2013年3月17日 主日礼拝

「命に至る道」  川﨑 恵 牧師

ヨハネによる福音書第12章20~33節

主イエス・キリストが十字架におかかりになるために、ユダヤ教の神殿のあるエルサレムに来られたときのことです。エルサレムは過越祭というユダヤ教の祭りのためにごったがえしていました。そこに、主イエス・キリストがこられました。今日の箇所の前の一二節を読むと、「祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って」イエス様を賛美したとあります。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」大勢の人々がろばに乗っている主イエス・キリストをほめたたえて歌いました。人々は、イエス様がラザロを死からよみがえらせたことをきいて、この方こそ私達を死から救ってくださる新しい王なのだと思いました。この方こそ、旧約の時代から私達が待ち望んでいた救い主なのだ。
 その時、その大群衆の中に、遠いギリシアから来た人たちがいて、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と主イエスの弟子のフィリポに頼んだというのです。
 これはとても不思議なことです。ギリシアの人はギリシアの神々を信じています。神様を礼拝するために、なぜエルサレムに来ているのでしょうか。そして、なぜ主イエスにお目にかかりたいと思ったのでしょうか。当時ギリシアとユダヤの国は敵対関係にあったようです。それなのに、なぜ彼らはここにいるのか。
 わたしは何度もこの箇所を読むうちに イエスにお目にかかりたいと願うギリシア人にぐっとひきつけられていきました。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです。」どうして、ギリシアの人たちがフィリポにそう頼んだのかわかりません。けれども、とても切実な思いがこめられているような気がしたのです。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです。」どうしてもイエス様にききたいことがあるのです。あなたは神様なのでしょうか。私の救いはどこにあるのでしょうか。
大勢の群衆の中で、何の面識もなく、しかもギリシア人であるのに、イエス様に会いたいと弟子に声をかけるのはとても勇気がいることです。彼らは切実な思いで、意を決してフィリポに声をかけたにちがいありません。あのイエス様のそばにいる人たちはきっとイエス様の弟子にちがいない。あの人に、主イエスにお会いできないか頼んでみよう。そう思って、勇気をだして、フィリポに声をかけたのかもしれない。
 「イエスにお目にかかりたいのです。」
 私は、自分が大人になって初めて教会に来たときのことを思いだしました。とても緊張しました。教会学校に通い続けた高校時代から十年以上がたっていました。子どもの時には毎週あたりまえのようにくぐっていた玄関がとてもこわいのです。入っていいのだろうか。入ったらどうしたらいいのだろうか。皆さんが初めて教会に来たときはどんなかんじだったでしょうか。とても緊張されたのではないでしょうか。その頃は、イエスさまのことなど全くわからなかった。けれども、心のどこかで真剣に神様を求めて、教会に来られたのではないでしょうか。
 皆さんの中には、小さいときからあたりまえのように教会で育ってこられた方もおられます。けれども、そのような方も、そのあたりまえのように送っていた教会生活の中で、ある時から、真剣に主に問い始められた時期があったのではないでしょうか。「あなたは本当に私の救い主なのでしょうか。私はあなたを信じるべきでしょうか。あなたはどのようにして私を救ってくださったのでしょうか。あなたに本当にお目にかかりたいのです」と祈り始めたときが。
 ギリシア人に声をかけられて、フィリポは弟子の仲間のアンデレに相談しました。ギリシアから来た人たちがイエス様に会いたいと言っているのだが、どうしたらよいだろう。私達の教会でも同じような光景をみることがあります。新しい人が来た。どうしたらいいのかしらと近くにいる人に相談して、牧師に相談しようということになり、「先生、新しい方が見えました」と牧師が呼ばれる。それと同じようにフィリポとアンデレもどうしたらいいのだろうと困惑しながら、イエス様のところに行って、事情をお話したようです。「イエス様、ギリシアから来た人がお目にかかりたいと言っておられます。どうなさいますか?」
 すると、イエス様は23節以下の御言葉を語られたというのです。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」
 不思議なことにイエス様がこのギリシア人に会ってくださったといったことはここには記されていません。でも、この後29節に「そばにいた群衆は」という言葉があるので、このギリシア人たちも含めて、イエス様を囲んでいるみんなにこのみ言葉を語りかけてくださったのではないでしょうか。
 「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」
この御言葉をとおして、イエス様はこれから私達のために十字架にかかって死なれることを宣言されました。あなたにお目にかかりたいのですと会いに来たギリシアの人たちのために、イエス様のそばにいる弟子たちのために、ユダヤ人のために、そしてギリシア人をはじめ神様を知らない全世界の人のために、主イエス・キリストはこれから一粒の麦のように十字架にかかって死ぬと言われました。土の中に落ちた麦は、死んで芽を出し、葉をおいしげらせ、花をつけ、たくさんの実をつけます。その実のように、主イエス・キリストから大勢の新しい命が生まれることを祈られて、主イエス・キリストは十字架にかかって死ぬと言われる。
