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キリスト教史を学ぶ会 第24回(2006年5月24日)

担当:棟居 洋

第15章 民主主義とキリスト教(2)

3 民主主義の問題性

 この章の初めにお話しましたように、現在では社会主義諸国でも「民主主義」という名で自分たちの体制を呼び、しかも彼らの民主主義こそ「真の」民主主義であると考えています。そこには、西欧型の民主主義は、真の民主主義ではないという批判的主張が潜んでいるように思われます。では、これまで見て来た西欧型の民主主義にはどのような批判されるような問題があるのでしょうか。

 民主主義が基本理念としたものは、自由と平等でした。自由は、封建的社会、あるいは身分制社会において個人を束縛しているすべてのものからの解放であり、平等は、法の前での平等、あるいは平等な参政権を意味したのですが、やがて、自由は「自由放任」という意味と取り違えられ、平等は、白人のみの平等として受け入れられるようになりました。資本主義の興隆と時を同じくして成長した西欧型の民主主義は、自由放任的経済政策を許すことによって、自国内はもちろん、本国と植民地との関係において、経済的社会的不平等を一段と深刻なものとしてしまったのです。産業革命はこの矛盾をさらに解決困難なものにしてしまい、ついには社会主義・共産主義の台頭によるこの問題の解決が目指されるようになったのです。このように、資本主義と結びついた民主主義は、その基本理念である自由と平等の実現において、深刻な矛盾を孕むようになりました。

3-a 啓蒙主義者の幻想

 西欧型の民主主義のこのような矛盾は、民主主義がその精神的基盤から切り離された結果生じたと言えましょう。民主主義の推進者たちが、自由とか、平等とか、人間の尊厳といった理念を根底から支えていたキリスト教的神観、人間観、世界観を見失った時、これらの理念自体も歪められてしまったのです。アメリカ独立宣言文を起草したトマス・ジェファーソン Thomas Jefferson(1743~1826年)ベンジャミン・フランクリン Benjamin Franklin(1703~90年)トマス・ぺイン Thomas Paine(1737~1809年) たちが啓蒙主義者であったことを想起していただきたいのです。彼らの思想の根底をなしていたのは、合理的、楽観的な人間主義(ヒューマニズム)でした。したがって、「すべての人間は創造主によって平等に造られた」と宣言しても、彼らの意味した神は、せいぜい理性によって知り得る限りの時計の職工的神でしかなかったわけです。それは、イエス・キリストによって示され、十字架上の死を通して、ユダヤ人にもギリシア人にも、自由人にも奴隷にも、男にも女にも、平等に恵みと救いをお与えになった人格的な神ではなかったのです。彼らの理解した神は、人間の前に立って、良心のとがめを感じさせる神とはほど遠かったのです。イギリスの圧政からの解放を叫ぶ黒人奴隷の所有者が、奴隷の上に立ち、奴隷の自由を奪っていることに対して罪の意識に悩まされる必要のない神でした。

 このような神によって与えられた平等や自由が、一片の幻想にしか過ぎなかったことは当然のことと言えましょう。つまり、この自らの精神的基盤から切り離された民主主義は、人間を手放しで礼賛し、人間そのものの持つ問題性には、目をつぶっていたというようにも言えます。これこそ、単なるヒューマニズムの陥りやすい檻穽(檻と落とし穴)なのです。

