2013年3月31日 主日礼拝

「イエスは生きておられる」  川﨑 公平 牧師

 ルカによる福音書第24章13-35節

 
ルカによる福音書の最後の章、第24章の13節以下を読みました。主イエス・キリストは、死者の中からお甦りになりました。そのことが起こったちょうどその日の夕暮れ時に、エルサレムからエマオという村に向かう道の途上での物語であります。たいへん美しい、また感動的な物語であり、多くの人が、このルカだけが伝えるお甦りの主イエスとの出会いの物語を愛してまいりました。たとえば多くの画家たちが、この場面に心揺り動かされて、それを絵に描いてまいりました。皆さんの中にも、そういう絵を御覧になったことのある方がいらっしゃるでしょう。個人的なことで恐縮ですが、私の家の玄関にも、日本人の描いたエマオ途上の絵が飾られています。9年前に私ども夫婦が結婚いたしましたときに、妻の親戚の中に画廊で働いている者がおりまして、どういうつてであったか、その絵をいただくことができました。素朴なものですが、気に入って今でも飾っています。夕暮れの道を、イエスさまを真ん中に、その右と左に、ふたりの人が語り合いながら歩いている。何を語り合っているのかなと思います。
このルカによる福音書が伝える物語は、たいへん豊かな内容を持つものであり、その語るところを一回の説教ですべて説き明かすことはもとより不可能だと思っております。特に今日は、さまざまな事情が重なり、絶対に説教は長くなってはならないことになっていますから、ますます厳しい。けれどもまた、ここで福音書が伝えている恵みは、言ってみればとても単純なことであって、たとえば玄関で家を出入りする時にも、ふとその絵を振り仰ぎ、思い起こすことができるようなものです。ああ、イエスさまは生きておられるのだ。今わたしと一緒に歩いていてくださる。日曜日、教会に来る時だけではない。たとえば家に出入りするような時にも、あるいは家で食事をするような時にも、主イエスはこの食卓にも一緒に着いていてくださる。まずそのように読むことが許される聖書の記事だと思います。
最近、ある集会で、この聖書の記事を教会の人たちと一緒に読む機会がありました。その集会に出席しておられたある方が、たいへん感激しながら、こういうことを言われました。「わたしはルカという人に、本当に感謝したい。こんなにすばらしい出来事を伝えてくれて」。本当にそうだと私も思いました。こういう聖書の言葉が私どもに伝えられているということ自体が、神の大きな恵みだと思います。そしてこのルカという人は、最初から、この記事を書いたその時から、教会の仲間たちのこころに語りかけるような思いで、これらの言葉を書いたと思うのです。私も牧師としてさまざまなところでこの聖書の記事を説いてまいりました。さまざまな思い出と結びついている聖書の言葉であります。まだ洗礼を受けていない人が大多数という中学生、高校生たちを招いてこの聖書の記事を説いたことがありました。年老いてもう教会堂には来ることができなくなってしまった人を訪ねて、そのベッドの傍らで、耳もとで語りかけるようにして、この聖書の言葉を読んだことがありました。本当に思いがけない仕方で突然家族を喪って、葬儀の時にも涙が止まらないという遺族の人たちのこころに語りかけるように、このエマオ途上での出来事を説いたこともあります。
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。……
ルカはそのように書きながら、今生きておられるキリスト、今共に歩いていてくださる主イエス・キリストを紹介するような思いでこのように書いたのだと思います。すぐに目が遮られて、そのことが分からなくなってしまう教会の人たちのこころをよく理解しながら、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められたんですよ。けれども、二人の目は遮られていて、分からなかったのです。あなたのことですよ。どうか気づいてほしい」。
ひとつそこで自然と生まれる疑問は、なぜこのふたりの弟子は気づかなかったのか、ということです。お甦りになった主のお顔は、あるいは声や話し方は、かつての主イエスとは全然違っていたのでしょうか。そんなことはありません。同じイエスさまです。十字架につけられた時の傷も、そのままに残っていたのであります。そういう方と面と向かって話をしながら、何も思わなかったのでしょうか。おや、もしかして、と思わなかったのでしょうか。ルカはここで単純に、「二人の目は遮られていて」と言います。なぜ遮られていたのか。25節では、主イエスはこうも言われました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」。心が鈍いのです。この心の鈍さとは、何を意味するのでしょうか。
