2012年11月25日 主日礼拝

「愛によって救ってくださった神」 川﨑 恵 牧師

エフェソの信徒への手紙 2章1-6節

 
只今お読みいたしました箇所の先になってしまいますが、10節に「わたしたちは神に造られたものであり」というみ言葉があります。
 この箇所は、前の翻訳の口語訳では、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」と翻訳されていました。
 わたしたちは神様の作品なのだと聖書は語ります。ねんどをこねて、心をこめて作品をつくるように、神様がわたしたちをつくってくださった、だからわたしたちはここに存在しているのだと聖書は教えてくれます。
 私は教会に来て、福音をきくまで私がなぜ存在しているのか、どうしてあの両親から生まれて、このような人生をあたえられているのか、そしてどこに向かっているのか、よくわかりませんでした。よくわからないままに、一所懸命に生きていました。
 けれども、神様はここでわたしたちにどうしてわたしたちが生きているのか答えをくださいます。――あなたがどうして生きているのか。それはわたしがあなたをつくったからだ。あなたはわたしの大切な作品なのだ。――
 みなさんは「たいせつなきみ」という絵本を読んだことがあるでしょうか?パンチネロという木の人形の物語です。
人形たちの中であることがはやっていて、パンチネロは悩んでいました。それは、たがいにシールをくっつけあうことでした。すばらしいことができる人形や、素敵な容姿のお人形には星のシールをみんなでつけました。けれども失敗したり、見た目がすてきではない人形は灰色のだめ印をつけられました。
パンチネロはだめじるしばかりつけられていました。かっこよくなにかをしようとおもっても失敗して、みんなが寄ってきてだめ印をつけ、失敗したいきおいで、かすりきずを負ってしまってつけられ、言い訳をしようとしてつまらないことを言ってまただめじるしをつけられて、そしてパンチネロは家をでるのがおそろしくなってしまいました。また失敗したらまたシールをつけられるかもしれない、そして自分でも自分のことがきらいになってしまったのです。
 そんなとき、パンチネロの前にルシアという人形があらわれます。彼女にはシールがひとつもついていませんでした。パンチネロは素敵だなと思って、星のシールをつけようとします。でもつきませんでした。するっとおっこちてしまう。どうしてきみにはシールがつかないの?ぼくもきみみたいになりたいなあとパンチネロはルシアにききます。すると、ルシアは秘密を教えてくれるのです。それなら、簡単。わたしたちを造ってくれたエリのところに行けばいいのよ。
 パンチネロは意を決して、自分をつくってくれた彫刻家エリのところにいきました。エリはとっても大きくて、仕事場の台もとても大きくて道具もみんな大きくて、パンチネロはこわくなって帰ろうとします。けれども、そのとき、「パンチネロ?」と呼ぶ大きな声がしました。「パンチネロじゃないか!会いにきてくれたんだね」パンチネロはエリがどうして自分の名前を知っているのか聞きます。するとエリは「もちろん、知ってるさ。わたしがおまえをつくったんだからね」とエリはやさしくパンチネロを机の上にのせてくれました。そしてたくさんのだめ印をつけられた姿をみました。パンチネロは「こんなつもりじゃなかったんだ。ぼくいっしょうけんめいやったんだよ」と話します。エリは、パンチネロにいいました。「ああ、なにもかもわかっているよ。いとしい子」「ほかの人形がおまえのことをなんと思うかなんて気にする必要はない」「それよりもこのわたしがおまえのことをどう思っているかのほうが大事なんだよ。そしてわたしはお前のことをとっても大切に思っている」。
 パンチネロはそれをきいて笑ってしまいます。「どうして?いいところなんかなんにもないのに?どうしてたいせつなの?」
 エリはパンチネロをあたたかくみつめて言うのです。「それはね おまえがわたしのものだからさ。だからたいせつなんだよ。毎日わたしはおまえがここにきてくれることをまっていたんだよ」。そして、ルシアにシールがつかない秘密を教えてくれました。あの子はみんながどうおもうかではなく、私のおもうことがもっとだいじだときめたから、シールがつかないんだよ。自分がどんなシールをはられるかきにしているとシールがくっついてくる。おまえがわたしの愛を信じたならシールなんてどうでもよくなる」。
