2013年1月27日 主日礼拝

「神を知る喜び」  川崎 恵 牧師

使徒言行録 17章22-31節

 
私達の命をつくってくださった神様は、激しく私達のことを愛しておられます。その愛はあまりにも激しくて熱い。神様は、御自分は熱情の神だと聖書の中でおっしゃっています。出エジプト記20章5節でこのように神は語っておられます。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。」この聖書の前の翻訳、口語訳の聖書では「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である」とありました。ねたむほど、それほど激しい愛で神様は私たちを愛しておられます。そして、その激しい愛をとめることは何者にもできないのです。
 今日、私達は伝道者パウロがギリシアのアテネで伝道した記事を読んでいます。けれども、パウロはここに伝道したいと自分で考えてやってきたのではありませんでした。神様の愛に引きずられるようにして、ここにやってきたのです。
 17章の最初のあたりからパウロがアテネにくるまでの行程をたどってみると、こういうことが語られています。パウロはシラスと一緒にテサロニケに行って、ユダヤ教の会堂で主イエス・キリストの福音をのべつたえました。その話をきいて、たくさんのギリシア人が主イエスを信じましたが、ユダヤ人たちにねたまれ、襲われてしまいます。危険を感じた教会の仲間たちは夜のうちにパウロとシラスを逃がして、そして二人はベレアという町に逃げました。けれどもそこにもテサロニケからユダヤ人たちが追いかけてきた。それで教会の仲間達はさらに安全な海岸の方にパウロを連れていくことにしました。でもシラスとテモテはそのままベレアに残りました。もう少しこの二人に福音を告げてもらおう。でもパウロ先生はもう無理だから、アテネで待っていてもらおうということになったのかもしれません。
 テサロニケの信徒への手紙1には、パウロたちはもう一度テモテをテサロニケに送り、テサロニケの教会を励ましに行かせたことが語られています。
 そのようにしてテモテとシラスは伝道している。でもパウロはここで伝道することはできない。教会の人たちはパウロをアテネまで連れていきました。そして、そこでパウロはテモテとシラスが帰ってくるのを待つことになったのです。
パウロはただ待つためにアテネに来ました。ここでゆっくりと休むことができます。新しい町を散策して、観光することもできます。けれども、アテネの町に入り、神様ではないものをまつるたくさんの偶像で町があふれかえっているその景色をみたとき、パウロの心に激しい憤りの心がわきあがってきました。3000以上の偶像がアテネにあったとある本にはありました。
 この御言葉を読んでいる私達は、日本という異教の国に生きています。そして、この教会も神ではないものを拝むお寺や神社、彫刻に囲まれています。もしかして、この町の中にある偶像はアテネより多いかもしれません。そのような中で生きている私達は、このパウロの姿を見て思います。それほど激しく憤らなくてもいいのではないか。
 けれども、私は今日の聖書箇所を何度も読むうちに、このパウロの心のなかにわきあがった憤りは、神様の憤りなのだと気がつきました。ねたむほどの愛でアテネの人々を愛しておられる神様の愛が、パウロからほとばしり出ている。神様に背を向けて歩んできたアテネの町に神様はやってきて、愛して、愛してやまない激しい愛を、いま語り始めるのです。
 パウロはアテネで、他の地域で行ったのと同じように、まずユダヤ人の会堂で福音を述べ伝えます。受難節には神を崇める人と論じたと17節にありますから、もしかしたらまことの神様を知っている人々と、この偶像のあふれている町について論じ合ったかもしれません。パウロはしかし、会堂だけに留まることはありませんでした。町にでていきます。神様を知らない人々のど真ん中に入って行きました。
 パウロはアゴラと呼ばれる広場に行きました。アゴラはラテン語では「フォルム」といい、英語の「フォーラム」という言葉のもとになった言葉なのだそうです。インターネットの世界にもフォーラムという集まりがあり、人々はそこでいろいろなテーマについて話し合います。アゴラというのはそういう場所でした。人々はここにきて、様々なことについて議論をしました。自分の主張もしました。まだメディアのない当時の人々が新しいニュースや議論、学問に触れる大事な場所だったのです。
