2013年1月20日 主日礼拝

「祈りを教えてください」  川崎 公平 牧師

ルカによる福音書第11章1-13節

 
主イエス・キリストがあるところで祈っておられたとき、弟子のひとりが、その祈りの終わるのを待っていたかのように、ひとつのお願いをいたしました。「わたしたちにも祈りを教えてください」。ルカによる福音書は、このひとりの弟子の願いを、深い心を込めて記したと思います。このひとりの弟子の願いにとどまらない。われわれすべての願いがここにあるという思いで、この言葉を記したと思います。「わたしたちにも祈りを教えてください」。私どもも今朝新しい思いで、主イエス・キリストご自身から祈りを教えていただきたいと願います。
特に、このルカによる福音書が大切にしておりますのは、祈っておられる主イエスのお姿です。既に、この福音書を礼拝の中で読み続けながら、そのことを指摘してまいりました。たいへん重要な場面で、主イエスは祈っておられたと、ルカは心を込めてそのことを記しました。けれどもここでは、初めて弟子のひとりが申します。「わたしにも祈りを教えてください。主よ、あなたのように祈りたいのです」。弟子たちもユダヤ人ですから、祈りを知らないということはなかったと思います。いくらでも祈ったことがあったと思います。けれども主イエスというお方と一緒に過ごしながら、どうもこの方の祈りはわれわれとは違う。他の人にはない秘密があるようだ。主イエスと私どもと、いろいろ同じところもあり、しかし違うところもいろいろあるけれども、決定的に違うのは、この祈りの姿勢であると、そう読んでもよいところだと思います。明らかに、この方は、祈り方が違う。どうかその秘密を教えてください。そういうことであったと思います。
祈りと言えば先週から、日曜日朝の求道者会で新しいテキストを読み始めました。この鎌倉雪ノ下教会で長く牧師をなさった加藤常昭先生の書いた『祈りへの道』という書物であります。既に先週、第1回目の学びを私が担当いたしました。とてもよい学びをすることができたと私は思っております。この求道者会の宣伝をするようなことになりますけれども、少しその書物の紹介をさせていただきたいと思いました。この最初の章にこういう話があります。この鎌倉雪ノ下教会での話ですけれども、私どもの教会では、まだ洗礼を受けてはおられない、もう信仰を求め始めた方のことを求道者と呼び慣わしています。そういう人たちを集めて、今でも時々同じことをいたしますが、「求道者お茶の会」というのをいたします。特別に時を定めて語り合いの時を持ちます。そういう会の席で、求道中のひとりのご婦人がこういう話をされたそうです。
加藤先生はよく「祈りなさい」と言われる。……しかし、どうやって祈ってよいのかわからなかったのです。ところがある時、どうしようもない思いに促されるように、ふと思い切って「神さま」と呼んでみました。そうしたら、言えたのです。「神さま」と呼べたのです。
そう言われると同時に、その婦人の目に涙が溢れて来ました。私は、その方のその涙を見ていて、とても感動しました。しかしまた同時に、心の中で、恥ずかしいと思っていました。私どもの中には、もう祈りはいくらでもしたことがある、と言える人もあると思います。……「神よ」と呼ぶことは、祈りが始まるまくら言葉ぐらいに思ってしまっているかもしれません。しかし、この方は、ほかの言葉を言ったのではありません。長い文章を連ねたのでもありません。ただ「神さま!」とひとこと言えたのです。そうやって祈れた。……神を呼ぶということひとつにも、こうしたみずみずしい喜び、感動があるのかどうか。むしろ、そのように、自分が神を呼び、祈ることができるということは、奇跡とも言うべき驚くべきことなのだということについて、すっかり鈍くなってしまっている。……私は、そう思って恥じていました。心を揺り動かされていました。
しかし、その方の話はまだ続きました。それは、こういう問いとなりました。
先生、私は、そうやって神の名を呼べました。それならば、それからは、いつも神の名を呼べたかというとそうではないのです。またその次にみ名を呼ぼうとしても、「神さま」とは言えなくなってしまっているのです。どうしてだかわかりません。今は、そういう自分に少しいらいらしているのです。どうしたらよいのでしょうか。……
少々長い引用をいたしました。多くの人にとって、よく分かる言葉ではないかと思います。そしてそこで加藤先生は、それならこうしたらよいと、たとえば医者が処方箋を出すように、きちんと答えることができなかったと言います。そうはいかない。この書物の最初のところで、既にこういうことも書いておられます。「わたしたちにも祈りを教えてください」。この書物の中で私がすることは、「その願いにいささかでも答えようというようなことではありません」。そんなことはできないと、言うのです。これも興味深い言葉です。「祈りを教えてください」。そういう願いが存在するであろう。けれども私は、その願いに答えることはできないのだ。たとえば、そのひとことの意味を尋ねるだけでも、延々と説教ができると思います。
もしよろしければ、皆さまの中で何人かでも、ぜひこの書物を新たに手にとり、お読みくだされば、どんなに豊かな学びができるかと思います。いろいろなことを学ぶことができると思います。あまり長々とこの本の紹介を続けてもいけないと思いますけれども、たとえばもうひとつ、同じ第1章にこんなことも書いてありました。もともと、FEBCというキリスト教ラジオ放送局の番組であったのを書物にしたものです。半年間、26回の放送が続けられた、その放送の時に毎回、加藤先生の話の導きとなるようなアナウンサーの言葉がそれに先だって語られたそうです。「私たちの祈りを神さまが待っていてくださいます」。これもとてもいい言葉ですね。そして、この私たちの祈りを待っていてくださる神さまが、おられる、存在なさる、ということが、まず大切なのだと思います。
