2012年12月30日 主日礼拝

「ここにわたしたちは神を見る」  川﨑恵 牧師

ヨハネによる福音書 第1章14-18節

 
今日の御言葉にはこうあります。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。
「言(ことば)」というのは、不思議な聖書の言葉ですが、イエス様のことです。クリスマスの夜、イエス様はわたしたちと同じ肉の体を持つ赤ちゃんとなって、わたしたちの間に宿ってくださいました。18節では「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と語られています。この福音書を書いたヨハネはわたしたちに教えてくれる。「これまで人間は神様を見ることができなかった。けれども、わたしは神様にお会いした。神様の独り子、イエス様と毎日を過ごさせていただいて、この方を通してわたしは神様の栄光に与った。イエス様と一緒にいるとイエス様が本当に神様と一緒におられて、神様の懐にこの方はおられたのだということがよく分かった。イエス様が話される言葉、イエス様がなさること、そのすべてに神様の愛が溢れていた。わたしはこの方を通して神様に出会ったのです」。その言葉を聴きながら、わたしたちもヨハネと同じ経験をさせていただいていることを思わされます。わたしたちも人となられたイエス様に出会いました。イエス様を通して神様に出会いました。そして神様に全てを献げたいと思いました。洗礼を受けたばかりの方がたは、そのことが本当に身にしみて分かるのではないかと思います。わたしは神にお会いした。そして今もここでお会いしている。
先ほど旧約聖書出エジプト記第33章18−23節の御言葉もご一緒にお読みしました。そこには「わたしたちは神様を見ることができなかった」ということが記されていました。神様は預言者モーセにこうおっしゃいました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」。そうおっしゃった神様は、モーセが神様の顔を見て死なないように、神様がモーセの前を通り過ぎるときには、モーセを岩の裂け目に入れて、その御手でモーセを守ってくださると言われました。わたしたちは神様を見たら死んでしまう。生きることができない。ある本にわたしたちが神様を見ることができないのは、わたしたちが罪に汚れているからなのだと語られていました。まことに聖く、正しい神様の前に、わたしたちが立つならば、わたしたちの罪が明るみに出されてしまう。神様の赦しをいただかなくては、神の怒りを受けて滅ぼされてしまうのだ。だから私達は神様の前に立つことができない。神様のお姿を見ることができないのだと。
けれども、わたしは同じ出エジプト記で或る御言葉に出会いました。その先の第34章6節の御言葉です。どういう状況でその言葉が語られたのかをまずお話しますと、神様は預言者モーセを通してイスラエルの民と契約を結び、イスラエルを神の民としてくださろうとします。けれども、神様がモーセに掟の御言葉を授けている間に、イスラエルの民は待ち切れなくなって、金の子牛の像を作って拝み始めてしまった。罪を犯したイスラエルの民に対して神様は「わたしの怒りは燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽す」と激しくお怒りになります。モーセは一所懸命に神様にとりなし、イスラエルを赦してくださるようにお願いをしました。そのとりなしによって、神様はイスラエルの民を赦し、もう一度掟を与え、契約を結ぼうとしてくださる。その時に神様はこういう言葉を語ってくださったのです。「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみはまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す』」。この「慈しみとまことに満ち」という言葉は、今日読んでいるヨハネによる福音書第1章14節の「恵みと真理とに満ち」という言葉と同じなのだということをある人が指摘していました。罪を犯したイスラエルを憐れみ、もう一度やり直しを与えてくださった神様は、御自身がどのような方であるかをこの御言葉をもって示してくださいました。「わたしは憐れみ深いのだ。忍耐強いのだ。慈しみとまことに満ち、罪と背きと過ちを赦す。わたしはそういう者なのだ」とお語りくださいました。そしてヨハネによる福音書の「恵みと真理とに満ち」という御言葉からも、神様の憐れみが、罪を犯してもなお私達を赦そうとしてくださる神様の御思いが溢れ出してくるのです。