 神様はこのエリのようにわたしたちを造ってくださいました。「愛をこめて。愛をこめて、わたしがあなたをつくった。だから、おまえのことが大切なのだ」と神様はわたしたちにおっしゃってくださいます。
けれどもわたしたちはそこからいつの間に落ちたのでしょうか。
 今日の聖書はこう語ります。「あなたがたは自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」
 「過ち」とあるのは「道をはずれている」ということです。「罪」とあるのは、「的がはずれている」という意味です。わたしたちは造り主からはなれて、はずれた道を、間違った方向に向かって歩き始めてしまった。
 はずれた道とは何でしょう。だめ印や星印にこだわって、つくってくださった神様の愛を忘れたことです。この手紙を書いたパウロは自分もはずれた道を歩いていたといいます。けれどもパウロは自分はパンチネロとは違って、星印をいっぱいつけられて生きてきたんだと言うのです。次のフィリピの信徒への手紙で自分は星印しかつけられてこなかったと言っています。神の掟を守ることにおいて自分は非のうちどころのない人間だった。そうしてみんな自分に星印をつけた。自分も自分は星印だと確信していた。そうして何をしていたかというと神様が遣わしてくださった御子を迫害してしまった。神の子を信じたクリスチャンたちを堂々と殺し、神様に対してとんでもない罪をおかしていた。
けれどもわたしはキリストに出会ったのだ。そんな自分をもなお愛してくださり、自分のために十字架にかかり、死んでくださったキリストに出会ってしまったのだ。そして、わかった。星印だらけだった自分も、この2節に出てくる不従順の霊にひきずりまわされて、不自由であり、死んでいたのだと。
キリストに出会って、星印はぜんぶちりあくたになったのだとパウロはいいます。キリストに出会って自分を愛してくださるそのすばらしさに気づいたら、私にとって有利であったすべてのものが、全部損失になった。わたしはキリストに出会った。わたしを愛してくださる方に出会った。そしてルシアのように自由になったのだ。そしてこの自由を神様は、愛している造られたすべての人に与えてくださるのだとパウロは言うのです。
パウロは神様がおられる天とこの地上に生きるわたしたちの間に、この世を支配する霊がいることを指摘しています。空中に勢力をもち、神に従わないようにさせるものがいる。この先の6章に、その支配者とは悪魔なのだと指摘しています。神に従うことをやめて、はずれた道を歩き始めてしまったあなたがたを悪魔が支配したのだ。そんなあなたたちは死んだも同然だったのだ、と語る。
3節を読みます。「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべきものでした」。
 わたしたちは神から離れ、神の怒りを受ける者となってしまった。
 けれどもわたしたちは教会に来てこの話を聞くまで、自分の歩みがそんなに曲がっていたなんて考えもしなかったのではないでしょうか。キリストに出会う前も一生懸命に生きていたのです。一所懸命に勉強し、一所懸命に人を大切にし、家族を愛し、仕事をして、ここまで歩いてきたのです。わたしたちの歩みのどこが外れてどこが間違っていたのでしょうか。
 けれども、はずれていたのだと聖書は言う。
 パンチネロとあの人形たちをとおして、絵本は神さまから離れた人間のみじめな姿を語ります。神様はたいせつにわたしたちをつくってくださいました。その愛から離れて何が起こったかというと、神様がたいせつにおもってくださっていることがみえなくなり、自分のことも一緒に生きている人も神様が愛し、守り、大切に思ってくださっていることがわからなくなって、そうしてお互いに傷つけ、そして自分のことも愛せなくなりました。そしてどんどん自分をたいせつに思ってくださる方を見失っていったのです。
 わたしたちは神様がつくってくださったたいせつな作品なのに、造り主の愛を失ってしまいました。ですからわたしたちは神様に新しく造り変えていただかなければいけない。そうでないと、すべての人間は神からはなれて、死んでいる状態のままなのだというのです。