そしてそのお方が今ここでも言われるのです。「求めなさい。そうすれば与えられる」。なぜ求めないのか。わたしに求めなさい。わたしを求めなさい。わたしはここにいるよ。
求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。
私どもはどうも疑い深いところがあって、こういう聖書の言葉を読みますと、むしろ、かえって逆に、疑いの心を呼び起こされてしまうようなところがあると思います。あるいは、特に私のように牧師という立場に立ちますと、いや、実はこの聖書の言葉はこういう意味で、といろいろ言い訳をしたくなるような聖書の言葉でもあると思います。なぜかというと、ここは正直になりたいと思いますが、私どもは求めても与えられない経験をいくつもしているのです。違うでしょうか。だからこそ、それだけに、なお深く、主イエスのお言葉の意味を尋ね直したいと思います。「求めなさい。そうすれば与えられる」。……「祈りを教えてください」という求めに答えて、主イエスが教えてくださったこの祈りの心は、何を意味するのでしょうか。
この教会で長く生活をなさり、私の手で葬儀をした方で、たいへん興味深い信仰の導きを得た方がおられました。小さいときから東京の教会の教会学校に通っておいででしたけれども、まだ16歳の時、お母さまが病を得て、たった2週間で亡くなってしまうという悲しい経験をなさいました。信仰の危機です。そこでその方が思い出したことは、小さい頃から教会で教え込まれていた「求めなさい。そうすれば与えられる」という聖書の教えです。祈りは必ず聞かれる。そうだ、今こそ祈る時だ。私はその方の話を初めて聞いた時に、この方は本当に素直な方だと思いましたけれども、昼も夜も祈り続けたそうです。母を助けてくださいと。けれどもたった2週間で、母は死んでしまった。神にも教会にも、怒りの心が湧いてきてどうしようもなかった。神なんかいない。わたしは騙された。それをきっかけに、神を信じるのはやめた。教会に行くのもやめた。こういう経験は、案外多くの人がしているのではないかと思いますし、しかしまた、もしかしたら、こういう経験をするまでもなく、それ以前に、最初からこういう結果を勝手に予測して、神に何かを願い求めるなどということはしないという人も多いかもしれません。けれどもこの方は違いました。一度は真剣に祈ったのです。けれども与えられませんでした。そのような悲しい経験をして、神さまと縁を切ることにしました。
けれどもまたあるきっかけがあって、教会の礼拝に出席するようになる。ただ、その動機が少し面白くて、「敵の嘘を暴いてやろう」と、礼拝に出て皆がちゃんと目を閉じてお祈りをしているときにも、自分ひとりはキッと目を開けて、教会の人たちを見下していた、とはっきり言われました。何だ、この人たちは、ばかばかしい。いもしない神に祈って、何と愚かなことか。そのように教会に通い、祈りの時にはしっかり目を開けて、教会の人を見下しながら、けれども、そのように嘘八百だと決めつけていた聖書の中から、詩編第139篇の言葉に捕らえられ、いつの間にか、自分は神に見られていたのだということに気づきます。この詩編第139篇というのがその方の生涯の愛唱の聖句となりました。
主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け
わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み
御手をわたしの上に置いていてくださる。
神はわたしを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲んでいてくださる。そのことに気づいた時にこの方は、深い喜びが生まれたというよりは、むしろ深い恐れの思いを抱いたと言います。だから、この方が洗礼を受けなければならないと思った時、まず神さまにお詫びをしなければならなかった。牧師にも勧められたそうです。神さまにお詫びをしよう、わたしも一緒に謝ってあげるからと。こんなに確かに神に知られていたのに、その神をわたしは軽んじていた。申し訳なかった。
私は、その方の葬儀をする時に改めて思ったことですけれども、この詩編の「前からも後ろからもわたしを囲み」という言葉を黙想しながら、とても愉快な思いになりました。礼拝に出ながら、ひとりだけお祈りの時にも目を開けて、他の人たちを見下していたその方の後ろにも、神さまはおられた。どういう思いでその背中を見つめてくださっていたかなと思います。その方の隣りにも、神さまはちゃんと座っておられた。祈りの時にも目を開いているその人の顔を横から覗き込むように、あなたはどこを見ているの? わたしはここにいるよ。あなたのそばにいるよ。そう言ってくださったのかなとも思います。
そのように、いつも私どもを前からも後ろからも囲んでいてくださる神、それがルカによる福音書第11章の13節で「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われている、聖霊というお方です。父なる神、子なる神であるキリストと等しく神であられる聖霊。今ここにおられる神です。「わたしはここにいるよ。あなたのそばにいるよ」。だから、あるカトリックの説教者は、聖霊のことを、「神の親心」と言い換えてみせました。これはなかなか大胆な言い換えであって、私も実は、最初に聞いた時、少し抵抗があったのですが、今はよく分かります。そのことが一番よく分かるのが、このルカによる福音書第11章ではないかと思います。ああ、そうか、神さまの親心なんだ。