この聖書の言葉を読みます時に、もうひとつ不思議なことがあります。このふたりの弟子は、暗い顔をして歩いていた。先ほど1回目の礼拝を終えた後に、玄関である方から声をかけられました。「先生、口語訳では『悲しそうな顔』となっていましたね」。その通り、「暗い顔」とも、「悲しい顔」とも訳すことができる言葉です。なぜ顔が暗かったのか、なぜ悲しそうだったのか。しかしこれは問うまでもないかもしれません。主イエスにすべての望みをかけていたのに、この方は十字架というまことに悲惨な仕方で死を遂げられた。暗い顔になるのは当然だと言えるかもしれません。けれども、この福音書の記事をよく読みますと、このふたりの顔が暗かったのは十字架の出来事が起こったからだとは、書かれていないようです。少なくともそれだけが理由だというのではなさそうです。むしろこの福音書の書き方からすると、主イエスの復活の知らせを聞いたがために、ふたりの顔は暗くならざるを得なかった。22節以下であります。「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。彼女たちが朝早く墓に行ってみると、イエスの遺体がなかった。それで仕方なく帰って来たと言うのです。いや、それどころかもっと驚くべきことがあるのです。天使が彼女たちの前に現われて、『イエスは生きておられる』と告げたというのです。それで仲間たちが改めて墓に行ってみると、婦人たちの言った通りでイエスの遺体はありませんでした」。
私どもが信じ、受け入れているキリスト復活の教えを、このふたりも丁寧に語ることができています。けれどもこのふたりは、この復活の知らせを、つまり福音を、明るい顔で語ったのではないのです。暗い顔で語ったのです。なぜだろうか。これはこの箇所を説き明かす多くの学者たちが指摘し、不思議に思うところです。しかし私は改めてそのことを考えながら、私どもにこのことは分かりにくいことであろうか、むしろ私どもの生活によく即していることではないかと思いました。現に今ここで、私の言葉を通して、「主は甦られた」という言葉を聞いていても、そのことを信じても、皆さんの暗い顔がたちまち明るくなるわけではないでしょう。違いますか。そういう私どもに主イエスはおっしゃらないでしょうか。「心が鈍い人よ、どうして聖書の言うことを信じられないか。その暗い顔は、いったい何ですか」。
私自身もそうです。玄関にエマオ途上の絵を飾っているなんて言いましたけれども、ちょっと悲しいことがあっただけで、主がお甦りになったなんていうことは、限りなくどうでもいいことになります。不愉快なことがあった時に、イライラしている時に、けれどもはっと玄関の絵を見て気づく。「ああ、イエスさまが一緒にいてくださるではないか」……などというような、いかにも説教ネタになりそうな、美しい生活を少なくとも私はしておりません。絵のことなんか忘れっぱなしです。もし思い出したとしても、それで暗い顔がたちまち明るくなるわけではないのです。
このふたりの弟子が、「イエスは生きておられる」という天使の言葉を、明るい顔ではなくて暗い顔でしか語れなかったということ、これはしかし教会に生きる私どもが骨身にしみてよく分かることではないかと思います。そこに私どもの心の鈍さがあるのです。けれどもそのような私どもの鈍い心に語りかけるように、ルカはこの物語を私どもに伝えてくれました。何よりも、今生きておられる主イエス・キリストが、私どものこころに語りかけるように、聖書を説き明かしてくださった。その時に、31節にあるように、ふたりの目が開け、「イエスだ。このお方は、イエスさまだ」ということが分かる。主イエスご自身が目を開いてくださらないと分からないのです。しかしどこでそのことが起こるのでしょうか。
先ほど、同じ顔であるはずのイエスさまが近づいたのに、なぜこのふたりは気づかなかったか、ということを申しました。けれども逆に申しますならば、もうひとつ不思議なことは、もし気づいていなかったならば、主イエスの方から、「わたしだよ」と自己紹介をしてくださってもよかったのではないかとも思います。ほら、わたしだよ、この顔に見覚えがあるでしょう、と言ってくださってもよさそうです。しかし主イエスは、どうもそういうことはしてくださらない。ちょっと不親切だと思わないでもありませんけれども、そこで主イエスがひたすらにおっしゃったことは、「聖書を読みなさい」ということです。「モーセとすべての預言者から始めて」というのは、旧約聖書の創世記から始めて、ということです。