 『マリア』という映画を観たことがあります。神の子イエス・キリストがマリアとヨセフという夫婦の子どもとして生まれるまでの聖書の記述に基づいて創られた映画です。簡単に言えばクリスマスのことを描いた映画です。その映画のシーンで、イエス様が成長されたナザレの村の人々が色づいた麦を刈り入れ、たくさんの麦の殻が雪のように空に舞うシーンがありました。たくさんの麦を収穫して、村人がうれしそうにしている。その村人を祝福するかのように、たくさんの麦殻が空を舞う。そこに、おなかにイエス様を宿した母マリアが親戚のエリサベトの家から戻ってくる。今日の御言葉を読みながら、そのシーンを思い出しました。主イエス・キリストはマリアから生まれて、あの美しい麦畑のあるナザレの町で育ってくださいました。そして、大きくなられて、私達という実りを神様が収穫なさるために、一粒の麦のように、地に落ちてくださるのです。
 イエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。「人の子」とは、救い主のことです。本当に人間の子どもとして生まれてくだり、その方がいよいよ神様の栄光を受ける時が来た。神様が喜んでくださるその時が来た。それはどのようなものかというと、イエス様が一粒の麦のように死んでくださることをとおしてだと言われるのです。
 もしかしたら、イエス様はフィリポとアンデレからギリシアの人達が会いに来たのを聞いて、いよいよご自分が十字架にかかることを悟られたのかもしれません。イスラエルでの私の務めはもう終わる。いよいよ私は死ぬ。そして今度はギリシアの人達も、まだ神さまを知らない世界中の人達も、神さまのもとに帰ってくる時が来た。だから、「人の子が栄光を受けるときが来た」とそう宣言されたのではないかと思うのです。
 イエス様は続けて「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と語られました。
 まさにイエス様はこの御言葉のとおり、ご自分の命を憎むかのように命を献げようとしておられます。私達が救われることを祈られて、死のうとしておられます。
けれども同時に、この「自分の命を愛する者は、それを失うが」という言葉は、この御言葉のとおりに生きることのできない私達の罪の姿をくっきりと表します。
 罪に汚れた私達人間は、どうしても自分の命を愛してしまうのです。
 誰かを愛しなさいと言われても、愛せない自分がいる。誰かを助けなさいと言われても、そのために損をすることができない。自分の命や立場、時間やお金を捨てることができません。
神様は聖書を通して、七の七十倍人を赦しなさいと言われました。何回でも、何回でもあなたは人を赦してあげなさいと言われます。けれども、私達は自分を傷つけた人をなかなか赦すことができないのです。
取り繕っていても私たちの心の中を神様はご存知です。私たちは家族を愛し、また誰かのために仕事をしている。けれども、心から相手を愛しているか、相手のために死ぬことができるかと言われると、やはり自分の命を愛してしまう自分に気づかされるのです。
私達はイエス様のように自分の命を憎むことができない。イエス様のように、犠牲になることができない。喜んで損をすることができない。
そして、そのように自分の命を愛する者は命を失うと言われるのです。
 私達はどうしたらいいのでしょうか。どうしたら私たちは救われるのでしょうか。どうしたら自分の命を愛することから解き放たれて、神さまの赦しを受けて生きることができるのでしょうか。
 私はずっとイエス様に問い続けました。そして、主が私に教えてくださったのです。
 私達は命を失い、滅びる者なのだ。だからイエス様は地に落ちて死んでくださる。そのような私達のために主イエス・キリストは死んでくださったのだ。
この先の12章31節以下で、主イエスはこのように語られました。「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
ある説教を読んでいたら、その説教者がドイツのある教会でとてもめずらしい十字架を見たという話がありました。その教会の十字架にかかったイエス様は、釘をうたれた手を前の方に垂らしておられた。どうして前の方に垂れているかというと、すべての人を自分のもとへ招きよせようとしているというのです。
神様から離れ、自分の命を愛し、神様を憎み、人を憎み、滅びに向かっていた私達を、ご自分のもとへ引き寄せようと、主イエス・キリストはご自分の命を憎まれたのです。
その説教者は、この箇所について語られたある説教の題が「すばらしい不思議な磁石」となっていたと紹介していました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言われたイエス様はぴたっと私達に磁石のようにくっついてしまわれて、私達はイエス様と離れることができないものになったのだというのです。
イエス様は26節以下でこう語ってくださいました。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
私は、この説教の準備をしながら、この御言葉に出会って胸がいっぱいになりました。自分の部屋で、一人説教の準備に苦しんでいる私は、今、イエス様のところにいる。天におられ、父なる神様のもとにおられるイエス様と共にいる。イエス様に救われ、イエス様に仕えている私は今、イエス様のいるところ、神様のところ、天にいるのだ。そして、このイエス様に仕えるわたしを、イエス様の後を歩むわたしを、大切にしてくださると父なる神様が語りかけてくださった。
この「大切にする」と翻訳された言葉は、「尊敬する」「敬意を表す」とも翻訳することができる言葉です。神様がイエス様に仕える私達に尊敬という言葉を使ってくださっているのです。なんと畏れ多いことでしょう。
