2013年1月6日 主日礼拝

「主イエスの求めは、ただひとつ」 川崎 公平 牧師

ルカによる福音書第10章38-42節

2013年の最初の主の日を記念して、今皆さまの前に聖餐の食卓が整えられています。主イエス・キリストが私どものために、私どものいのちの養いのために整えてくださる食卓であります。この食卓を囲むところから、新しい私どもの教会の歩みが始まるのだということを大切に心に刻みながら、私もこの日のために礼拝の準備をいたしました。
私どもの教会で聖餐を祝うときに、そこで「招きの言葉」というのを読みます。その聖餐への招きの言葉の中で、ほとんど必ず最後に読む聖書の言葉は、マタイによる福音書第11章28節の主イエス・キリストのお言葉であります。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
多くの人に愛されてきた聖書の言葉です。なぜ多くの人に愛されるのでしょうか。そんなことは、わざわざ問うまでもないかもしれません。誰もが疲れているから。重荷を負っていない人はひとりもいないから。だから、この主イエスの言葉は多くの人に愛されるのかもしれません。しかし、それだけではないような気もします。
「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。以前も同じ話をした記憶がありますが、ここはもう少し原文の響きを生かして訳すならば、「わたしが、あなたがたを休ませる」という言葉です。「あなたがたを休ませるのは、このわたしだ」と言ってもよい。明らかに、「わたしが」というところに強調点が置かれています。なぜ新共同訳が、「わたしが」という言葉を訳出しなかったのか、その理由はちょっと分かりませんけれども、私はここに、主イエスのなみなみならぬ決意と、そして私どもに対する願いが現れていると思うのです。「あなたは、わたしのもとに来なさい。他のところに行ってはだめだ。わたしのところに来なければならない。なぜかと言うと、あなたは疲れているから。あなたは重荷を負っているから。その重荷からあなたを解き放つのは、このわたしなのだ。だから、わたしのもとに来なさい。あなたを真実に休ませるのは、このわたしなのだ」。このような主イエスのみ思いに触れたから、私どもはこの聖書の言葉を愛するのだと思います。「あなたは疲れているね。重荷を負っているね」。このように、わたしの重荷について慮ってくださる方が、いらっしゃる。既に、その事実に私どもは慰められるのではないでしょうか。
年が改まり、私どもが思いも新たに聴き取り直したいと願っていることは、この主イエスのみ思いであります。その意味では、私どもが休みたいと思っているか、慰められたいと思っているか、そんなことは実はどうでもいいのであって、大切なことは、主イエスが私どもに休みを与えたいと、わたしがあなたがたを休ませるのだと、そう願っておられるということです。私ども自身も気づいていない重荷があるかもしれません。自覚症状のないままにどんどん疲れがたまっているということがあるかもしれません。主イエスだけが見抜いておられる疲れがあり、重荷があるのだと思います。そこから私どもを解放したいと主イエスは願っておられる。
今日の説教の題を、「主イエスの求めは、ただひとつ」といたしました。今日読みましたルカによる福音書第10章の最後に出てくる、「必要なことはただ一つ」という主イエスの言葉を、私なりの理解で言い換えてみたものであります。「必要なことはただ一つ」。「主イエスの求めもただひとつ」。それは、この主の招きを聞き取ることです。その招きに応えることです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしが、あなたを休ませる」。この主イエスの願いというか、この主イエスの決意があるからこそ、この聖餐の食卓も成り立つのです。この教会の存在そのものが、私どもの存在そのものが、この主イエスの決意に根拠を持つのです。
ルカによる福音書第10章の最後の部分をお読みしました。主イエスが、マルタとマリアというふたりの姉妹の住む家に迎えられた時に起こった、小さな出来事を伝える記事であります。多くの人が、特に多くの女性たちが、忘れがたい思いで心に留めてきた聖書の言葉だと思います。私は、主イエスがこの姉妹たちの家に迎えられた時にも、疲れた者、重荷を負う者を、このわたしが休ませるのだという、明確な決意を持っておられたと信じます。
そこで、その最初のところ、38節ですけれども、「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」とあります。イエスを家に迎え入れた、その主語になっているのはマルタ。マルタとマリアは単に姉妹としか書いてありませんけれども、このことから、どうもマルタのほうがお姉さんであるらしいと昔から読まれてまいりました。マリアはその妹。この妹のマリアが、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」。聖書は何気なく書いておりますけれども、この福音書が書かれた当時の人たちからすると、この表現を読んだだけで、もうびっくりしてしまうようなことであったようです。「足もとに座る」というのは、女性だから遠慮して身を低くしているなどということでは決してなくて、これは弟子が先生に教えを乞う時の姿勢だそうです。そしてそれは、本来女性が座ることを許されない場所であったと言われます。それだけで既に驚くべきことでありました。「足もとに座る」。そしてその言葉に「聞き入っていた」。この「聞き入っていた」という翻訳も、非常によい言葉だと思います。自分の全存在をこのお方の言葉に注ぎ込むようにして、その話に聞き入っていた。主イエスもまたそのようなマリアの姿を喜んで受け入れておられる。