 パウロはそのアゴラに行って、居合わせた人たちと毎日論じ合っていたとあります。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したとあります。ソクラテスやプラトン、アリストテレスといった哲学者もアゴラで論じ合っていたそうです。けれども今そこに、主の福音を告げる者が立った。
 パウロは広場で居合わせた人々と毎日論じ合う。なんと熱い伝道者なのでしょう。私にはできないなと思います。パウロはそのアゴラで人々と論じ合い、主イエス・キリストと復活のことを話しました。しかし、そこにいる人々にパウロの言葉は届きませんでした。「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」などと言われてしまいます。人々にパウロの言葉は届かない。これで終わってしまうのでしょうか。
けれども、神様は不思議な仕方で、パウロを通してアテネの人々に福音を述べ伝える。そのようなことを始められたのです。パウロの話を聞いた人々は、パウロの話をもっと聞きたいと思いました。それは興味本位だったかもしれません。新しいことならなんでも聞いてみたい。そう思っていた彼らは、もっと話をしてほしいと、アレオパゴスというところにパウロを連れていきます。アレオパゴスでは、宗教や様々な学問について監視する議会が開かれていたとある本にありました。そこでこの教えを町で教えることを許可してもよいか、それとも禁止するべきか議会が判断する、そのアレオパゴスの真ん中で、パウロは主イエス・キリストと復活について話すことになったのです。
 パウロはアレオパゴスの真ん中に立って、大胆に神の言葉を語り出しました。
 「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえみつけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」
 あなたがたが知らずに拝んでいるものをわたしはお知らせしましょう。あなたがたは知られざる神にという祭壇まで作っている。でももう、あなたがたに神様を知らないとはいわせないようにしましょう。この世界をつくってくださった方がおられます。そしてあなたがた一人一人を造ってくださった方が。その方はすべてのものを超えている。私達が造った小さな神殿にとじこめることができるような方ではありません。
「また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません」。その日、アテネ中の神殿で、様々な儀式が行われていたことでしょう。祭司や巫女によって、何かもっと神様のためにしなければ、神様は満足されないに違いないと忙しく儀式が執り行なわれていたことでしょう。
 日本に住む人々も、様々な偶像にむかって儀式をしたり、お供えものをしたり、賽銭をしたりします。けれども、私たちをつくってくださった神、すべてを導いておられる方は私たちによって仕えてもらう必要はないのです。
 神様は大きな、大きな方。すべてをつくり、すべてを導いておられる方。その方が私達の命をつくり、息を与えてくださいました。私達が住む場所を決め、どのような季節のなかを生きるか、すべて決めてくださった。
 さらにパウロは語ります。「神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」。神はあなたのそばにおられます。あなたのごくそばにおられます。探し求めさえすれば、あなたは神を見出すことができる。パウロはアテネの人がみんなよく知っていた詩を引用しました。「我らは神の中に生き、動き、存在する」
 さらにもう一つの詩を引用しました。「我らもその子孫である」。パウロはこの詩を引用しながら、創世記の一番最初に語られていることを、アテネの人に告げようとしました。     神様は私達をつくってくださった。恐れ多いことに神様は神様ご自身に似せて私達をつくってくださったのです。そうであるなら、私たちは神様を、金、銀、石などの像でつくって拝むようなことをしてはいけない。私たちは神につくられた者。神によって土のちりをこねて作られ、その口に神様ご自身の息を吹き入れていただいたもの。このようにパウロは神様をアテネの人々に紹介しました。
そして、次に神を知らないこと、神様を知ろうとしないことは人間の大きな罪なのだということをアテネの人々に教えます。
30節「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」。