 わたしたちを愛しておられる造り主は、罪のために死んでいたすべての人間が生きる道を与えてくださいました。神は御子イエス・キリストの姿となってここに来てくださり、わたしたちが神様のもとに帰る道、新しく造り変えていただける道をつくってくださったのです。
 それは神様のわたしたちへの愛があまりにも大きかったがゆえの出来事だったのだ。神様が一方的にわたしたちを愛してくださったからそのために起きた出来事だったのだ。喜びで胸をいっぱいにしながら、パウロはこの愛について語ります。
 「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座につかせてくださいました」。
 神様は死んでいたわたしたちに命を与えたいと願われました。神さまのみ心は、わたしたちが生きること。
 ここでパウロは、驚くようなことを言います。「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座につかせてくださいました」。
 死んでいるも同然だといわれていたところから、一気に天の王座にまであげられてしまってついていけないような思いになります。飛行機にのって、一気に雲をつきぬけて青空にきてしまったような気がします。けれども神は天から降りてきてくださり、空中に勢力をもつ者に支配されていたわたしたちをそこからひきあげるために、御子イエス様を死者から復活させてくださいました。そして、わたしたちも共にひきあげてくださる。それが神様がキリストをとおしてしてくださったことなのだ。
 わたしたちが死ぬことを悲しみ、わたしたちのかわりに死んで、ゆるしたいと思ってくださった神様は主イエス・キリストをわたしたちの代わりに十字架にかけられました。それほどまでの愛が、わたしたちに生きてほしいと願われる神様の愛が、空中を支配している霊、悪魔に勝ったのです。
 ですから、もうこの力はわたしたちを支配することはできません。
わたしたちはもう神様のもの。わたしたちを愛してくださる神様がわたしたちを支配してくださいます。
 キリストは死からよみがえられました。そしてわたしたちはこのよみがえられた主イエス・キリストに結びあわされます。洗礼を受けたあの時、わたしたちはキリストの命を注がれて、キリストに抱きかかえられて天にのぼるように、天の王座についたのです。
洗礼を受けると、古いわたしたちは水に沈められて死ぬ。そして、神の霊が注がれてわたしたちはキリストのものとなり、キリストと共に天の王座につく。そのようにして神様は愛を込めて作ったすべての人を天へと引き上げてくださったのです。今神様は一人一人に洗礼を授け、この神の恵みへと引き上げてくださっている。
 天にのぼられたキリストは今、神の右の座についておられて、神様の愛がすべてを支配する新しい世界をつくっておられます。神様の右にイエス様はおられる。わたしたちの多くは右手で字を書いたり、ご飯を食べたりします。イエス様は神様の右手になってくださいました。そして全世界全宇宙、神様が作られたすべてのものを、新しく造り変えようとしておられる、その御業によってわたしたちは救われたのです。そして、救われたわたしたちもキリストと共にひきあげられて天の王座につき、キリストの体となって、主イエス・キリストと共に神の国を造っていく。神様はそのようにわたしたちを造り変えてくださいました。新しい神の作品としてくださいました。10節で「わたしたちは善い業を行って歩むのです」と言われている新しい生き方がはじまったのです。
天の王座に就いたわたしたちはキリストと共に神様に仕えて生きる。神様を愛し、神様の御心に従って生きる。雲を突き抜けた青空を天国人として歩き、この世界を神様がすべて神様のものとされるその御業に仕える者とされたのです。神様の愛の支配に仕えるものになったのです。
あのパンチネロは造り主のところに帰りました。
造り主はパンチネロにいいました。「おまえがわたしの愛を信じたなら、シールなんてどうでもよくなるんだよ。ともかくこれからは毎日わたしのところへおいで。わたしがおまえのことをどれくらいだいすきだかわすれないようにね」。