けれどもそのマリアの姿勢に文句を言った人がいた。男の弟子たちが文句を言ったのではない。お姉さんが苦情を申し立てた。主イエスが話をしておられるところに、マルタが近寄って来て言いました。「主よ、妹が何もしないで、わたしだけに働かせています。それでいいとお考えですか。すぐ準備は終わりますから。先生のお話は、あとで聞きますから。妹にもわたしを手伝うように、先生のほうからひと言おっしゃっていただければ、話は早いのですが」。このマルタのこころは、説明抜きでよく分かると思います。特に働き者の人にとっては、よく分かる。痛いほどによく分かる。それだけによく分からないのは、それに対する主のお答えです。
マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。
皆さんも同意していただけると思いますけれども、この時マルタは、相当なショックを受けたと思います。「あなたは多くのことで思い悩んでいるね、ずいぶん心が混乱しているようだね」。そう言われた時に、痛いところを衝かれたと思ったでしょうか。しかし私は、いや、もしかしたらそんな自覚もなかったかもしれないな、とも思いました。思い悩んだり、心を乱したり……「いえいえ、そんな、そんな。わたしはただ当然のことをしていただけ。正しいことをしていただけ。そして、妹の間違いを正してほしいと思っただけ。わたしはただイエスさまのために働いていただけ。思い悩んでなんかいません。心を乱してなどいません」。けれども主イエスのご覧になるところ、このマルタは明らかに、多くのことに思い悩み、その心は乱れておりました。
ここでひとつ、基本的なことをはっきりさせておきたいと思います。マルタは主イエスをもてなした。これは、間違ったことでも何でもなく、当然のこと、正しいこと、ほめられるべきことです。特に私どもがルカによる福音書を学びながら、よく承知していることは、主イエスとその一行は旅を続けておられたということです。当時のことですから、それは大変な苦労を意味したと思います。何日か前のローズンゲン、『日々の聖句』の中に、「旅人をもてなすことを忘れてはなりません」という言葉がありました。当時の人たちはそのことを大事にしたし、神を信じる者はますますそのことを大事にすべきだと教えらえていた。マルタがしたことは、まさにそのような愛のわざ、神の御心に沿う正しいことであったのです。
けれども、私どもがそのような自分の正しさに生きているときに、その正しさを確信している時に、最も腹立たしく、最もつらいことは、その自分の正しさが、正しく評価されないことです。ここでマルタが願っていたことは、まず何と言っても、妹が自分の思い通りに手伝ってくれることだったでしょう。そして、その自分たちのもてなしを、主イエスが喜んで受けてくださることだったでしょう。「いや~、どうもありがとうございます、助かりました。食事もとてもおいしかったです」などという感謝の言葉を最初から予想して、ちょっとうきうきしながら、この旅人たちを家に迎え入れたのではないかと思います。けれども実際には思い通りにいきません。こんなに一所懸命奉仕しているのに、無視されているようです。妹も気づかない。イエスさまにまで無視されている。こういうつらさは、男も女も関係ないのであって、多くの人が痛みを持って理解することであると思います。
そしてマルタは、ここで、もう一度申しますけれども、正しいもてなしをしようとしながら、けれどもその、自分で正しいと思っているもてなしのわざにも集中することができませんでした。妹のことが気になって気になってしかたがない。ついでに、その妹をそのままにしておられるイエスさまのことも気になって、気になってしょうがない。「何であの人は。今やるべきことは違うでしょう。どうしてわたしだけが」。だんだん悲しくなってきます。そしてだんだんいらいらしてきます。多くの人がこのマルタの怒りを理解しているのです。そして、よく理解できるのであれば、ますます気をつけなければなりません。主イエスは、このマルタの主張を受け入れてはおられないのです。なるほどもっともだとか、お前の言うことにも一理あるとか、そういうことは一切おっしゃらないのです。