神様は今まで大目に見ていてくださいましたが、今は悔い改めるようにと命じておられる。ドキリとする言葉です。悔い改めを求められているということは、神を知ろうとしないことは罪だということです。今まで神様は大目に見てくださった。けれども今、あなたがたは神様のところに帰ってこなければいけない。向きを変えて、神様のもとに帰ってくるように、全世界の全ての人に神が命じておられる。アテネの皆さん、あなた達も。
まことの神を知ろうとせず、自分たちの考えにあう様々な偶像をつくり、神殿をつくって拝み、まことの神をもとめる心をごまかし続ける罪を犯してきたのはギリシア人だけではありません。ユダヤ人たちも何度もこの罪を犯してきて、神に激しい怒りの言葉を浴びせられてきたことが聖書にたくさん書かれています。神様を知ろうとすること、神様のところに帰ること、それをしなかった私たちの罪。全世界に住む人が同じ罪を犯してきた。
けれども、神様はこの私たちに対する裁きを行われ、すべての人に悔い改めを命じられました。そして私たちが帰ってくるように、アテネの真ん中で、全世界の真ん中で、帰ってきなさい、悔い改めなさい。そう激しく神様が叫んでくださったのです。
31節「それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」。
 その裁きは一人の方によってなされたのだとパウロは言います。神はその裁きを行うために、御子イエス・キリストをお送りくださいました。この方はまことの神、その方がまことの人となって来てくださり、私たちと同じように、この地上を生きてくださいました。そしてまことの人として、神様を捨てた全ての人間の罪を負い、十字架にかかって死んでくださったのです。けれども、それで終わりではなかった。神様はこの方を死からよみがえらせて、罪と死から勝利してくださった。だから私たちは今、この福音を聞いて主のもとに帰る日が来た。主イエス・キリストをまことの救い主と信じる人に、神様は義を与えられる。救いを与えられる。神様のもとに帰る日が来たのだと、パウロはアレオパゴスのど真ん中で人々に語ったのです。
 この使徒言行録を書いたルカは、ルカによる福音書で次のように書いています。死からよみがえられたイエス様は弟子達に言われたことを記しています。
「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」
 この御言葉がいま成就し始めたのです。福音はエルサレムから始まって、アテネまで届きました。どこまでも、どこまでもアテネの人々を愛し、ねたむほどの愛で愛しておられる神様が、パウロを通してその愛を告げてくださいました。あなたがたの裁きは主イエス・キリストにおいてすでになされている。だから、探し求めさえすれば、あなたがたは神を見出すことができる。私はあなたのそばにいる。悔い改めなさい。帰ってきなさい。あなたは私のもの。私があなたをつくり。あなたを愛した。私のもとに帰ってきなさいと、神様は激しい愛でアテネの人々に語りかけたのです。
けれども多くの人々がこの言葉を受け入れませんでした。死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」といって、もう二度とその話は聞かないぞという思いで、その場を立ち去ってしまったのです。
 私はこの箇所を最初に読みはじめたとき、むなしい思いになりました。パウロの熱い言葉に興味本位でしか耳を傾けず、自分たちの考えにあわないのがわかると、さっさと捨てる聴衆に囲まれているパウロは、まるで日本で伝道している私達の姿だと思ったのです。私はパウロのようになれない。けれども私は思いました。パウロがいま鎌倉に来たら、どうなのだろう。小町通りに来たらどうなのだろう。この町の神でないものを拝んでいる人々に出会ったら、どう動くのだろう。パウロは小町通りに行って、一人一人に神さまの愛を告げたに違いありません。まことの神様がおられる。神様はあなたを愛しておられる。鶴岡八幡宮に行って、そこに集まっている人々の真ん中で叫ばずにはおられなかったかもしれません。「鎌倉に来ているみなさん、私はあなた方に、あなた方が知らない神様をお知らせしましょう。神様はあなた方を愛し、あなた方を裁きにおいて赦しておられる。あなた方のごくそばに神はおられる。神様のもとに帰ってほしいと、神様は願っておられます」とパウロは語ったに違いないと思うのです。