主イエスはここで、「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と言われます。子が親に食べ物を求めるように、あるいは夜中に友人のところに行って、旅人に出すパンを求めるように、「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」。8節では、「しつように頼めば」と、激しいほどの執念深さを主は求めておられます。なぜそう言われるのか。私どもが求めていないからです。探そうとしないからです。門をたたかないからです。「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」。主イエスがそうおっしゃった時、むしろ主ご自身が私どもを求め、探し、私どもの心の扉をたたいていてくださることに、ここで気づきます。そしてその私どもの心の奥深くに、神の聖霊が注がれる。それは、神の親心です。わたしを求めなさい。わたしに求めなさい。わたしは必ずあなたに聖霊を与える。なぜならわたしは、あなたの父だから。たとえば礼拝の中で、ひとりで目を開けていたその人も、その神の親心に捕えられ、お詫びをするように、もう一度神を求めないわけにはいかなかったのだと思います。そこで明らかになるのは、私どもの執念深さなどではありません。むしろ神の激しいほどの執念深い愛であります。まさに、神の親心です。私どもの父として、神が、私どもを求めておられるのです。
その時に、私どもが正直に認めざるを得ないことがある。私どもも、もちろん祈りを知っております。いくらでも祈ったことがあると言うことができる方が多いと思います。けれどもまた同時に、祈らなくても何とかなるだろうという、傲慢な思いをいつまでも抱え続けています。そうではないでしょうか。祈っても仕方がないという疑いから完全に自由だと言い切れる人は、非常に稀だと思います。けれども、だからこそ、そのような私どもの心を捕えて、主イエスはここで、神の親心を紹介してくださるのです。そんなことはない。神はあなたの祈りを待っていてくださるのだ。
私が神学校に通っていた頃、恥を忍んで申します。しばらく、祈らなくなった、祈れなくなったことがありました。なぜそういうことになったか。子どもの頃からずっと教会に通い続けて、神学校にまで行ってしまって、神さまがすべてを支配しておられる。すべてを導いていてくださる。そのことを知識として知る。そうすると、今さら祈って何になるか。祈る必要などないではないか。ほとんど無意識的にそう考えてしまったのです。
マタイによる福音書もまた主の祈りを伝えております。マタイによる福音書はそこで、このような主のお言葉を記しております。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。これも興味深い言葉です。わたしの祈りとは関係なく、神さまは最初から必要なものを全部ご存じである。だったら祈らなくてもいいではないか。もしかしたらそう読めるかもしれません。祈らなくてもいいのだ、というぐらいの信頼が必要なこともあるかもしれません。けれどもそのマタイによる福音書も、こう言うのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ……』」。だから、祈りなさい、と言われたのです。だから祈らなくていい、とはおっしゃらなかった。それは言い換えれば、私どもにとっていちばん必要なことは祈りであるということでもあります。祈りを待っていてくださる神の思いが、そこにも現われているのです。
神は私どもの父です。全部ご存じです。わたしのすべてを分かってくださって、わたしの重荷も、悲しみも、必要なことも、全部ご存じで、その何でも知っておられる神さまだからこそ、その大きな神さまの親心の中に、自分の小さな幼子の心をそっと置くのです。神の子として、幼子のような信頼をもって祈るのです。それが祈りです。
このような祈りのこころを教えてくださった主イエスご自身が、幼子のような祈りのこころを持っておられました。やがて私どもはこのルカによる福音書を読み続けていくと、主イエスが「いつものように」「いつもの場所で」祈っておられた、その祈りの言葉がどのようなものであったかを知るようになります。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに」(第22章42節)。神の胸を打ちたたくように、何でも知っておられる、何でもできる神の御心の中に自分の祈りを置いたのです。しかもそこで、私どもの父である方のみ心が貫かれたのです。神の、私どもに対する愛が、貫かれたのです。今は、私どももそのことを知りました。その神の親心をもう一度仰ぐようにして、今私どもも祈ります。神を父と呼び、その胸を打ちたたくように祈るのです。その祈りを神がどんな思いで待っていてくださるか。まさにここに私どもの幸いは極まるのだと、私は確信しております。
皆さまひとりひとりの歩みにおいても、さまざまなことがあると思います。さまざまな祈りが生まれると思います。その祈りを待っていてくださるお方のお姿に、そこで気づくことができれば、既に何かが大きく変わり始めているのです。新たな思いをもって、今神の御前に立ちたいと心から願います。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、もう一度あなたの前に、幼子としてのこころを回復することができますように。私どもの祈りを待っていてくださるあなたの思いに気づくことができますように。私どもはあなたの子、あなたの子どもたちです。今ここに集められたこの群れを、どうぞ、あなたの御心のままに導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン
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