第1章10節以下にも、神様に造られたにも関わらず、神を拒絶してしまったわたしたちの罪について語られています。「世は言(ことば)によって成ったが、世は言(ことば)を認めなかった。言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。言(ことば)、それはイエス様のことだと先程申し上げました。この福音書の始まりにはこうあります。「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。この言(ことば)は、初めに神と共にあった。万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは、何一つなかった。言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。
聖書の一番最初の創世記には神様が天地万物を造ってくださったときのことが記されています。神様が「光あれ」とおっしゃると光が生まれました。神様の言(ことば)が光を生んだのです。さらに神様は神の言(ことば)によって空を造り、海を造り、地を造り、命あるものを造り、そしてわたしたちのことも造ってくださいました。「光あれ。」とおっしゃってくださったように「川崎恵あれ」とおっしゃる神様の御言葉によってわたしたちは生まれました。けれども、その造ってくださった方をわたしたちは拒絶したのです。「言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とある11節の御言葉を読むと、神様の悲しみが溢れ出してくるような思いがします。けれども、わたしたちを造ってくださった方は、それでもなお、わたしたちを怒りによって滅ぼさず、むしろわたしたちのところに来たいと願ってくださったのです。わたしたちを罪から救うために。イエス様はこの先でこう言われます。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(第6章38−39節)。わたしは一人も失いたくない。滅ぼさない。わたしはあなたがたを憐れむ。命を与え、復活させる。そう願われて、神は天を裂いて、小さな、わたしたちと同じ人間の赤ちゃんとなってくださいました。肉となって、まことの人となられて、肉であるがゆえのわたしたちの苦しみ、絶望、わたしたちの罪をすべて背負って十字架にかかり、自らの怒りを受けるために来てくださいました。それは、ただただ、わたしたちを造ってくださった方がわたしたちを愛してくださったからです。第3章16節でヨハネはこう語っています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
わたしは、アドヴェントからクリスマスの間、ずっと飼葉桶に寝ておられた赤ちゃんのイエス様のことを考えていました。ベツレヘムの馬小屋で、ひっそりと、固くて冷たく動物の匂いが浸み込んでいる飼葉桶に、神の子が赤ちゃんの姿となって寝ておられる。もうそこに、わたしたちに命を与えよう、わたしたちを赦すために十字架に向かって行こうとされる御子の歩みが見えるような気がしました。イエス様は、十字架におかかりになる前に、こうおっしゃいました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(第12章23-24節)。この御言葉は、三浦綾子さんが書かれた『塩狩峠』という小説の一番最初に出てきます。その小説の結末はこうです。主イエス・キリストに出会い、信仰を与えられた主人公は恋人と結納を交わすために汽車に乗ります。けれども、乗っていた客車が突然前の車両からはずれ、転覆しそうになるのです。主人公は無我夢中でその客車のブレーキを操作し、車をとめようとします。けれども止まらない。そこで主人公は自分の身を線路に投げだし、体で客車を止めて乗客の命を救って死んでしまう。昨日の夜、何気なく、公平牧師とその塩狩峠の話になって、公平牧師が、「あの話は、そのように自分のために命を捨てるほど愛してくださる方の愛に出会ったから、そのように変えられた人の話だよね」と言いました。わたしはその言葉を聞いて、あることに気付いたのです。その塩狩峠の主人公はまるでイエス様のようだ。わたしたちの命を救うために、地に落ちて死んでくださったイエス様のようだ。イエス様がそのようにしてわたしたちを愛してくださったのは、イエス様が「父のふところにいる独り子である神」(1章18節)でおられたからだということに気付いたのです。小さい赤ちゃんがお父さんの胸に抱かれているように、御子イエス様は父なる神様のふところにおられる方でした。お父さんにだっこされている赤ちゃんのように、イエス様は父なる神の暖かい愛に抱かれておられる方でした。父の胸から自分のほうに注がれてくるその温かい愛は、自分のために命を捨てるほど愛してくださる愛であり、その愛の中にイエス様はいつも浸っておられたから、その愛に包まれていたから、その満ち溢れる神様の愛をわたしたちにも注いでくださったのだということに気付いたのです。「愛する者のためにわたしは命を捨てる。わたしは愛することを止めない」。その父なる神様の愛を受けてイエス様は、わたしたちのために命を捨ててくださったのです。