こうして、イエス様を仰いで礼拝している私達にイエス様がぴったりくっついていてくださっている。そして「大切にする」と神様が語りかけてくださる。教会にいるときだけではありません。ここから教会を出て、私達はまた新しい一週間を生き始める。イエス様に従って、家族に仕える私達にぴったりイエス様がくっついてくださっている。その私を「大切にする」と神様が語りかけてくださる。自分をそぎ落とすようにして、仕事をしている私達にぴったりイエス様がくっついてくださっている。その私を「大切にする」と神様が語りかけてくださる。動けるときだけではありません。病の中で、じっとイエス様に従っている私達にぴったりイエス様がくっついてくださっています。その私を「大切にする」と神様が語りかけてくださいます。
それは、一粒の麦が地に落ちてくださったからです。地に落ちた麦、主イエス・キリストがその命によって、私達に天を開いてくださったからです。イエス様の命のゆえに、私達の罪は赦され、私達の前に天が開け、私達は神様の実りとなりました。
「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
この御言葉のとおり、神の御子イエス・キリストの尊い命がささげられ、この世の支配者、私達を捕らえていた悪魔は退けられ、主イエス・キリストは死からよみがえられ、主イエス・キリストが、天も地も支配してくださる新しい王となられたのです。
そうして、私達は一人ずつイエス様に引き寄せられ、イエス様のものとされました。
どういうわけか、私達一人ひとりに「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」という心が与えられました。その日のことを皆さんは覚えておられるでしょうか。それはいつだったでしょうか。どんな時だったでしょうか。イエスにお目にかかりたいのです。そう申し上げた私達に主イエス・キリストは両手を前に伸ばして、私達を引き寄せてくださり、イエス様のものとしてくださったのです。
この日「イエスにお目にかかりたいのです」と言ったギリシアから来た人たちは、そのままエルサレムに残ったかもしれません。そして、このエルサレムで主イエス・キリストが十字架にかかられたのを見たかもしれない。そして、それから三日の後に死からよみがえられたことをきいたかもしれません。そして、ペンテコステの日に聖霊が降り、ペトロが語りだした説教をきいたかもしれません。
「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」このイエスを「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
その言葉をきいて、信仰の目が開けて、よみがえられたイエス・キリストに出会えたかもしれません。両手を広げ、自分を引き寄せてくださる主イエス・キリストに出会うことができたかもしれません。その説教をきいたたくさんの人々と共に。
ここに集まっている私達にも同じことが起きました。私達もここで、イエス様にお目にかかりました。イエス様を信じる心を与えられて、洗礼を授けられ、私達はイエス様と共に生きる者へと変えられました。
 そして、今度は私達のところに人々が訪ねてきます。
「本当に神様はおられるのでしょうか。」「救い主はここにいるのでしょうか。」「ここで語られていることは本当なのでしょうか。」「私達の人生に望みはあるのでしょうか」「イエスにお目にかかりたいのです。」
イエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われました。
 私達は訪ねてきた人々にその実りを示すことができます。その実りはここにあります。こうして、イエス様を礼拝している私達はイエス様が死なれて、実った実りなのです。
 私達はこの恵みを人々に伝えることができます。「あなたもこの恵みにあずかることができます。あなたもイエス様と一緒に生きることができます。今も、これからも、死んでからもイエス様は私達にぴったりとくっついて一緒にいてくださいます。私達は自分の命を愛する罪の者でした。けれども、今度は自分の命を憎み、神様を愛し、人を愛して生きる、本当の命の道を私たちは生きることができる。そして、そのようにイエス様に従う私達を神様が大切にしてくださるのです。」
 そして、私達はイエス様にお願いすることができます。「イエス様、この方があなたにお目にかかりたいと言っておられます。どうか、イエス様、お会いになってください。」
 そして、主イエス・キリストはおっしゃってくださる。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」なんとうれしいことでしょう。主に感謝して、祈りをささげたいと思います。
 主イエス・キリストの父なる御神様。御言葉を心から感謝いたします。あなたから離れ続けていた私たちを憐れみ、赦し、あなたの元へ引き寄せようと主イエス・キリストのお姿で来てくださり、地に落ちて死んでくださったことを心から感謝いたします。あなたが新しい命を私達に与えてくださり、あなたの実りとしてくださったことを心から感謝いたします。私達がイエス様にぴったりとくっついて歩くことができるようにしてくださり、その私達一人ひとりを大切にすると仰ってくださったことを心から感謝いたします。あなたが命を捨ててまで、私達を大切にしてくださったことを私たちが忘れないようにしてください。そしてこのあなたの愛をまだ知らない人に、私達がお伝えすることができますように。なおも両手を前に広げてすべての者を招こうとしておられるあなたの御心が成し遂げられますように。私達もあなたの後に従って愛の御業に仕えることができますように。あなたが私達を愛してくださいましたから、私達もあなたを愛します。どうぞ私たちの命をお受け取りください。この祈りを尊き主イエス・キリストの御名をとおして御前にお献げいたします。アーメン
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