3-b 民主主義絶対化の誤り

 民主主義の矛盾を生み出した今一つの原因は、政治体制としての民主主義が、現実の世界を考えた時にこそいちばん無難なものですが、決して最善のものでも、理想的なものでもないということを、人々が忘れてしまったところに求められましょう。アメリカ独立やフランス大革命を成功させた人々は、国王の専制政治に打ち勝ったとたんに、自分たちの体制を理想的と見間違い、これを絶対化する誤りを犯してしまったのです。あのリンカーンの有名な言葉、”government of the people, by the people, for the people shall not perish from the earth.”も、民主主義が恒久的なものであるという期待を表現していました。遠いギリシアの昔に、哲学者プラトンは、その『国家論』の中で、理想的な国家とは、哲学者の王がすべての人間に正義を保障しつつ、全体の秩序を維持する国家である、と教えました。しかし、現実の世界においては、そのような君主は見つけ難いばかりか、人間の能力には限りがあって、人間は堕落し誤りに陥る可能性も十分見込まれるせいもあって、一人の君主による政治=Monarchia は、独裁的専制君主の治める、Tyranis に堕落しがちである。少数者が治める政治=Oligarchia=Timocratiaは、理想的に運営される場合には、一人の君主の治める政治に次いで望ましいものであるが、堕落した場合には、専制政治に次いで悪いものになる。大衆による政治=Democratiaは、最も理想からかけ離れたものであるが、堕落しやすい人間の性格を考えた場合、いちばん無難なものである。これがプラトンの教えたところです。

 現代アメリカの神学者ラインホルド・ニーバー Reinhold Niebuhr(1894 ~1962年) は、『光の子と闇の子』の中で、プラトンの教えたことを、キリスト教の立場から説明して、「人間の正義を実行し得る能力が民主主義を可能にする。しかし、それと共に人間の不正に陥り易い傾向が民主主義を不可欠のものとする」と言っています。ここに民主主義の真の性格が明らかにされています。多数決の原理に基づいた民主制は、現実の人間世界を考えた場合に、最善のものなのです。不完全な人間が構成する社会においては、一人の君主、あるいは少数の指導者が万事を決して国を治めるより、国民全体の決定による方が無難であるということなのです。真理であるなしにかかわらず、多数に満足を与えるというきわめてプラグマティックな考え方に基づいているのが多数決の原理を主な手法とする民主主義なのです。そもそも多数決で決められたことは、すなわち絶対であり、真理であると考えるところに、民主主義の欠陥が生ずるのです。自らを絶対化することによって、西欧型民主主義は、自由と平等の名における、社会主義型民主主義の挑戦の前に立たされるようになったのです。ニーバーの言葉をもう一つ引用しましょう。『光の子と闇の子 ― キリスト教人間観によるデモクラシー及びマルキシズムの批判 ― 』(1944)29~66頁からの抜粋です。

「闇の子ら(=ナチズム)にとっては、自己が絶対最高の基準であって、彼らはそれ以上の律法(おきて)を認めない。それ故に闇の子らは悪なのであるが、自己本位な意欲の力を見抜いている故に彼らは賢い。光の子ら(=民主主義と共産主義)は自分の意欲をも審判する高度の律法を認める故に正しいが、自我意欲の力を知らないから、何時も愚鈍である。(中略) 光の子らが愚かだというのは、闇の子らのうちに潜んだ自己本位の意欲の力を軽く見積もったという理由によるのみでなくて、自分自身のうちに潜む、自己本位な意欲の力、すなわち階級本位の利益を欲求する力をもまた軽く見積もっているからである。ナチズムが、自ら公言したような悪魔的狂暴を持っているという事を、デモクラシーの世界は信じなかったというただそれだけの理由で、デモクラシーの世界が危険に曝されたのではない。デモクラシー文明は己が社会の中に階級本位の利益を欲求する力がひそむ事を正しく認識しようとはしなかったのである。(中略) デモクラシー文明の保存には、蛇のような賢明さと、鳩のような柔和さとが必要である。光の子らは、闇の子らの狂暴のとりことなってはならないが、闇の子らの智慧で自らを武装しなくてはならない。光の子らは、人間社会に於ける自己本位の力を道徳的に是認してはならないが、事実、そういう力のひそんでいることは、よく知っていなくてはならない。光の子らは、社会の為に、個人的にも、団体的にも、自己本位の意欲を、欺いたり、当てをはずさせたり、利用したり、抑制したりすることが出来るように、闇の子らの智慧を具備する必要がある」。

