ハイデルベルク信仰問答の第24主日、問答の62から64までを学びます。前回学んだ「信仰義認」を巡る問いが続いています。「信仰によってのみ義とされる」。宗教改革の原理となった大事な旗印です。1517年10月31日、ドイツの修道僧マルティン・ルターは、ローマ教会の「贖宥券(免罪符)」を批判し、ヴィッテンベルクの城教会の扉に「95箇条の提題」を掲げました。教会改革の口火が切られ、改革運動はあたかも燎原の火のようにヨーロッパ世界を飲み込んでいきます。ドイツのルターに続き、スイスにはカルヴァンという優れた指導者を得て、やがてはローマ教会の側でも、この改革勢力を無視できなくなるのです。
ローマ教会において、宗教改革に対抗するために聞かれたのが、「トリエント公会議」でした。イタリア北部の都市、トレント(トリエント)で、1545年から1563年まで聞かれた教会会議です。これは、ローマ・カトリック教会の側の自己革新と教理確立を求める公会議でした。第六会期においてまとめられた「義認についての教令」は、明らかに、ルターとカルヴァンの信仰義認論を論駁しようとする文書です。トリエント公会議の立場によれば、信仰は救いの始まりに過ぎません。信仰によってキリストの恩恵が注入され、その恩恵の力によって、善い業を行うことが可能になります。人は、その善い行いによって義とされる、と規定したのです。ただ神の恵みによってのみ救われる、というのではなくて、あくまでも、神の恵みによって可能となる人間の善い行いが、救いの条件になるのです。『カトリック文書資料集』の中には、はっきりと、こういう言葉が記されています。
「信仰だけで罪人が義化される、すなわち、罪人が義化の恩恵を得るためには信仰以外の何ものも必要でないし、また自分の意志で準備し、備える必要は全くないという者は排斥される」。
「排斥される」
というのは「アナテマ」
であって、「その者は呪われよ」
という非常に強い表現です。トリエント公会議は、ルターとカルヴァンの信仰義認論をアナテマと断じました。救われるためには、神の側からの恵みだけではなくて、人間の側からも善い行いをもって共に働かなければならない、ということを、強調したのです。この公会議決定が1547年ですから、当然のこととして、1563年に刊行されたハイデルベルク信仰問答は、ローマ教会の側からの批判を受け止め、それを踏まえながら、改めて、信仰義認の教理を提示したのです。
行いによらず、ただ信仰によってのみ義とされる。この命題に対する反論を意識しながら、問答の62が綴られます。
もしも、私たちが行いによって義とされようとするなら、律法が要求するところを、すべて完全に行わなければならなくなります。しかし、私たちがこの地上で行うどんな優れた業であっても、それによって義とされるためには全く不十分であり、不完全だと言わなければならないのです。使徒パウロはガラテヤの教会に宛てた手紙の中で述べています。
「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(ガラテヤ5・4)。
もしも、行いによって義とされようとするなら、恵みとは無縁な者になってしまうのです。恵みとは全く異なる原理によって、キリストと関わりなしに、自分の善い行いに対する報いとして救いを受けようとするなら、どれほど善い行いを積み重ねていったとしても、救いの条件を満たすためにはなお遥かに及びません。それが、否定しがたい私たちの現実なのです。これは、何も宗教改革の発明ではなくて、既に聖書の中に明確に述べられていることです。
問62の答の引照聖句(証拠聖句)をよく味わいたいと思います。
「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては罪の白覚しか生じないのです」(ローマ3・20)。
「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われてにいる』と書いてあるからです」(ガラテヤ3・10)。
これが、「律法の呪い」
と呼ばれるものです。律法の行いに頼る者は、律法に書かれていることをすべて守らなければ呪われるのです。しかし、神は、私たちをこの呪いから救い出すために、愛する独り子、イエス・キリストをこの地上に遣わし、十字架に引き渡されました。引用したガラテヤ書の御言葉のすぐ後、13節にこうあります。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださにいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」。
キリストは、私たちに代わって、私たちのために律法の呪いを引き受けてくださり、十字架において私たちの罪に対する神の裁きを受けられたのです。キリストは私たちのために、呪われた者となってくださった。それは、私たちを律法の呪いから贖い出すためであった、というのです。そして、キリストは私たちの罪と罪に対する裁きをすべて引き受けてくださり、その代わりに、ご自身の完全な義を私たちに着せかけてくださいました。神は、本来、義とされる資格のない者を、キリストの義によって包み込むようにして、義と認めてくださるのです。それが、功績ではなく恵みによる救い、ということです。
私たちの善い行いは、私たちが救われるためには何の役にも立ちません。その意味では、値打ちがないのです。しかし、だからと言って、善い行いには全く意味がない、ということはないはずです。むしろ、聖書は、善い行いに対する報いを約束しているではないか、それが第63問の論理です。
確かに、使徒パウロは、私たち人間の善い行い、律法の実行が、私たちの救いの条件になることを完全に否定しました。しかしそれは、善い行いそのものを否定しているということではないのです。むしろ、聖書自身が、しばしば、私たちは行いに応じて裁かれる、ということを教えています。ヨハネの黙示録にも、裁き主として再び来られる主イエスの言葉として、明確に行いに対する報いが約束されているのです。
「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる」(22・12)。
確かに、善い行いに対する報いの約束は否定できません。しかし、間違えてはならないのは、行いに対する当然の報酬のように、機械的に報いが与えられるというのではない、ということです。そこにも、報いを与えてくださる方の自由な恵みが働いているのです。
人間の働きに対する神の報酬、ということについては、あの「ぶどう園の労働者」のたとえを思い起こすとよいかもしれません(マタイ福音書20・1―16)。ぶどう園の主人は、夜明けに出かけて行って、一日一デナリオンの約束で労働者を雇い、ぶどう園に送りました。その後、約三時間ごとに出かけて、そのたびに労働者を雇ったのです。一日の仕事が終わり、賃金を支払う際、最初に夕方五時頃に雇われて、一時間しか働いていない人たちが来て、一デナリオンずつ受け取りました。そして最後に、朝から丸一日働いた人たちの番が来たとき、同じように一デナリオンしかもらえなかったので、不平をもらしたのです。しかし、主人は答えて言いました。
「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。
神と人間の関係においては、働いた業に対する報酬も、機械的に当然の権利として要求できるものを超えています。神は報いを与えるときにも、恵み深く、また憐れみ深い方として自由に振る舞われるのです。しかし、そうなると、報いを求めて努力する人はいなくなってしまうのではないか。実際にローマ教会から突きつけられた批判を受け止めるようにして、問いと答えが掲げられます。
信仰義認の教えを上辺だけで捕らえるとこういうことになるかもしれません。しかし、信仰問答はきっぱりと答えて言います。
この答の中身をじっくりと味わう必要があると思います。確かに私たちは、行いではなく信仰によって、神の恵みによって救われるのです。しかし、この恵みという言葉の中身であるキリストの十字架の意味を知る者は、行いが関係ないからといって、自分勝手で身勝手な生活をすることなどできないはずなのです。信仰を言い表し、洗礼を受けて、しっかりとキリストに結ばれ、つながっているならば、感謝の実をむすばないはずがない、というのです。信仰問答は、神によって義とされ、救われた者の生活を、第三部において、感謝の生活として描いていきます。義とされた者は、また聖とされていくのです。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」(エフェソ2・8−10)。
救われるために善い行いをするのではありません。既に救われているからこそ、キリストの恵みの力に養われて、善い実を結ぶようになるのです。
◆「ぶどう園の労働者」のたとえ
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。 20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」