それだけに、このマルタとマリアの物語と呼ばれるこの聖書の記事は、多くの人びとにとって忘れられないものになりました。そしてキリスト教会の歴史の中で、特にさまざまな解釈が行われるところとなりました。その解釈の歴史について、延々とお話しすることはもちろんできませんけれども、皆さんにもよく分かると思います。たとえば率直に言って、「でも、マルタのような働きをする人がいないと困るでしょう?」 誰もがそう問わないわけにはいかないのです。みんながマリアのように座り込んでしまって、何もしなかったら、この世の営みは成り立たない。教会の生活も成り立たないのです。マリアはいいけれども、でも結局、誰かがやらなきゃいけないんでしょう? こういう理屈は、延々と繰り返されてきたのです。それで、古来行われてきたひとつの読み方は、ここには言ってみれば、ふたつの人間の類型、ふたつの生き方のタイプが示されている、という理解です。マルタのように活動的に、世俗の塵にまみれて働く生き方と、それからマリアのように、ひたすら神の言葉と祈りに専念し、たとえば修道院のようなところに入ったり、あるいは、私どもであれば、牧師のような人間になったり。けれどもどうもこのイエスさまの言葉からすると、マリア型のほうがほめられているようだ。けれども、マリアのような生き方も結構だけれども、そういう人たちばかりではやっぱり困るではないか。マルタ型の人間も必要ではないか。こういうふたつの人間のタイプというのは教会の中にだって見出されるわけで、たとえば今日もそうですけれども、礼拝の後にさっとおいしいうどんを食べることができるように準備をしてくれている人たちがおられて、こういう人がいないと教会は成り立たない。マリアもマルタも、どちらにもいいところがあるのだ。ただ、賜物が違うのだ。さあ、自分はどっちかな、あの人はどっちかな、と考え始めてしまうかもしれません。せいぜい、自分と違う人を批判してはいけないよ、と解釈するのです。けれどもお気づきのように、主イエスはそんな話は一切しておられない。
「必要なことはただ一つ」。「主イエスの求めも、ただひとつ」。誰にとっても! マリアには必要なことだけれども、マルタには必要ないなんてことではない。主イエスはここではっきり、「マルタよ、あなたにとっても必要なことはただひとつ。ほら、マリアはそのひとつのことを選んだよ、あなたもそちらを選びなさい、あなたもここに座りなさい」とおっしゃっているだけのことです。
この福音書の記事は、そういう意味ではまことに単純であって、複雑な解釈の歴史など生まれようがないはずのものです。けれども問題は、この単純な、それだけ鋭い内容を持つ聖書の記事を、何とかして和らげたいと思う心が私どもの中にあるということです。
ここはたいへん大切なところですから、私も単純・率直に申します。二種類の人間などおりません。マルタ型とマリア型と、そんな二種類の人間などいません。私どもはひとりの例外もなく、マルタの思いを共有しています。そしてもう少し思い切って言えば、マルタの罪を共有しております。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。私もマルタと一緒に、そのように主イエスに呼びかけられているのだと気づくべきです。「多くのことに思い悩み」と訳されている言葉は、かつての翻訳では「思い煩う」と訳されておりました。そちらの日本語のほうがよかったと私は思っています。なぜかというと、思いが患っている。健康ではないのです。癒されないといけないのです。ルカによる福音書は、この先、すぐに第12章の22節以下でも、同じ主旨の言葉を繰り返します。「思い悩むな、思い煩うな」と、ここに出てくる言葉と同じ言葉が繰り返されます。「何を食べようか、何を飲もうかと思い煩うな」。「烏のことを考えてみなさい。野原の花がどのようにして咲いているのか考えてみなさい。神がこの鳥を、この花を、どんなに大切に養ってくださることか」。「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ」。信仰が薄いのです。けれど薄くてはだめなのです。だからこそ主イエスに招かれるのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。あなたを休ませるのはこのわたしだ」。必要なことは、ただひとつ。それは、この「わたし」と言われるお方の招きを聴くことです。なぜ招かれなければならないか。私どもの思いが患っているからです。
40節に、「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」という言葉がありました。この「せわしく立ち働いていた」と訳されている言葉について、ある神学者の説明を読んで、なるほどと思ったことがありました。この言葉はちょっとイメージ豊かな言葉で、「周りに引き離す」というのが基本的な意味です。あるべき中心から引き離されて、思いが散り散りになり、言ってみれば、心ここにあらず、という状態になる。それが、ここで言う「せわしく立ち働いていた」ということの意味だと言うのです。ですからまたある人は、このところを「心が空っぽ」と訳しました。私はこの翻訳を読んだとき、ちょっとびっくりしました。普通は、マルタはあれやこれやで心がいっぱいになっていたと、そういうイメージで訳されることが多いところですから、意外に思いました。けれども、原語のイメージから言えば、マルタは心がいっぱいなのではない。むしろ心は空っぽ。皆さんもよくお分かりになると思いますけれども、忙しく働いて、いろんなことに心を配っている時に、私どもは自分の心が空っぽだなどとは思ったことはないのです。あれも、これもと思っているから、心はいっぱい、スケジュール帳も真っ黒。けれども、それはあるべき中心が空っぽになって、その周辺だけがあれもこれもでいっぱいになっているだけ。心の中心は空っぽ。満ちているのは思い煩い。自分は忙しいと思っている人ほど、よく分かるのではないでしょうか。