ここに実に見事な民主主義の楽観主義に潜む問題点の指摘が見られます。

 実は、プラトンがあまり触れなかった問題は、大衆による政治=Demokratiaが堕落したり、歪曲されたりする場合のことです。もちろん、彼は限られた賢者による哲人政治を理想的政治形態として説いた時、すでに民主主義の堕落した場合のことを見通していたがゆえに、そのことにあまり触れなかったのではないかと考えられます。しかし、この問題自体は、重要であることには変わりはありません。言うまでもなく、Demokratiaが堕落すると、いわゆる「衆愚政治=Ochlocratia 」や「似而非デモクラシー=Pseudodemocratia」に陥るわけですが、この場合に、どうすればよいのかがやはりたえず問われているのです。

第16章 資本主義、社会主義とキリスト教(1)

 20世紀の世界は、資本主義体制と社会主義体制のせめぎあいが長く続きましたが、20世紀の最後のほぼ10年間ほどで、世界各地における民主化の動き、それに民族主義の台頭によっても促されて、社会主義諸国の結束にひびが入った結果、世界的規模における社会主義体制は崩壊して、ごく少数の国を除いて、政治分野では、それまでの一党独裁体制に替わって多党政治が、経済分野では、統制経済に替わって市場原理を導入した自由主義的・資本主義的経済が行われるようになりました。20世紀の大半における資本主義と社会主義の確執の歴史を、捉えるためには、両者がどのようにして、またなぜ、まずヨーロッパ世界に出現したのか、また、その両者の思想的基盤は何か、キリスト教とどのような関係にあるのかなどを理解しなければなりません。この章では、このあたりの問題を取り扱いたいと思います。資本主義にもさまざまな型の資本主義があります。もちろん、ここで言う資本主義は、近代社会特有の資本主義のことです。

16-1 近代資本主義とキリスト教

a 近代資本主義の興隆

 すでに見ましたように、中世封建社会から近世身分制社会を経て、近代市民社会への移行に見合った歴史的出来事は、ルネサンス、宗教改革、絶対主義国家、近代市民革命、そして近代国民国家の台頭などです。すなわち、中世から近代への転換を示す代表的出来事は、近代市民革命ですが、これら一連の歴史的出来事の根底には、特に唯物史観に頼るわけではありませんが、経済構造の変化が大きく作用していたと言えましょう。その意味では、中世から近代への転換を示す代表的出来事は、農業を主体とする封建経済から、貨幣経済に基づく資本主義社会への脱皮をもたらした農業革命や産業革命などであるとも言えます。

 中世も末期に近づくにつれ、農業技術の向上・農業生産力の向上に伴い、人口の増加、商工業の発達が促進され、農村の結接点、農業生産物・工業生産物の市場としての都市の活性化が起こりました。もちろん、これは、例えばペストのような伝染病の流行などにより、けっして一直線に展開したわけではありません。しかし、おおよその発展傾向として、このように言うことができるでしょう。こうした経済の発展につれて、中世のギルドやツンフトのような同業者組合の制度は、個人の競争による資本の蓄積を押さえる働きをしていましたので、次第に経済発展の桎梏となってゆきました。そこで、そうした中世の制度の枠外で、金融業や鉱山業を営む個人が次第に資本を蓄積して、時の政治や文化運動を左右するほどの影響力を振るう者として現れるようになりました。フィレンツェのメディチ家や南ドイツのアウクスブルクのフッガー家はその典型的な例です。これら初期の商業資本家たちは、国王や諸侯、高位聖職者たちに多額の金を貸し、その代償として鉱山業における独占権を獲得し、暴利を貪っていたのです。こうした商業資本家が用い始めた新しい簿記法は、複式簿記法と言って、イタリアから始まり、16世紀までには全ヨーロッパに及び、商取引を大幅に合理化しました。このようにして、新しい型の富、新しい取引手段、新しい経済観念が生まれてきました。

