2021年1月10日 主日礼拝

「水門を開く」

嶋貫 佐地子

ヨハネによる福音書 第7章37-52節 

 

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(7:37)

今日は、この御言葉だけで十分であるとさえ思わされます。主イエスは、このことを大きな声で叫ばれました。主はエルサレムの神殿の境内においででしたが、このことを、立ち上がって、叫ばれたのです。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」
でもそれは、場所も時も超えて、いま私どもに向けても、発せられているのです。

渇いている者よ、わたしのところに来て、飲め。

昨年は、思いもよらない状況に襲われてしまいまして、私どもは教会に集まるということができなくなりました。大切なものが、一瞬にして奪われたように思われました。当たり前に教会に来て、いつものようにあいさつを交わして、礼拝堂に座り、ここで神の言葉に満たされていたことです。一週間の人に言えない思いや疲れを、ここで清めていただいて、聖餐をいただいて、自分の生活の中に、主が来てくださるような思いで、ここから出ることができていたことです。大事な教会の友がいて、楽しく話をしたり、地下で笑って食べて、ちらっと向こうで顔を見るだけでも、ああ、あの方もお元気そうだと安心しました。でもそういうこともできなくなりました。教会に行かない日曜日が来るなんて、思いもしませんでした。いつか体力的には、それはあり得たことでしたけれども、それが突然来てしまいました。
でもそのうち制限が続きますと、最初は不自然だったそのことも慣れてしまうようになって、このまま、自分は教会に行かなくても済んでしまうのではないかと思っている自分がいたり、自分は何なのだろうと、考えたり、神様のことはなくても、生きていかれるのではないかと不覚にも思ったり、でも、ひと言でいうなら、渇きました。

魂が渇きました。
自分は、渇くんだと、わかりました。自分だけではなくて、皆でいっしょに礼拝をしてゆくことがどんなに潤いであったか。そうでなければ、自分は渇いてゆく人間なのだということがわかりました。そしてそれはこの状況になったから、余計に切実に知ったのであります。

主イエスが叫ばれたのは、仮庵祭というエルサレムのお祭りのときでした。けれども、その祭りもまた同じように、人々が大事なことに気づいて、大事なことを思い起こす日であったのです。神様が、命の水をくださったという出来事を、思い起こす日であったのです。

この祭りの仮庵というのは、仮に建てる小屋のことで、仮小屋のことです。今でいうとテントのようなものです。イスラエルの民は、エジプトから救い出されまして、荒れ野で長い旅をしました。そのあいだ、いくらか歩いては仮小屋を作って、その日の休みをとり、そしてまた移動するのです。荒れ野にはいっぱい仮小屋が建てられて、そしてそのあいだに幕屋という神様の家も作りました。目には見えませんが、神様もそこにおいでになって、いっしょに旅をしてくださると信じながら、彼らは約束の地に向かって歩いたのです。荒れ野というのは砂漠ですから、たいへんに厳しい状況になるわけですけれども、そこに神様が、天から食べ物と、そして、命に欠かせない水をくださった。そうやって神様だけを頼りにする生活をした。その恵みを忘れないように、のちの人々もこの祭りの七日のあいだ、あの時と同じ仮小屋を、街の中にいっぱい作って、そこに住んだのです。そうやって、普通の生活ではなく、不便なテントだからこそ、神様の恵みを思い起こしたのです。

そしていよいよ祭りの最終日になりますと、白い服を着た祭司が、エルサレムの神殿の下にあるシロアムの池というところに水を汲みに行き、その水を神殿まで運んで、神様に献げるという儀式をいたしました。祭りに来ていた大勢の人々はそれについてゆきながら歓呼して詩編を歌い、それはもう盛大に祝ったのです。そしてまさにそのクライマックスで、祭司と水が下から神殿に戻ってくる、人々も最高潮に達している、そういった状況で、主イエスが神殿の境内で立ち上がって、叫ばれたのです。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」

わたしのところに来て、飲みなさい。
主イエスは、砂漠での神の声であったのです。砂漠のようなこの世での、神の声であったのです。
渇く者よ、ここに来て、飲め。

でもあの時の、荒れ野の時とは違うのは、神の御子が、幕屋に来たことです。神殿という地上の幕屋に、神の御子がほんとうに来たことです。ほんとうに神の存在が地上に宿ったことです。父のところから降ってきて、ほんとうに目の前にいて。今度はちゃんと誰の目にも見えて、お声も聴こえるお方としていらして、いまその方が叫んでいてくださっていることです。
ここに来て飲みなさい。
わたしのところに来て、飲みなさい。
飲むというのは、主を信じるということです。そして主が「飲め」と言われるのは、天からのまことの水である、聖霊のことでした。

ヨハネ福音書はこのことを、後からふりかえってこう言いました。主は聖霊のことを言われたのだ。主はわたしたち信じる者が、これから受けようとしている聖霊のことを言われたのだ。39節で言われているのはそういうことです。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」しかし「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった」(7:39)。