 わたしたちをつくってくださった方がどんなにわたしたちを大好きだか忘れないようにわたしたちは毎日神様のところに行く。その道を神様は開いてくださいました。エリのところに行けばいい。エリのところに戻ればいい。その道をつくるために、キリストは来てくださり、そして、死からよみがえってくださいました。ローマの信徒への手紙はこう語ります。「わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあずかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」。
 わたしはあなたのことがとてもたいせつだとおもっている。そうおっしゃってくださった神様が神様ご自身の命をわたしたちに注ぎ、もう絶対に神様から離れないようにしてくださいました。この神様の愛は死をも超えています。わたしたちが死ぬときも、死んでからもわたしたちを抱きしめてくださっている神様の愛からわたしたちが離れることはありません。
 死をこえていくのだ。一緒に。
 もうあなたとわたしは一緒なのだ。
 これは一部の人におこったことではありません。神様の作品であるすべての人間を神様が愛し、なさってくださったことなのです。今、神様はこの喜びの知らせを神様が作られたすべての人に伝えてくださる。教会が語っているのは一部の人だけへの知らせではないのです。神様が愛をこめてつくってくださったすべての人間への喜びの知らせなのです。
 わたしたちは造り主のもとに帰るときがきた。洗礼を受けなさい。あなたはキリストと共に生かされ、天の王座につくのだ。神のもとへ帰るのだ。
 この説教の準備をしている昨夜、教会員のTさんが息をひきとられました。急にお体が弱られて、神様のもとへ帰られました。息をひきとる二時間ほど前に公平牧師がお祈りにいくことができました。Tさんは一生懸命口を動かして公平牧師と一緒に讃美歌を歌おうとされたそうです。Tさんは本当に神様が大好きなんだなと公平牧師は思った。
 Tさんは神様のみことばをきくことが大好きな方でした。神様を礼拝できないと死んでしまいそうなぐらいでした。お具合が悪くなって教会に来られなくなると、それがつらくてつらくて、どうしても教会に行きたいのだとわたしたちに何度も訴えるような方でした。そして教会に来ることができた日には、イエス様に救われたことがどんなにうれしいことなのかをきらきらした笑顔で話してくださる方でした。キリストがTさんをとらえているのだなといつも思いました。
 それはTさんだけに起きたことではなくて、わたしたちすべてに起こったことです。
洗礼を受けているあなた方は私ともう一緒にいる、そう神様がおっしゃってくださいます。死の力があなたをおびやかすことはもうない。罪の力があなたをひきずりまわすことはもうできない。あなたは私のもの、私と共にあなたはもう天の王座にいる。
 それはどうしてだったのか。ただただわたしたち一人一人を作ってくださった神様がこの上なく、わたしたちを愛してくださっているから。
 神様はおっしゃいます。
 わたしはあなたのことをとてもたいせつだとおもっている。わたしがあなたをつくったんだからね。わすれちゃいけないよ、わたしがあなたのことをとてもだいすきだということをね。
 お祈りします。
 主イエス・キリストの父なる神様、それほどまでにわたしたちを大切に作ってくださり、わたしたち一人一人を愛し抜いてくださったことを感謝いたします。あなたから離れていたわたしたちをあなたはなおも愛し、赦し、わたしたちを天へと引き上げるために、御子のお姿でわたしたちのもとに来てくださいました。そしてわたしたちはよみがえられたイエス様に出会い、その愛を受け、天の王座へとつかせていただきました。感謝いたします。こんなにもわたしたちを愛してくださっているあなたをわたしたちが見失うことがないように今一度わたしたちに聖霊を注いでください。このことを知らないたくさんの人々が今日も一生懸命に生きております。それらの方々があなたのもとに帰ってくることができますように。あなたのみこころがなりますように心からお祈りいたします。わたしたちをあなたの愛のご支配のために仕える者としてくださいましたことを感謝いたします。あなたを愛し、人を愛し、イエス様につながってこの愛を証しして生きることができますように。
 このお祈りを尊き主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン。
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