 このような情勢の変化にさらに拍車をかけたのが、15、16世紀の「地理上の発見」でした。これまで北イタリアの商人が行ってきた貿易は、東方の物産、すなわち、香料(胡椒、生姜、丁字、肉豆蒄なつめぐ、肉桂、沈香、没薬、白檀、バルサム等々)、熱帯産植物・果実(庶糖、干し葡萄、杏等)、染料(サフラン、蘇方木、明礬等)、奢侈的織物(綿織物、絹織物等)、しかし、なかんずく香料のうち胡椒を輸入し、ヨーロッパの物産、すなわち、金や銀などの貴金属、銅その他の鉱産物、毛織物、オリーブ油、麻織物、穀物、木材、武器、珊瑚、真珠、宝石類、奴隷など、しかし、なかんずく銀・銅などの貴金属を輸出する中継貿易でしたが、相手は、アレクサンドリアのイスラム商人でした。ところがオスマン・トルコの進出がこの東方貿易を脅かしたことに対応して、バスコ・ダ・ガマの東インド航路の開発やスペイン王室が後援したコロンブスの新大陸発見が行われることによって、この貿易の拠点が、北イタリア諸都市から、ポルトガルやスペインの諸都市に移行することになりました。そこで北イタリア諸都市による東方貿易は一挙に衰退し、代わって、インドや新大陸との大規模な遠隔地貿易が、大きな利益を収めるようになりました。一方もはや中世のギルドやツンフト制度は、新しい時代の要求に応じ切れなくなり、新しく会社形態をとった組織がこれにとって代わりました。商業の発達は、当然商工業全体を刺激し、新大陸産の銀と自国の毛織物生産を握る者が、この国際商業戦を制することがはっきりしてきました。この商業戦において、より大きな利潤を得るために、中継貿易よりも自国産の製品、特に毛織物(原料のみならず)製品を支配することが、成功の急所になりました。そこから、商品のコストを安く、より多く生産する(拡大再生産する)必要が生じ、それゆえ新しい資本投入を必要としました。これは何も毛織物の生産に限ったことではありませんで、すべての商品生産に求められたことです。このようにして出現した最初は商業資本家たち、後に産業資本家たちは、自分たちの利益を守るために絶対王政下の国家の保護を求め、国家はその代償として資本家から利潤を得ようとしました。この両者の持ちつ持たれつの関係は、やがて重商主義という経済政策を生み出しました。もはや経済は、比較的狭い範囲の在地的商業よりも、国際的規模の遠隔地商業の方が有利な時代になりましたが、国際競争に勝つためには、国家と資本家が共同して共通の利益を図らなければならなくなったのです。また、今触れましたように、やがて貿易の根幹である産業を支配する産業資本家の力強い台頭が見られるようになり、産業資本家により蓄積された資本が、産業社会を徐々にではありますが、変革してゆきました。その変革が、単に産業界ばかりでなく、社会の仕組みを根本的に変えていったことは、いわゆる「市民革命」を推進したのが彼ら産業資本家であったことを思えば、すぐに分かることです。また、例えば、これまで富の代表とされていた土地という財産も、営利を目的として活用されなければ、意味のないものになりました。このように、今や産業振興によって獲得した貨幣によって代表される富こそが権力の根源であり、この権力は最初のうちこそ国王と資本家によって共有されていましたが、国家の経済政策の面でも、それまでの重商主義政策に代って、国家的干渉や統制をできるだけ排除する自由放任主義政策や自由主義経済政策がとられるようになり、権力の重心は権力の源である貨幣を握ったブルジョア階級へと移ってゆき、国王からブルジョア階級へ権力の委譲が行われざるを得なくなりました。この歴史的表現が、市民革命であったと捉えることもできると思います。さらに、ブルジョア階級は、19世紀前半の産業革命によって、ますます富の蓄積を果たし、選挙法改正等を通じて、ますます権力を自らの手中に握るようになりました。この際大切な点は、資本(富)のブルジョア階級への集中が、同時に、多くの産業労働者を資本家(ブルジョア階級)に対して服従的な地位に陥れ、大量の無産階級=プロレタリアートを出現させたことです。少数の資本家と大多数の賃金労働者との間の越え難い溝こそは、新しい資本主義経済が生み落とした最大の欠陥であるとも言えます。未組織で代表権を持たない無教育の労働者たちは、個人としても階級としても、希望のない日々を送らざるを得ない運命へと追いやられていったのです。

b 資本主義の精神とプロテスタンティズムの倫理

 それでは、このように興隆した近代資本主義と、キリスト教は、いったいどのような関係をもっていたのか考えてみたいと思います。この関係については、かつて資本主義の精神論争という形で多くの歴史家によって議論が戦わされましたが、その際、大きく分けて二つの見方がありました。一つは、「解放説」と呼ばれるもので、もう一つは、「禁欲説」と呼ばれるものです。