これは聖霊降臨のことを言っているのです。このときはまだ、聖霊は降っておられなかった。だから主は将来のことを言われたのだ。将来、聖霊は降って来て、信仰者たちを生み出すのだ。でも不思議に思われると思いますが、その前にも神の霊はありました。世の初めから、神の霊は人と関わってくださいました。でもこれは、違う方法なのです。この聖霊は、何より御子主イエスを信じる者を生み出す方で、その聖霊が、いよいよ地上に降られるのですが、そしてそのためには、御子、主イエスが、栄光をお受けにならないという方法でした。

栄光というのは十字架のことです。ヨハネ福音書は特に、主の十字架のことを栄光というのです。ですから福音書が「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので」というのは、主はまだ十字架の苦難を受けておられなかったので、と言っているのと同じなのです。なぜなら、主の十字架の苦難と死が、父なる神様の栄光をこれから現すのであって、そして主は、そのことによって、父から栄光をお受けになるからなのです。では主イエスはそれまでは栄光をお持ちにならなかったのだろうか、というとそうではなく、主イエスは、この世が存在する前からいらして、父の許で栄光をお持ちでした。でも、その方が、人となったのです。父の許を離れ、人となられたのです。人となった者が、地上から高く挙げられて、天に受け容れられる!そういう前代未聞なことが起こったのです。人となった者が、栄光をお受けになったのです。それがあったから、私ども人間も、天に受け容れられるようになったのです。
でもそのためには、人の罪を取り除く、神の御子の死が必要だったのであります。そうでなければ、この栄光が起こらなければ、人間はだれも天に入ることはできませんでしたし、信じる者たちを生む聖霊も降っては来られなかったのです。

主を信じるというのは、そういうことを信じるのです。ただこの方が素晴らしいお方だからとか、ただこの方が立派だったからだとか、そういうことではなく、ただ主の十字架と復活と、父の許に、受け容れられたのだ、ということを、信じるのです。主が栄光をお受けになったのは、私どものためであったのだということを信じるのです。神様は、そういう方法をお取りになったのだということを信じるのです。そうして神様は、御子をご自分の許にお受け取りになって、替わりに、聖霊を遣わされました。私どもの、ほんとうの命を生み出す水というのは、そうやって与えられたのであります。

主イエスがここで言われておりますのは、そうして、これから、ご自分の死を経て、聖霊を受け入れた者「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:38)ということでした。

「わたしを信じる者」その者は、「その人の内から生きた水が」流れ出るようになる。
「その人の内から」というところの「内」というのは、「腹」という字なのです。お腹の「腹」です。私どもにもよくわかる、腹の底です。魂と言ってもいいですし、心の奥底と、当時の人は捉えていたようです。その「腹から、生きた水」が流れ出ると、主は言われたのです。

そうしますと、私どもの自分の腹に、聖霊の大いなる水が入って来て、体中が潤って、その人の腹から、今度はまた、聖霊が湧き出るのです。聖霊はそうやって生きてくださるというのです。私どもはそうやって、自分が救われたことに満足するだけではなく、その人の内から、霊が泉のように湧き出て流れ出るようになると主は言われたのです。私どもの腹から、何が出るのかと言えば、聖なる霊が出るのであります。主イエスにつながれて、その水が湧き出るのです。私どもは、今ほんとうにつらい思いをしております。でもそのつらい思いのなかに、主イエスの霊の水が、聖霊の水が、滔々と入って来て、そしてそこから湧き出るようにして、他の人にも注がれるようになるのです。

けれどもこのことについては、ある一定の人々がこういうことを申すのです。この「その人」とはだれか。この「その人」という存在は、もちろん私どもと読むことができるわけです。でも、それに重なるようにして、「その人」とは、主イエスのことであると、読むことができるというのです。「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。

主イエスが十字架におかかりなりました時、そのおからだから血と水が流れ出たと言われております。主イエスが死なれたことを確かめるために、兵士の一人が槍で主イエスのわき腹を刺した。「すると、すぐ血と水とが流れ出た。」(19:34)これは主イエスが、ほんとうの人として死なれた証拠であると共に、いまや、水門が開かれた証であります。
主のわき腹から、水門が開いた。

渇いている者よ、飲め、と。

 

それは大河となって、信じる者たちを生み出し、潤すのであります。

信じる者が飲むものはこの水なのです。そして信じているなら、それを飲んでいるのであります。

私どもはこの地上においては、荒れ野で仮小屋暮らし、テントでステイホームかもしれないです。けれども、この水の流れを、神様は止めることはなさらないです。御子を降された神様は、どんな世界であっても、救いの給水を止めず、信じる者たちを泉として、多くの者を御子のところに引き寄せ、約束の地へと、導いてくださいます。ですから、

来て、飲め。

この試練の中でも、足が運べないなら、心を運び、心の奥底でもって、主のお傍にまいりましょう。この主の叫びを、私どもの、心の泉といたしましょう。

 

祈りをいたします。
父なる神様、感謝をいたします。私どもを聖なる泉としてください。主の御名によって祈ります。
アーメン

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