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富岡 幸一郎
昨年読んだ本のなかで忘れがたい一冊がある。高橋睦郎著『日本二十六聖人殉教者への連祷』(すえもりブックス)である。
高橋氏は一九三七年生まれの詩人であり、現代詩の書き手として、これまですぐれた作品を発表してきた。詩作のみならず、小説、戯曲、評論、狂言、ギリシャ悲劇の翻訳など、その創作活動は多方面にわたる。一言でいえば、現代日本を代表する言語芸術家ということになろう。
本書は、その高橋氏が、戦国時代、豊臣秀吉によるキリシタン弾圧によって、長崎で殉教した二十六聖人への祈りの詩を集めたものである。この二十六聖人に関しては、カトリックの信仰をもつ彫刻家・舟越保武氏の手になる殉教記念碑がある。完成したのは一九六二年のことであり、かねてよりこの記念碑に関心を寄せていた高橋氏は、舟越氏の回顧展で自作詩の朗読をすることになったのをきっかけに、二十六殉教者ひとりひとりの伝記を作品化し、二六の作品を連梼として捧げる決心をしたという。
連梼(れんとう)とは、祈祷の形式のひとつであり、選ばれた言葉を連ねてイエズス・キリストや聖人を讃めたたえて一人が先導し、会衆がそれに応えるものであるという。この祈りの形式のなかに、詩人は、二六人のそれぞれの人生に思いをはせ、信仰のために気高く死んでいった人々を現代へとよみがえらせている。
舟越氏の彫刻を私は直接には見ていないが、四年の歳月をかけてつくられた記念碑は、氏の代表作であり、そこに彫刻家自身の信仰が、時代をこえて重ね合わされていることは容易に想像がつく。高橋氏をこの詩作に駆り立てたものが、この信仰者の作品であったことは偶然ではないだろう。
一五九七年、慶長元年一一月二一日から、一二月五日の二八日間、大阪で捕えられた二六人は、長崎まで罪人として苦難の旅をしいられる。それはキリストの十字架の死への歩みに重なる信仰の道行であった。
「長崎への道行」と題する本書のあとがきで、高橋氏は書いている。
《彼らの内訳は四人のイスパニア、一人のメキシコ、一人のインド出身の外国人のほかは、二十人の京都、尾張、伊勢、大阪、摂津、岡山、長崎、五島出身の日本人。年齢は十二歳から六十四歳まで。外国人はすべてフランシスコ会修道士、日本人の出身階級は武士、医師、職人、商人、料理人……などさまざま。共通していえることは、イエズス・キリストという新来の神を信じ、苛烈な迫害に対してもその信仰を捨てるどころか、かえって強くした人々だ。そのほとんどは当時の第一の権力者、太閤豊臣秀吉の役人たちに捕縛されたが、中にはみずから名乗り出て捕われた人もある。途中で転向した者が一人もいないのも、大きな特徴だろう。》
高橋氏は、二十六聖人についての資料を読み、そのひとりひとりに当てて、詩の言葉を書き記す。それは舟越氏の殉教者ひとりひとりを刻んだ、その姿とひびき合うかのようだ。
おそらく、詩人・高橋睦郎にとっても、この作品は特筆すべきものとなろう。もともと、この詩人のなかには、深い宗教的感情ともいうべきものがあった。日本の現代詩は、しかし、いたずらに難解で、知的で、すぐれた言語的才能をもった人は少なくないのに、一般の読者にはなじみにくいものとなっている。
それはさまざまな理由があろうが、私は現代を生きる詩人が、真に自らの魂をぶつけるべき対象を見出せなくなっているからではないかと思う。そして、真理を、絶対を見出すことができないとき、表現は拡散し、力をうしなってしまう。形式をもちえなくなり、したがって難解な実験作ばかりになってしまう。
しかし、ここで高橋氏は、四〇〇年前のキリストの信徒に、その信仰者たちの謙虚さと勇気のなかに、現代に生きるわれわれにも通ずる神の真理と愛の力を発見している。現代詩の稀有な才能は、ここで「長崎二十六聖人殉教者」という対象を、時代と歴史をこえた、その生と死の現実をしっかりと捉えている。それは読む者の心を強く動かさずにはいないだろう。
ひとつひとつは短いものである。詩というよりは、まさに祈りの言葉である。いや、だからこそ、本書は現代においてひとつの奇蹟のような言葉の輝きを放っている。
残念ながら、現在までのところ日本の詩壇も文壇もこの作品のもつ意味を理解してはいないようである。今日の日本の文化の浅薄さを思えば無理からぬものかも知れないが、新聞の書評などでもあまり紹介されていないようなので、(キリスト教系の雑誌はどうなのだろう?)ぜひ、ここにこういう詩作品が生まれたことを強調したいと思う。
作中の詩を引用するのは、あえてひかえたい。実際に本を手にして読んでいただくことを願う。
そのかわりに、作者のあとがきの最後のところを引いておこう。
《理想的にいえば彼らの長崎への道行を納めた二十六の作品を書くことが私の道行であればいい。できるなら、京都から始まった堺経由長崎までの道を可能ならば徒歩で、もしそれが無理なら車ででもなぞりたい。もしこれがヨーロッパのカトリック国なら、列聖された二十六人もの殉教者の道行の宿泊地ごとに小さな聖堂が出来、そこを巡る巡礼の道が出来ているはずだ、とそんなことも思った。
実際にはそんな時間的余裕もなく、私は自宅で二十六聖人について資料を何冊か読み、ひとりひとりに当てた作品を書いていった。その過程で改めて知ったのは当然のことながら彼らのひとりひとりに固有の人生があり、その人生を自分の信仰に捧げることが彼らの道行にほかならなかった、ということだ。そういう道行を持つには、私たちはきわめて困難な時代にいる、といわなければなるまい。その困難を知ったのが、私の「長崎二十六殉教者」作品化という道行、あるいは反道行だった、ということになろうか。》
この最後の言葉は─「私たちはきわめて困難な時代にいる」─われわれに向けられた鋭い問いかけでもあると思う。現代を生きるキリスト者への問いである。さらに、カトリック、プロテスタントをこえて、この問いは今日の教会への「問い」でもある。「殉教」という言葉も、ここで深く思い及ばずにはいられない。
| 表装 | 書名 | 著者 | 訳者 | 出版社 | 価格 |
|---|---|---|---|---|---|
![]() | 『日本二十六聖人殉教者への連祷』 | 高橋睦郎 | - | すえもりブックス | 〔本体1800円+税〕 |
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