 リチャード・ヘンリー・トーニー Richard Henry Tawney『宗教と資本主義の興隆―歴史的研究 ― Religion and the Rise of Capitalism,A Historical Study』(1926年)を代表とする「解放説」によれば、中世社会では、人間の様々な制度や活動の究極的基準となるものは宗教とされましたが、そうした価値観は宗教改革によってもまったく変わりませんでした。宗教理念から導き出された共通の目標のために、各人はその職分を果たすべき地位を定められ、個人的な勝手な行動は認められませんでした。経済倫理の面では、各人に与えられた職分を越える富を追求することは貪欲の罪として糾弾された、と言うのです。

 ところで、トーニーによれば、16世紀には金融市場の中心となるアントウェルペンの台頭に見られる一大経済革命が起きて、中世社会の在り方が揺すぶられました。この危機の時代を迎えて、宗教改革者は、「宗教的基準に添った良心の掟こそが、経済上の取引と社会関係を規制すべきだ」と主張して、中世の各人が与えられた職分に忠実に生きるべしとする有機体的社会観を積極的に擁護しました。ルターは高利を批判し、国際貿易、銀行業を否定しました。カルヴァンは、「都市における商工業的企業の実践的基盤」に立って、利子を条件つき(貧しい者以外にという条件つき)で認めましたが、宗教的規律の観点から不正な高利・取引を非難し、結局富を蓄えることには背を向けました。

 イギリスでも16世紀前半から外国貿易が大きく進みましたが、宗教改革者たちの社会理論は隣人愛を説く古い保守主義でした。しかし、16世紀末の金融市場の発展は、経済関係を非人格化していきました。隣人関係のない金融市場では隣人仲間の相互扶助精神を生かすことができず、経済と倫理は別物と見なされるようになりました。教会が商業道徳を唱える時代は終わり、新しい観念体系が芽生え、成熟してきます。それを支えたのが宗教的には後期ピューリタニズムでした。そこでは、社会的な連帯感よりも、個人の在り方が問われました。後期ピューリタニズムでは個人の神の前における責任が強調され、個人は自らが神に選ばれた器であるという自覚に立って、超人的精力でもって実践的活動に飛び込むことが勧められました。こうした姿勢をもって実業に励めば、富の獲得は精力と意志の勝利に報いる祝福と見なされ、ついで、富の追求が道徳的義務だという信念が生まれました。逆に貧困は怠惰による敗北の表れと見なされ、中世社会におけるのとは違って、隣人愛的慈善としての救貧の対象とは見なされなくなります。むしろ、貧乏人を強制的に働かせる発想が生まれ、そこから産業革命期の労働者が確保されていきました、と言うのです。

 総じて、トーニーは、中世のキリスト教的有機体的社会観が宗教改革者によって否定されるどころか強化され、経済活動も宗教倫理によって押さえられていたとするのです。それが、世界貿易の飛躍的拡大とともに功利的個人主義の経済倫理が台頭して、経済活動を促進するようになった。それを神学的に弁証したのが後期ピューリタニズムであったというのです。要は、トーニーは近代資本主義の精神が生まれたのは、中世的・宗教改革的禁欲倫理からの解放の結果、功利的個人主義が現われたからであり、その根拠づけをしたのが後期ピューリタニズムだと捉えたのです。

 このトーニーの説は、実は、それ以前に現われたマックス・ヴェーバー Max Weberの「禁欲説」の批判として主張されたものです。それでは、マックス・ヴェーバーの説は、どのような内容だったのか、次に検討してみます。彼の説は、主として『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 Die protestantische Ethik und der Geist des Kapi-talismus』(1905年)という論文の形で論述されていますので、この論文の内容を紹介します。

