、移動することが可能です。また素朴であるために、地上の特定の場所にこだわらず、神の普遍的な臨在を証しするのに適当だとも言えるのです。その反対に、ある特定の場所に固定された神殿を築くことによって、まるで神の臨在の場所をそこに限定するかのような間違いが忍び込んで来ます。さらに言えば、神は霊であって私たちの目には見えないのですから、目に見える装飾の美しさや荘厳さは、かえって邪魔になることもあるのです。その意味で、天幕というのは、地上にあっては旅人であり、寄留者に過ぎない神の民にとって、ふさわしいしるしであったと言えるかもしれません。私たちは、神のほかに何も頼るものを持たず、ただ神にのみより頼んで地上の旅を続けていくのです。それにもかかわらず、この地上に永遠の神の住まいを築くことができるかのように考えるのは、愚かなことです。ステファノの批判を通して、目に見えない神に頼ることを忘れ、目に見える権威や繁栄に心を奪われてしまう人間の愚かさがえぐりだされているといってもよいと思います。

 いずれにしても、どのような壮麗な建築物も、永遠なる神の住まいとしては十分ではありません。もちろん、最初に神殿を建てたソロモン自身も、そのことはよくわきまえていたはずであります。しかし、知恵の王と言われたソロモン自身も、やがて目に見える神殿や財宝の輝きに惑わされてしまうのです。ダビデが神の家を建てることを願ったとき、預言者は、ダビデ自身ではなくてダビデの子がそれを建てるであろうと約束しました。誰もがそれはダビデの子であるソロモンのことだと思いました。しかし、神の名のために新しい家が建てられるという約束が、本当の意味で成就したのは、ダビデの子としておいでになったイエス・キリストにおいてであったと言わなければなりません。ステファノは、ヨシュアから主イエスへと貫いている救いを証ししているのです。その間に割り込んできた地上の神殿は、イエス・キリストご自身、キリストのよみがえりのからだを指し示す限りにおいて、存在の意味を持ちます。しかしそれは、まさに、自らを否定することにおいてしか成り立たない証しなのだと思います。神殿を誇りとし、具体的な生活の支えにもしていた祭司たちにとって、現にある神殿を相対化するような発言は、赦しがたい冒涜として響いたのです。しかし、それでひるむステファノではありません。厳しい言葉で、聞く者たちの罪をえぐります。

「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています」(五一節)

これは、旧約聖書の預言者たちがしばしば口にしたのと同じ言葉です。ユダヤ人たちは、預言者を敬愛し、自分たちは、預言者の子孫であるということを誇りにしていました。しかし、ステファノに言わせれば、その預言者たちを受け入れず、迫害してきた者たちこそ、彼らの先祖なのです。そして、預言者たちが証しし、指し示した救い主を十字架にかけて殺してしまうことによって、自らが神と神の言葉に逆らう者であることを暴露している、と詰め寄ったのです。ユダヤの指導者たちが、黙って聞いていられるはずがありません。激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした、と書かれています。そして、事態は悲惨な結末へと突入していくのです。

 恐ろしい形相で歯ぎしりする人々を前にして、ステファノは、天を見つめました。そこには、神の栄光と神の右に立っておられる主イエスのお姿が見えました。ステファノにとっては、激しい怒りの形相で迫ってくる群衆よりも、天においてキリストが神の右におられることの方が、はるかに真実であったのだと思います。しかし、ステファノの平安な静けさとは逆に、その最期は悲惨です。都の外に引きずり出され、石を投げつけられて殺されたのです。傷だらけになり、血まみれになっていたに違いありません。しかし、聖書は、その悲惨なありさまを詳しく書いてはいません。むしろ、神の栄光によって包まれたような不思議な穏やかさを感じさせるのです。ステファノは、最期に、二つの祈りを口にしています。そのいずれも、主イエスご自身が十字架の上で口にされた言葉を思い起こさせます。

「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」。

そしてさらに、ひざまずいて、

「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」

と祈りました。ステファノは、その力強い言葉によって、主イエスを証ししただけではありません。まさにその命をかけて、その死においても、主イエスご自身のお姿を指し示す、まことの証人として立っているのです。「証人」という言葉は、やがて、「殉教者」を意味する言葉となります。その最初の姿がここに刻まれているのです。ところで、ステファノの感動的な祈りを、誰が私たちに伝えてくれたのでしょうか。耳をふさいで、興奮している群衆の中で、誰がこの祈りを聞き取り、伝えたのでしょうか。聖書は何も語っていません。しかし、一人の若者の姿を描きます。サウロ、後のパウロであります。確かに、サウロはこのとき、ステファノを殺すことに賛成していました。しかし、ステファノの最期の姿は、サウロの目と耳に深く刻まれたのではないでしょうか。そしてやがては、この若者を、まことの証人、殉教者へと変えていくのです。一粒の麦が地にまかれたことは、無駄ではありませんでした。ステファノの死は、キリストの死を指し示しつつ、多くの実を結んでいきます。私たちのところにまで、命の言葉がもたらされました。私たちも、ステファノの証しを通して、主イエスの救いをしっかりと見つめることができるのです。

(一二月三日 礼拝説教より)


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