パウロの語った言葉、それはたくさんの人々の拒絶で終わったのでしょうか。パウロはこれ以上伝道できないと、この場を立ち去ります。けれども、それで終わりではありませんでした。「彼についていって信仰に入ったものが何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、ダマリスという婦人やその他の人々もいた」とあります。
 神様の熱い愛は、何人かの人をとらえました。ディオニシオ、ダマリスという二人の人は、もしかしたらアテネの教会の教会員第一号、第二号だったかもしれません。アテネの教会の大事なクリスチャンではないかと言われています。使徒言行録の中で見たら、この日パウロの言葉を聞いて、主を信じた人の数はあまりにも少ないと思います。けれども日本で伝道している私たちにとっては決して少なくないと思いませんか。二人だけじゃない。三人も四人も五人も、この日パウロの言葉を聞いて主に出会った人がいたことは、私たちにとって希望ではないでしょうか。励ましではないでしょうか。神様の激しい愛は、人々を捕えずにはいられないのです。
パウロは神様に促されて、この町を去りました。そして神様に従ってコリントに行きます。そこで、神様はパウロにこう語りかけておられます。
18章9節「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。恐れるな。語り続けよ。黙っているな。恐れるな。わたしがあなたと共にいる。」
 説教のはじめに「わたしは、ねたむ神である」という神様の言葉を告げました。その神さまの激しい愛を何者にも止めることはできないとお話ししました。
 その激しい愛は、このおびただしい偶像とさまざまの教えに満ちている日本にも、福音を伝える者を送ってくださいました。その人たちの心にもパウロと同じ熱い憤りの心を置いてくださいました。まことの神を知らない日本の人々に、神さまがおられることを、神さまが愛しておられることを、伝えたいという心を神さまが置いてくださり、その人たちは大胆に福音を伝えてくださったのです。そして、その言葉によって主を信じた人々が、次の人に語り、そしてまた次の人に語り、私たちのところに福音が届いた。私たちに主イエス・キリストを伝えてくださった、たくさんのキリスト者のことを思います。その人たちが黙っていたら、私達はイエス様に出会うことができませんでした。けれども、神様は、激しく愛される神さまは、その同じ憤りの心を、主イエス・キリストの福音を伝える者の心に置いてくださったのです。そして、私たちの心にも、その愛は燃え上がっている。この町で私たちは福音を告げることに恐れを覚える。口をつぐんでしまう。でも私たちの心には確かに激しい愛が燃え上がっているのです。あの人にも、この人にも、私の家族にも、友人たちにも、神さまが愛しておられることを、主イエス・キリストにおいて救いが成し遂げられたことを伝えたいという心を置いてくださったのです。
 さらに神様はすべての人に神様を求める心を置いてくださっていることを、きょう教えてくださいました。神様は「知られざる神に」という祭壇を作ったアテネの人々の心に、神様を求める心を置いていてくださいました。
 だから、私の愛を、私の言葉を伝えてほしい。恐れるな。語り続けよ。黙っているな。と神はおっしゃいます。私たちは、この私たちの心をますます激しく神様に燃やしていただきたいと思います。このつぐんでしまっている口を神さまに開いてほしいと思います。この町に住む人、この国に住む人々が主イエス・キリストに出会うことができるために、私たちを用いてほしい。そう私たちは願っているのです。お祈りします。
 主イエス・キリストの父なる神さま、ねたむほどのあなたの激しい愛を何者も止めることはできません。そのあなたの愛が主イエス・キリストにおいて、救いの御業を成し遂げてくださったことを、心から感謝いたします。私たちにもその福音が届きました。その愛に私たちは気づきました。私たちはあなたのものです。感謝いたします。どうぞ主よ、このことを、すべての人が知ることができますように。あなたを求めながら、どこにあなたを求めたらよいのか分からずに、さまよい苦しみ、罪を犯し続けている者が大勢おります。どうかそれらの者が、あなたのもとに帰ってくることができますように。どうぞ主のものとされた私たちの心に、激しいあなたの愛の心を燃やしてください。どうぞ私たちの口を開いてください。私たちに語る勇気をお与えください。あなたがすべてをなしてください。このお祈りを、尊き主イエス・キリストのみ名を通して御前におささげいたします。アーメン

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