 ヴェーバーによれば、ルターはいわゆる万人祭司説によって聖職者・俗人間の身分的区別を否定したばかりでなく、世俗内の正当な職業がすべて神の前ではまったく等しい価値をもつものとしました。各人の生活上の地位から生ずる世俗内的義務の遂行、つまり隣人愛の業としての職業(Beruf=天職)こそが神に与えられた使命であるとし、中世以来の職業観念(聖職=世俗外的禁欲にのみ価値を認め、世俗の職業=世俗内的禁欲には道徳的価値を認めない)に決定的な転換をもたらしました。しかし他方で、ルターは特に1530年以降、各人は神に与えられた職業と身分に留まるべきだとする古い保守的社会観への傾斜を強めました。このため、今言ったように、世俗の職業労働の地位を高めたルターの職業観も、その使命感に歯止めがかかり、積極的・実践的意味をもたないままで終わってしまいました。

 ところが、ルターの後に出たカルヴァンが、その神学においていわゆる「二重予定説」=「選びの教説」を説き、この教説よってこの職業使命感に実践的意味を与えることになりました。彼の予定説によれば、人間は神の永遠の決断により、永遠の命か、あるいは永遠の滅びか、そのどちらかに永遠の昔から選ばれ定められていて、誰も、聖職者も教会・聖礼典も、その定めを変えることはできないのです。したがって、予定説は信仰による個人の内面的な孤立化(個人主義化)を生み、各人は永遠の命への選びの確証を得るために自己審査によって確信するほかなくなったのです。そのためには、自己に委ねられた神の召命たる職業労働を遂行することが求められました。なぜならば、隣人愛の精神をもって多くの人々の福祉のために職業労働に励むことこそが、この世において神の栄光を顕す道だったからです。こうして、救いという現世超越的な目標を実現するために、信仰者は世俗内的義務である職業労働に邁進せざるを得なくなります。カルヴィニズムは、この目標の実現を阻害するような欲望、例えば、奢侈的生活をする、娯楽に興ずる、賭け事に熱中するなどには禁欲をもって臨み、逆に勤勉、質素、倹約、周到などの態度をもって、現世の生活を徹底的に合理化しました。つまり、カルヴァンの予定説は、救いの選びの確証を求める各人が世俗的職業生活に励む心理的機動力として働いたということです。そして、その確証は、禁欲的労働、世俗生活の合理化の結果として獲得される富でした。富の獲得は、神の恩恵と考えられ、労働意欲の欠如=怠惰は神の恩恵の喪失の表れと見なされました。ここに近代の企業家が営利活動を「使命としての職業」と見、他方、労働者も自己の労働を「使命としての職業」と見る職業倫理が生まれました。

 こうして、救いという目標の達成に向かって奮励努力することが、まったく意図せずに、「正当な利潤を倫理的義務、また使命として組織的・合理的に追求する精神的態度」、つまり「資本主義の精神」を生み、これが発生期の資本主義発展の推進力となりました、というのがヴェーバーの主張の概要です。

 ヴェーバーの禁欲説は、もともと反営利的性格をもった宗教改革の宗教倫理の徹底化が意図せずして営利追求の態度を生み、ひいてはその結果として富を生み、資本主義展開の道を拓いたとしたのですが、その際、単に資本家・企業家の営利追求の態度だけでなく、労働者の禁欲的・自発的労働意欲も同じ資本主義の精神から引き出されたとしていることは、生産的エートス論としては、資本家・企業家が意欲を欠いた労働者を労働させる発想に立つトーニー説よりも説得的な見解と言えましょう。なぜならば、トーニー説は、資本家・企業家のみが資本主義の精神をもち、労働者は、最初から労働意欲を欠く者として、つまり資本主義の精神の外にいる者として捉えているのに対して、ヴェ-バー説は、労働者の労働意欲の価値を、資本家・企業家が正当に評価せず、まさに「搾取」しているところに、資本主義が成り立っているという資本主義の根本的矛盾を見抜いているからです。 いずれにせよ、営利を倫理的義務として捉え、その結果、営利のための組織化・全生活の合理化が行われたことは、ヨーロッパ以外、世界の他の地域では見られなかったという事実は、近代資本主義の担い手となったヨーロッパ人が世界の他の地域の人々とは違った物の見方や考え方をしたということを物語っています。自然科学や民主主義を生み出した力と同じ力が、近代資本主義の興隆においても作用したと捉えざるをえません。それは、つきつめれば、ヘブル・キリスト教的伝統によって培われた自然と歴史に対する積極的介入・関与の態度が、ここにも強く働いたと捉えざるをえないということです。