聖書全体を説き明かしてくださった。もう一度聖書を読み直しなさい。これはある意味で、私どもにとって大きな慰めであると思います。なぜかと言えば、私どもは、このふたりの弟子とは違って、主イエス・キリストを肉眼で見ているわけではないからです。けれども私どもが本当の意味で、主イエスのお甦りを信じるためには――「本当の意味で」というのは言い換えれば、暗い顔が明るい顔に変わるような信じ方をするためには――他のいかなる方法にもよらず、主ご自身を肉眼で見ることによるのでもなく、ただ「聖書を読みなさい」。それだけでいい。主イエスは、聖書を説き明かしながら、ご自身の甦りは確かな神のご意志に基づくものであることを明らかにしてくださいました。それは言い換えれば、「ここにわたしがいる。あなたと共にいる。それは、神のご意志に基づくことなのだ」ということです。「わたしは、あなたと共にいる。その意味が分かるか。この神の愛が分かるか。聖書を読めば分かる。その聖書の語るところに心を開け」と言うのです。
私よりも少し先輩のある牧師が、その著書の中でこういう文章を書いていました。聖書に出てくるいろんな人物を取り上げた、エッセイ風の文章を集めた書物なのですが、このふたりの弟子のひとり、クレオパという人のことを取り上げながら、「最近日記をつけ始めた」と書き始めるのです。生まれつき几帳面な性格ではないので、日記をつけそこなって、何日分かをあとからまとめて書くということがある。それでたとえば、先週の金曜日何があったかな……思い出せないと、奥さんに聞くというのです。その奥さんも日記をつけていて、自分の日記を調べて、こういうことがあったと教えてくれる。そこまでして日記をきちんと書くというのは、かなり几帳面ではないかと思いましたけれども。そこで私がおもしろいと思いましたのは、妻と一緒に過ごしていたはずなのに、日記に書くとずいぶんと様子が違う。同じことをして過ごした夫婦とは思えないと言います。「私たちはいつも一緒だったのに、二人は別々の物語(おもいこみ)を、それぞれ作り上げては満足していたんだろうか」。そう言うのです。「物語」という言葉に「おもいこみ」とルビが振ってあります。日記というのは要するに、自分の思い込みと自己満足によって作られているものではないか。そう言いながら、このクレオパもそうだったに違いないと言うのです。
このクレオパが暗い顔をして歩いていた時、見知らぬ旅人がそれに加わり、いったい何を話しているのですかと問われた時……クレオパは自分の日記を開くようにして、おや、あなたは何もご存知ないのですか。ならばわたしの日記を読ませてあげましょう。これこれのことが起こって……と暗い顔で話し出す。主イエスもまたその話にしばらく耳を傾けてくださりながら、けれども、「ちょっと待て。わたしの日記にはずいぶん違うことが書いてあるぞ。あなたの日記よりずっと面白いからそれを読ませてあげよう」。教会に来て聖書の言葉を聴くというのは、そういうことだと言うのです。
この文章に題がついていて、「あなたの日記はしばらく閉じて」というのです。私どもの日記。こんなことがあった、あんなことがあったと、そこに暗い顔が生まれてきてしまうような、あなたの日記はちょっと閉じなさい。神さまの日記を読みなさい。モーセから始めてすべての預言者にわたって記されている、神の壮大な物語を聴きなさい。聖書を読むというのは、私ども自身の思い込みに過ぎないような自分の物語を捨てて、神の現実を受け入れることです。それは言い換えれば、暗い顔を捨てて、主が共におられるという喜びの現実を受け入れるということでしかないのです。
ここで主イエスが物語ってくださった聖書は、よほどおもしろかったのだと思います。あとになって、このふたりは申します。32節です。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。これもたいへん不思議な言葉であります。そのときにすぐに気づくような心の燃え方ではありませんでした。あとになってようやく気づくような、静かな心の燃焼でした。けれども実に確かな、心が熱く燃える経験をしたのです。
私は今日の説教の準備をしながら、これまでに語ってまいりましたような黙想を重ねながら、改めて玄関に掛けっぱなしの絵を眺めてみました。田中忠雄という人の絵です。ご存じの方はいらっしゃるでしょうか。改めてインターネットで他の作品も眺めてみましたが、総じてこの人の絵は、人の顔の表情を細かく描くような描き方ではありません。顔の輪郭をさらっと描いてあるだけ。それだけで情景がよく伝わってくるのだから不思議です。顔も分からないで、なぜこの人がイエスさまだと分かるか。真ん中の人が白い服を着ているから。白い服を着ているからにはイエスさまだろう、両側の白くない服を着ているのがクレオパともうひとりの弟子であろう。とにかく表情はよく分からない。見る人の想像にまかされているのかなと思います。けれどもこの聖書の記事からすると、おそらくこのふたりの表情は、まだ暗かったのではないかと読み取ることが許されると思います。けれどもそのふたりのために、主イエスは聖書を説き明かしてくださる。