マルタのことを、もう一度考えてみてもよいのです。先ほども申しましたように、自分がなすべきもてなしのことにさえ、集中することができませんでした。むしろ気になっていたのは自分を手伝わない妹のこと、そしてそれを受け入れている主イエスのこと。どうしてあの人は。どうして私だけが。あるべき中心から引き離されています。まさにそういうところで、私どもは疲れるのです。重荷を背負い込むのです。すべての人がこういう重荷をどこかで知っているはずです。
マリアは、その重荷から解き放たれる場所がどこであるかを知っておりました。主の足もとに座ったのです。あるべき中心に、まっすぐに立つことができました。そしてそこに、マルタも招かれている。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」。
年が改まり、思いも新たに聴き取り直したいことは、この主イエスの招きであります。主イエスの求めは、ただひとつ。私どもが、主の招きに答えることです。「わたしの与える休みを受け入れてほしい。そうでなければ、あなたは真実の休みを得ることができないのだ」。
この説教の準備をしながら、私も、正直に言えば少々悩みました。何を言うべきかははっきりしている。けれどもはっきりしているこのことがどう伝わるかな。マリアも立派だけれども、やっぱりマルタの奉仕も必要なのではないか。私自身もぶつぶつ呟きながら、そしてそういうことを言いたがる教会の人たちもきっと多いだろうなと、失礼ながら教会のいろんな人たちの顔を思い浮かべながら……けれども、この教会を成り立たせているのは、マルタの奉仕ではありません。この教会の営みを根本から支えているのは、マリアの信仰でも、ないのです。キリストの教会は、イエス・キリストの奉仕によって支えられる。この当たり前のことを、当たり前のこととして、もう一度確認したいと思います。
これから聖餐にあずかります。この聖餐もまた、多くの奉仕者によって準備されています。特にこの季節は、12月23日にはクリスマスの聖餐礼拝、その翌週には歳末聖餐礼拝、1月1日には元旦聖餐礼拝、そして今日、新年最初の日曜日の聖餐礼拝。多くの主婦にとって一年で一番忙しい季節に、一年で最も頻繁に聖餐の食卓を準備しなければならない。そしてそのために、隠れたところで多くの奉仕者が、朝早くから準備をしたり、その前からパンを焼いたり、とにかく多くの奉仕者の働きによってこの食卓が整えられていることを、忘れることは正しくありません。来週の日曜日から、改めて新年度に向けて、そういう奉仕者を募り始めます。A4判用紙5ページにわたる、教会のさまざまな奉仕の申込書を配布する予定です。そういう時に、けれども私どもが改めて心に刻むべきは、そういう私どもの奉仕によってこの教会が成り立っていると考え始める時、私どもは最も深い罪に誘われるということです。この聖餐を成り立たせているのは、主イエスの奉仕です。私どもの罪の重荷を担って、十字架につけられたお方の奉仕が、この聖餐の食卓の基礎にあります。その主イエスご自身の言葉を、主イエスの足もとに座るようにして聴くのです。ここに、教会の営みの中心があります。
聖餐の食卓において、私どもが知る単純な事実は、主イエスというお方は、十字架につけられて殺されたということです。なぜそんなことが起こったか。前回の説教で申しましたことで言えば、私どもの罪がこのお方を十字架につけて殺したのだということです。この信仰の根源的な事実に、私どもは聖餐のたびに立ち帰るのです。それは言い換えれば、「わたしがあなたがたを休ませる」という主イエスの願い、主イエスの求めは、ひとたび退けられたということです。これ以上この人に何も語らせないように。人びとは寄ってたかってこの人を殺した。そこに主イエスの十字架が立ちました。主イエスは、決して人びとに惜しまれて死んだのではないのです。このような主の十字架を立ててしまったその最も深いところに、私どもマルタの、主の言葉を排斥しようとする罪があったことに気づくべきです。けれども主はお甦りになりました。黙り続けてはおられませんでした。いのちの言葉を聞かせてくださいました。死に勝つ言葉、そして私どもの罪に勝つ言葉を、ここで私どもは聞くのです。私どもが何に疲れているか、どんな重荷を負っているか。それもまた、この食卓において、明らかにされます。その重荷から私どもを解き放ってくださるのも、このお方、主イエス・キリストです。思い新たに、このお方の足元にひざまずく思いで、この食卓に与りたいと思います。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、必要なことは本当にただひとつです。私どもを招いていてくださる、そのあなたの御声を、今この食卓において、明確に聴き取ることができますように。思い煩いから解き放ってください。人を裁く思いから解き放ってください。自分の正しさが評価されないことに苛立つ思いから解き放ってください。ほかの何もいりません。ただあなたの愛の中に、真っ直ぐに立たせてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。
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