c 産業革命から帝国主義へ

c-1 産業革命

 資本主義は、これまでの道具を用いた家内制手工業に代わる機械を用いた工場制工業による生産の飛躍的発展によって完成されるに至ります。18世紀のヨーロッパでは、農業革命(15,16 世紀の牧羊のためのエンクロージァーを行った第1次農業革命と区別し、第2次農業革命のことで、農業技術の革新、開放耕地制度からエンクロージァーによる大規模経営への転換、これに伴うヨーマン層の両極分解が引き起こされ、地主と農業資本家と農業労働者の成立を見、さらに工業上の革命のためのプロレタリアートを準備しました)の進展により、一般的な人口増加と生活水準の向上によって、より大規模な通商と生産の要求が高まってきましたが、より多くの商品をより早く生産する必要は、一連の技術革新を促しました。

 繊維工業の分野では、綿糸紡績業における作業機械の発明があります。1764~67年、ハーグリィヴス Hargreaves(? ~1778年) のジェニ紡績機。これは一人で 8本の糸が紡げた。その後さらに改良され一人で80本の糸を紡ぐものになりました。これで生産される紡糸は細いが弱く、緯糸に適していました。1769年、アークライト Arkwright(1732~92年) の水力紡績機。これはそれ以前ルイス・ポール Lewis Paul により発明されたローラー紡績機を受け継いで改良を加え大規模な企業化に成功したものです。これで生産される紡糸は強いが粗く太く、経糸に適していました。1779年、クロンプトン Crompton (1753~1827年)のミュール(騾馬の意=走錘)紡績機。これはジェニ紡績機と水力紡績機の発明の原理を結合させたもので、細く強い紡糸の生産に成功しました。1785(87)年、カートライト Cartwright の力織機。これは水力紡績機にヒントを得て、織布に蒸気機関を使用したもの。糸が切れた時には自動的に停止するもの。飛び梭の 3.5倍の能力をもつといわれています。さらに1825年、ロバーツ Roberts(1789~1864年) の自動ミュール紡績機。これによって紡績業は専ら工場に集中され、前貸問屋制の終焉をもたらしました。アメリカ人ホイットニーWhitney(1765~1825年) の繰綿機(処理の困難な青種棉の処理能力を50~300倍とし、人件費を1割以下とした)の発明も加えておきます。これらの発明によって、紡績業界の生産量を一層増大させました。特に木綿工業が毛織物工業を凌いでランカシァを中心に発展し、次いで毛織物工業は、19世紀に入ってヨークシァを中心に発展しました。

 蒸気機関の発明については、まずニューコメン Newcomen(1663~1729年) が、1698年にセーヴァリが発明した蒸気機関を1710年に実用化しましたが、これはシリンダーと冷却器が共用なので、熱効率が低く、燃料消費量が過大で、炭鉱の排水用にしか使用できませんでした。やがてワットWatt (1736~1819年) がグラスゴー大学からニューコメン機関模型の修理を依頼されたのを期に大改良を決意し、1765年にシリンダーと冷却器を分離する着想をえ、69年に特許を取得。75年に高性能の機関を完成しました。この機関の石炭消費量はニューコメン機関の約7分の1でした。そして81年には、複動機関を発明、つまりピストンの往復運動を回転運動に変えることに成功しました。これによって、従来は単なるポンプ動力であった蒸気機関は、工場動力・運輸動力となる可能性がひらけ、機械の時代を到来させました。蒸気機関は初め鉱山の排水用に作られましたが、こうして工場の動力として使用されるようになり、1790年代には作業用の動力として水力に挑戦するようになりました。ワットのこの偉大なる発明の蔭に、鉄鋼業の発達、とりわけ、ウィルキンソンWilkinson (1728~1808年) が1774年に特許を得た、中ぐり盤を使用して製作した鉄製のシリンダーの演じた役割を見逃すことはできません。しかし、当時まだ工作機械はできていなかったため、それが短時日に広範な普及を見ることはなかったのです。

