2020年12月20日 降誕主日礼拝

「本物の人間、偽物の人間」

川崎 公平

テサロニケの信徒への手紙一 第5章23-28節 

 

■クリスマスおめでとうございます。今年はたいへん特別なクリスマスになりました。長く生きていれば、それだけたくさんのクリスマスの思い出も積み重ねられるものだと思いますが、それにしても今年のクリスマスは、特別な記憶として残るものがあるだろうと思います。もうずいぶん長い間礼拝出席を控えている、我慢しているという仲間たちがたくさんいます。それでも今日だけは、せめてクリスマスの礼拝だけは、という思いでここに座っておられる方もあると思います。それも許されず、今日も自宅にとどまり、ライブ配信による礼拝をしたり、あるいはそのライブ配信すら見ることができず、クリスマスだからこそ、かえってますます、侘しさが募っているという方だって、決して少数ではないと思うのです。幸いにして教会堂に集まることができたとしても、クリスマスの讃美歌を思いっきり歌うこともできない、聖餐を祝うこともできないということは、やはりさびしいものだと思います。
 けれども、他方で私がひとつ感謝していることは、しばらく前の礼拝でも同じようなことを申しましたが、今年の8月から今日に至るまで、伝道者パウロの書きましたテサロニケの信徒への手紙一を皆さんと一緒に読むことができたことです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書第3章11節/口語訳)と聖書にありますが、まさに時にかなった慰めを神さまからいただいたと、私は感謝しているのです。
 今日は、その最後の部分を読みました。これをそのまま、説教者である私から皆さんへの挨拶として、贈りたいと思います。

 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
 兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。
 すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。
 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。

■この小さな手紙は、今申しましたように、伝道者パウロが、テサロニケという大きな町に生まれたばかりの教会に宛てて書いた手紙であります。パウロにとって、テサロニケの教会との出会いは、特別なものがあったようです。使徒言行録第17章にも、パウロたちが初めてテサロニケを訪れたときの様子が伝えられています。関心のある方は、改めて開いて読んでみてくださってもよいと思います。パウロたちがテサロニケの会堂でイエス・キリストの福音を語ると、それを聞いた多くの人が信仰に導かれ、特に裕福な婦人たちがたくさん洗礼を受けたと書いてあります。けれども同時に、特にユダヤ人のねたみを呼び起こすことになり、遂にパウロたちは夜逃げをしなければならなくなります。使徒言行録にはこんなことが書いてあります。

しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を(つまり、パウロとその同伴者シラスを)民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています」(使徒言行録第17章5~7節)。

ヤソンという教会員の名前が残っています。きっとパウロは、このヤソンの家に厄介になっていたんでしょう。ところがそのヤソンの家を、町のならず者たちが襲撃しました。「あいつらを出せ! ここにいるのは分かってんだぞ!」 それでヤソンとその仲間は、町の当局者たちのところにむりやり連行されて……ヤソンだって、怖かったに違いないのです。ヤソンにだって、守るべき自分の家族があっただろうと思うのです。けれどもヤソンたちは、パウロとシラスを守るために、どんなことをされても、最後までパウロたちをかくまい通しました。パウロたちがこのヤソンの名を忘れることなく、その名が使徒言行録にも残っているのは、考えてみれば当然のことかもしれません。
 たとえば、そのヤソンのためにも、第5章23節以下で、パウロはこう祈っているのです。「どうか、平和の神御自身が、あなたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」。「兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください」。このような言葉について、何の説明もいらないと思います。キリストの教会が生きている、その命がいきいきと息づいている姿を、はっきりと読み取ることができると思うのです。

■この手紙の第2章には、こういう際立った言葉がありました。

ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです(第2章7~8節)。

「自分の命さえ喜んで与えたい」というのは、ずいぶん激しい発言ですが、先ほどのヤソンのような人の存在を考えてみると、むしろテサロニケの教会員の方が、パウロ先生のためなら、「自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどの」愛に生かされていたのです。そして、こういうことを言うのはちょっと恥ずかしいのですが、この5か月間、この手紙を説教し続けて私が改めて学んだことは、私もまた鎌倉雪ノ下教会を愛する牧師とさせていただいているし、何よりもこの教会の愛に支えられ、皆さんの祈りに支えられて、妻と共に、また嶋貫牧師、中村牧師と共に、ここに生かされているということです。そこに生まれる祈りが、ここに、このように記されているのです。

どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守ってくださいますように。兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。

このような祈りが、パウロとテサロニケの教会との間でますます切実なものになった、具体的な事情がありました。この手紙の同じく第2章ですが、その終わり近く、第2章17節以下にはこういうことが書いてありました。

兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。

詳しいことは分かりませんが、パウロたちは、もう一度テサロニケの教会を訪ねようと、何度も試みたようなのです。けれども、どうしてもそれが叶わなかった。それはサタンが邪魔をしているのだ、とまで言うのです。このような聖書の言葉は、おそらく、1年前に読んだとしても、それほど印象に残らなかったかもしれません。ふーん、そういうこともあったんだね、でおしまいだったかもしれません。けれども今は、痛いほどに、このパウロの発言の重みが分かるようになったと思います。私どもも、互いに引き離されているからです。もちろんそれは、「顔を見ないというだけで、心が離れているわけではないのですが」、だからこそ、なおさら、あの人の顔を見たい。あの人と一緒に賛美を歌いたい。時間を忘れておしゃべりを楽しみたい。それができないということがつらくてならないのです。
 そのような切実な祈りのうちに書かれた手紙が、このような祈りによって結ばれていることの意味を、私どもは、少なくとも今は、かつてよりも深く理解できるようになったのではないでしょうか。「どうか神が、あなたの霊も魂も体も守ってくださいますように。そしてどうか、わたしのためにも祈ってください」。教会とは、このような意味における、祈りの共同体なのです。
 今年は、イースターもクリスマスも満足に祝えない。それは一方では、試練と言わなければならない。教会の危機であると言わなければならない。けれどもそのためにますます、お互いのための祈りが深まるとするならば、それはたいへん幸せなことだと言わなければならないのかもしれません。

■そこで改めて、問いを深めたいと思います。祈り、祈りと繰り返してみせましたが、いったい何を祈るのでしょうか。ここでパウロは、何を祈っているのでしょうか。そこでひとつ、言葉の説明をした方がよいかもしれません。23節に、「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り」と書いてあります。「霊と魂と体」というのです。少し気取った言い方をすると、ここにひとつの聖書的な人間理解が現れていると言うことができると思います。常識的に考えれば、人間というのは、心と体、ちょっと言い換えれば肉体と魂、そのふたつから成り立っていると考えることができるでしょう。ところがここでは、そこに「霊」が加わります。そこでまた多くの人が自然と思い起こすのは、旧約聖書の最初のところで、主なる神が土をこねて人間を作り、その鼻に「命の息」を吹き入れられて、人は初めて生きる者となった、という記述があります。そのときの神の「息」というのは「霊」とも訳せる言葉です。神の霊を吹き入れられて、人間は初めて人間になった、という〈人間理解〉であります。
 パウロはしかしここで、「人間とは何ぞや」というような哲学的な議論をしているのではありません。テサロニケの教会の仲間たちの顔と名前をありありと思い出しながら、たとえばその中にはヤソンというような人がいる、その家族もいる。そのひとりひとりの肉体のために、魂のために、その霊のために、〈祈り〉をしているのです。このように理屈っぽく言うとかえって分かりにくいかもしれませんが、これは私どもが現にしていることではないでしょうか。教会の交わりの中で、既に私どもが自然にしていることだと思うのです。教会の仲間のために祈るとき、それは本当に具体的に、その肉体が神に守られるようにと祈るのです。その魂が、健康であるようにと神に祈るのです。その人の霊のために祈る、というのはおかしい感じがするかもしれませんけれども、霊というのは、神さまからいただくものです。それが消えることのないように。19節にも既に、「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません」と書いてあります。教会のこの人の肉体が守られるように、あの人の魂が守られるように、と祈りながら、その人の“霊”の火が消えることがありませんように。預言を軽んじるようなことがありませんように。
 人間というものは、たいへんに弱いものだと思います。体においても。魂においても。何よりも霊において、言い換えれば神との関わりにおいて、弱く、欠けているところだらけで、罪深い存在なのであります。この私の体が、罪を犯すのです。魂の深いところでは、体がする以上の罪深いことを思い図るのです。神からいただいた命の息、その“霊”の火を私どもの罪が消してしまっているからだと言わなければならないと思うのです。けれどもそのような私どもの霊と魂と体が、何ひとつ欠けたところのない、完全なものとして守られるようにとパウロが言ったとき、既にパウロは、ひとりのお方のことを思い起こしていたに違いないのです。それが、人となってくださった神、イエス・キリストであります。