ヨハネは、自分もこのイエス様と同じような存在に変えられていると気づいたのかもしれません。この福音書の最後に、ヨハネは「イエスの愛しておられた弟子」と言う名前で出てきます。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのは誰ですか』と言った人である」。
あの夕食の時、イエス様の胸もとに寄りかかっていたのがこの福音書を書いた私なのですとヨハネは自分のことを語ります。第13章21節以下にはイエス様が十字架におかかりなる前に最後に弟子達と食事をされた時の記事があります。ここにもヨハネがイエス様の胸に寄りかかっていたとあります。当時の食事の仕方は、横になって頭を腕で支えて右手で食事をとる仕方でした。それで、ヨハネの頭はイエス様の胸の前にあっていつの間にか寄りかかっていたのかもしれません。その時のことを思い出しながら、その時のイエス様の暖かさを思い出しながら、今もイエス様の胸もとに寄りかかり、命を捨てるほどの愛に満たされている自分であることを、ヨハネは思っていたかもしれない。わたしたちも胸もとによりかかっているかのように、神様、イエス様の温かい愛を感じることができます。この自分のために天を裂いて来てくださり、このわたしをすべての罪から解き放つために、命を捨ててくださったその愛を感じることができます。
今日の御言葉は「言(ことば)が肉となってわたしたちの間に宿られた」という言葉で始まりました。「宿られた」という言葉は、「テントを張る」という意味の言葉です。聖書では「幕屋」という言葉で出てきます。旧約の時代、神様はイスラエルの民に、神様の幕屋を造るように命じられました。そして幕屋に神様の栄光が示された。神様が幕屋におられるときには、明かりがついたのだそうです。旅をしているイスラエルの民は自分たちもテントを張って旅をしていたけれども、その真ん中にテントがあって、神様がおられるときには明かりがつく。真っ暗な闇に包まれていても、そのテントに明かりがついているのをみて、人びとは大きな平安を与えられたことでしょう。そのような幕屋に宿るように、神の御子は肉となられて、わたしたちの間に宿ってくださいました。幕屋よりももっと近く、わたしたちの内に宿ってくださいました。神の言(ことば)はわたしたちの命に入ってきてくださいました。もう絶対に神様から離れることがない。そのようなわたしたちにしてくださったのです。
これから聖餐に与ります。主イエス・キリストご自身が定めてくださった聖餐です。パンを食べ、杯を飲むごとに、わたしたちは主イエス・キリストご自身をいただく。天から降って来られた主イエス・キリストに与るのです。感謝して与りたいと思います。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる御神様、愛をもってわたしたちを造ってくださったあなたが、わたしたちひとりひとりを愛し、愛し続けてくださり、わたしたちがあなたから離れた者であるにも関わらず、わたしたちを救うために御子の姿で来てくださったことを心より感謝いたします。主イエス・キリストが、わたしたちと同じまことの人となってくださったこと、そしてわたしたちの罪を十字架の上で贖ってくださったこと、死から甦られてわたしたちを永遠の滅びから救い出してくださったことを、心から感謝いたします。わたしたちはあなたに救われ、あなたと共に生きる者とされました。感謝いたします。どうかこれからもわたしたちと共にいましてください。新しい年もわたしたちを導いてください。あなたの命で生かしてください。そしてわたしたちもあなたの愛に生きることができますように。この心、この体のすべてをあなたの愛の器とさせてください。この恵みに与りたいと願いながら、まだ与っていない方がたがたくさんおられます。どうか、そのような方がたに、一日も早く信仰が与えられ、洗礼が授けられますように。このお祈りを尊き主、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
 
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