 鉄鋼業の分野では、まず、1709年、ダービー Darby(1676~1717年) が従来木炭によって行っていた銑鉄の溶解を、コークスによって行うことに成功しました。また、1784年、コートCort(1740~1800年) が木炭にかえて石炭を燃料として良質の棒鉄を生産することに成功しました。この二つは極めて重要です。これによって、不足を告げられていた木炭に代わる燃料として、豊富かつ低廉な石炭の使用が可能になり、鉄の価格も安価となり、同時に従来燃料のために森林地帯にあった鉄工場が、炭田地帯に移ることになったからです。

 その他1760年のスミートン Smeaton(1724~92年) による送風炉の発明、1769年、先に触れたワットが改良したニューコメンの蒸気機関による送風法の変革、1828年、ニールソンNeilson(1792~1865年) の熱風の使用などの発明によって、銑鉄生産は19世紀30年代以降さらに飛躍的な発展を約束されたのです。鋼の製作については、1740~42年、ハンツマンHuntsman(1704~76年) のルツボ鋼の発明がなされました。これは、武器や刃物の製造に用いられました。鉄鋼業は、需要の関係上戦争と深い関わりをもち、ことにナポレオン戦争による莫大な軍需品の需要によって繁栄しました。1815年の平和回復によって深刻な影響を受けましたが、その反動期を切り抜けて、1820年代に繊維工業機械や工作機械の生産によって平和時態勢に順応することができるようになりました。

 以上簡単にお話ししたような工業上の技術革新は、原料や製品の輸送の必要から交通技術の進歩を促し、逆にそれによって刺激されました。まず道路の改善、運河の開削が行われ、ついで蒸気機関を応用した汽車、汽船が発明されました。汽車では、1814年スティヴンソンStephenson(1781~1848年) が発明した機関車が、1825年ストックトンとダーリントン間の試運転に成功し、鉄製レールの使用による鉄道敷設が完成しました。汽船では、1807年フルトンFulton(1765~1815年) の発明になるクラーモント号がハドソン河のニューヨークとオルバニー間 240㎞を32時間の往復航行に成功し、さらに1819年サヴァンナ号が初めて大西洋を29.5日間で横断しました。企業としても、土地開発や海外植民地経営と緊密に結びついた大資本による大規模経営が行われるようになりました。こうして、産業の発達と交通の発達は相互に助長し合いながら、世界の時間的距離を縮めてゆき、1820年代から1870年代にかけて、世界の工業生産において圧倒的地位を占め、また大量の綿製品、毛織物製品、鉄・鋼製品を輸出する「世界の工場」になっていったイギリス産業資本の制覇を可能にしたわけです。

 こうした技術革新に支えられて、当然のことながらこれまでの手工業に適した家内制生産法に代わり、機械を導入した新しい大工場による生産法への転換が起こり、その結果資本家は巨大な利益を獲得し、それを再投資することによって、さらに大きな利潤を得るようになりました。このようにして、貧富の差は一段と大きなものとなり、己の肉体以外一切の生産手段も資本ももたない賃金労働者は賃金と引き換えに自分の労働力を商品として売り、それによって生活資料を手に入れる、しかも、資本家により、労働力としての商品価値をたえず正当に評価してもらえない、つまり資本家の搾取に甘んずる他に生きてゆくすべがありませんでしたが、他方、企業家たちは、自分たちの利益を守るために、これまでの国家との協同をやめ、国家によるすべての干渉・統制を排除することを求め、国家の経済政策の転換を促しました。これが、1845・46年のビール関税改革、46年の穀物法廃止、49年の航海条例廃止などに表現された「自由放任=Laissez-faire 」経済政策であり、それに理論的根拠を与えた者がアダム・スミス Adam Smith(1723~90年)でした。


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