■私どもの主イエス・キリストは、肉体をもって、ひとりの幼子として生まれてくださいました。ただ霊的な存在というのではなく、心と体を持った人間になってくださったのであります。それがクリスマスの意味です。
 そのことについて、たとえばヘブライ人への手紙は、「大祭司(イエス)は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」(第5章2節)と書いています。このお方は、「自分自身も弱さを身にまとっている」。肉体をもって生きることの喜びも悲しみも、私どもと同じように知っていてくださったのです。その心においても悩みを知り、何よりも、罪に誘惑されるということがどういうことか、よく分かっていてくださるのです。ですから、同じくヘブライ人への手紙は、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(第4章15節)と書いています。
 私どもは、体においても心においても、弱い存在なのであります。神は私どもの鼻の穴から、ご自身の霊を吹き入れてくださったと書いてはありますが、同時にパウロが「“霊”の火を消すな」と警告しているように、その神の霊を消してしまう私どもの弱さは、本当は弱さなんて言い方では足りないかもしれないので、まさにそこに私どものみじめさがあり、罪深さがあるのです。けれども、あの大祭司イエスは、自分自身も肉をまとい、人間の心を持ち、だからこそ私どもの弱さに同情できない方では決してない。このイエスの愛を信じて、パウロは初めてこのように祈ることができたのだと思うのです。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように」。「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」。もしも、この神の真実がなかったら、私どもがどんなにお互いのために祈ったって、何の力も持たないだろうと思うのです。
 毎月第3木曜日の教会祈祷会で、中村牧師がエレミヤ書を説き続けています。たいへん激しく神の民イスラエルの罪を打つエレミヤの言葉は、時に息を呑むほどのものがあると思います。先週の祈祷会で読まれた第11章に、こういう言葉がありました。

あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてはならない(14節)。

率直に申しまして、私は心の中で、こりゃ困ったな、と思いました。次の日曜日に自分が説教しようとしているところでは、パウロがテサロニケの教会のために祈っているし、またパウロ自身、「わたしのためにも祈ってください」とお願いをしている。それなのに、「あなたは、この民のために祈ってはならない」というのは……しかし、考えてみれば当然ではないかと思ったのです。もともと、私どもは、誰かにとりなしていただく価値もなかったのであります。そしてそれ以上に、誰かのためにとりなしの祈りをしてあげる資格もなかったのであります。けれどもそこで中村牧師がエレミヤの言葉に添えて簡潔に語ってくださったことは、われわれは結局のところ、主イエスの前に立つほかない、主イエスにとりなしていただくほか救われる道はない、ということです。
 このわたしの体が、罪を犯すのです。このわたしの心が、生まれつき、神と隣人とを憎む方向に傾いているのです。そのような私どもが、「霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守」られるために、まず神の御子ご自身が肉体と魂を持つ人間にならなければなりませんでした。そしてこの方こそ、最初に神が人間に命の霊を吹き入れてくださった、まさしく本物の人間、本来の人間であられたのです。
 このお方を信じて、私どもも望みを持つことができます。本物の人間になる望みです。「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものと」される望みです。どうか平和の神ご自身が、そのような者として、皆さんひとりひとりを守ってくださいますように。「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」。そしてどうか皆さんも、わたしのために、牧師たちのために祈ってください。
 主イエス・キリストの恵みが、皆さんひとりひとりと共にありますように。お祈りをいたします。

本物の人間となってくださった御子イエスを仰ぎつつ、私どもも今望みを持つことができます。あなたからいただいた霊と、魂と、体をそこなってしまっている私どもの罪を悔い改めつつ、これを今一度あなたの手にゆだね、全きものとさせていただくことを望みとすることができますように。その望みのうちに、互いのためにも祈るものとさせてください。改めて、祝福された教会の生活を与えられていることを感謝し、主のみ名によって祈り願います。アーメン

カテゴリー: 未分類 パーマリンク