そしてその絵を見ながら、はっと気づきました。このふたりの顔はまだ暗いけれども、その心は既に燃え始めているのだ。不思議な言葉ではないでしょうか。けれどもまた、まことに慰め深い言葉ではないでしょうか。私どもも、何をするのでもない、聖書を読めばよいのです。聖書を読みながら、私どもは気づかされます。自分がどんなに暗い顔をしていたか、その自分の暗い顔がまるで鏡に映し出されるように聖書に書かれているのに気づきます。けれども、あとから分かるような燃え方でもいい、既にあなたの心は燃えているではないか。聖書の言葉によって。ルカもまた、牧師として呼びかけるような思いで、この記事を書いたと思います。聖書を一所懸命説き明かしながら、……「あなたの心は、既に燃えていたではないか」。どうかそのことに、気づいていただきたい。
そのような、自分でも気づかないほどの静かな心の燃焼に促されるようにして、主イエスがなお先に行かれる様子だったので、このふたりは慌ててこれを引き止めたのであります。「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」。それに応えて主イエスは一緒に食卓に着いてくださった。その時です。30節。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」。その時に気づくのです。ああ、このお方は、お甦りになったイエスだ。けれども不思議なことに、ふたりが気づいた瞬間に、イエスのお姿は見えなくなりました。なぜなのでしょうか。もうふたりにとって、見る必要がなくなったからだと私は思います。その証拠に、このふたりは、主のお姿が見えなくなったことを嘆いてはおりません。もうずいぶん前から始まっていた心の燃焼に改めて気づくように、心燃えるような思いで、喜びに溢れて、エルサレムへ急いで引き返します。この喜びを仲間たちに伝えるために、今日来た道を引き返したのであります。
エルサレムからエマオへ通じる、同じ道を通ったに違いないと思います。数時間前、逆の方向に歩いていた道を。既に日は落ち、暗くなったその道を歩きながら、このふたりは何を思ったであろうかと思います。まだ日が出ている頃、明るい道をどんなに暗い顔で自分たちが歩いていていたことか。けれども今、どんなに暗い道であっても、燃えるような思いでわれわれは歩いているではないか。道を歩きながら、主の説いてくださった聖書の言葉をも思い起こしたかもしれません。この木の近くでこういう言葉をイエスさまから聞いたね。そう語り合いながらその道を引き返したかもしれません。ああ、ちょうどこのあたりでイエスさまがわたしたちに加わってくださったね。そんなことも思い起こしたかもしれません。その時の自分たちの暗い心が、どれほど深いものであったかを思い起こしながら、けれどもその暗い心を癒すように語りかけてくださった主の愛が、どれほど深いものであったか。心震えるような思いで、60スタディオンという、11キロメートルと翻訳されることがありますが、その数時間の道程を急いで帰ったと思います。そして、道を急ぐこのふたりの弟子と共に、既に主イエスは歩んでくださったのであります。ここに、私ども教会の物語があるのです。
今私どもは、主がご自身のお姿を最終的に明らかにしてくださった聖餐の食卓に共にあずかります。私どもの暗い心、暗い顔を癒すために、主がどんなに心を込めてこの食卓を整えてくださったか。この主の御心に、もう一度心を開きたいと思います。主イエスは今、ここに生きておられるのです。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、あのふたりの弟子と同じように、今共におられる主イエスのお姿に気づかせてください。そこに生まれる悔い改めと感謝をみ前に献げて、この聖餐の食卓にあずからせてください。暗い心を捨てさせてください。燃える心を回復させてください。なお残るさまざまな思い煩いも、この主と共にある食卓においてこそ、癒される経験をすることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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