2020年11月22日 主日礼拝

「二度目のクリスマス」

川崎 公平

テサロニケの信徒への手紙一 第5章1-11節 

 

■今日の説教の題を、「二度目のクリスマス」といたしました。どうも最近、礼拝の中でその日の説教の題を改めて紹介することが多くなっていることが、自分でも気になっているのですが……。なぜこういう題をつけてみたか、私の思いを理解していただくことも無意味ではないと思います。
 「二度目のクリスマス」という説教の題は、もちろん、先ほどお読みした聖書の言葉と関係があります。ここでパウロが語っていることは、言ってみれば、「二度目のクリスマスについて」である。つまりそれはどういうことかというと、一度目のクリスマスというのは、だいたい2020年くらい昔に起こりました。ユダヤのベツレヘムという小さな村の馬小屋の片隅に、小さな赤ちゃんが生まれた。見ただけでは何の変哲もない、というよりも、この世の中で最底辺の場所にお生まれになった赤ちゃんについて、けれども天使が、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに現れて、神の言葉を告げてくれました。

恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。

このクリスマスの情景は、無数の人びとを慰めてきたと思います。神が、地上に来てくださったのです。まことに静かな、ほとんど誰にも気づかれないような小さな光が、ベツレヘムの馬小屋に輝きました。けれどもその小さな光は、すべての人を照らす命の光であったことが、明らかになりました。主なる神の栄光が、羊飼いたちをめぐり照らしたその光は、このわたしのための光でもあったのだと、誰もが信じることができるようになりました。それをヨハネによる福音書はたいへん印象的に、また象徴的に、「光が闇の中に輝いたのだ」と申します。
 一度目のクリスマス。御子イエスがこの地上にお生まれになって以来、この世界はまったく新しい光の中に置かれることになりました。あの最初のクリスマスの夜以来、私どもは、この世界について絶望することができなくなりました。どんなに闇が深く見えても、この世界は、決して、神に見捨てられた、闇の中に放り出された世界ではない。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。この世界は、神の御子イエスが、私どもと共に生きて、そして死んで、そして甦ってくださった世界なのだ。一度目のクリスマスは、その神の愛を、決定的に証しする出来事になりました。

■この一度目のクリスマスに始まった神のみわざは、しかしまだ完結しておりません。クリスマスにお生まれになった主イエスが、やがて十字架につけられ、お甦りになり、そして天に昇られるという時に、ひとつの約束を残して行かれました。「わたしは必ず、あなたがたのところに戻ってくる」。そのキリスト再臨の約束を信じるところから、教会の歩みは始まったのです。それが、「二度目のクリスマス」という説教題の意味です。
 一度この世界に来てくださった主イエスは、再びこの地上を訪れてくださる。それを教会の信仰の言葉で、〈再臨〉と呼びます。先ほど使徒信条の中で、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と唱えたのもそのことです。そのとき、すべての歴史が終わります。すべての闇は消え去り、神の光だけが支配する新しい世が現れる。この主の再臨こそが、私どもに与えられた希望です。パウロはここで、その再臨の時を「主の日」と呼び、この「主の日」を待つ私どもの生活について、語っているのです。
 この再臨ということについて、しばしば、「分かりにくい、どうも理解できない」という感想が生まれることがあります。それはそうだろうと思います。神の御子イエスが再びおいでになるとか、ましてそこで世界の歴史が終わるなんて、人間の頭で理解できるようなことではありません。分かりにくいのは、むしろ当然です。しかしだからと言って、「再臨なんて、起こりっこない」という話にはなりません。一度目のクリスマスの前に、何か前触れはあったでしょうか。もちろん旧約聖書に出てくる預言者たちは救い主の登場を預言しましたが、けれども蓋を開けてみれば、一度目のクリスマスは、やっぱり何の前触れもなく、しかもすべての人の考えを覆すような仕方で起こったのであります。だからこそ、クリスマスの出来事は、すばらしい神の恵みの出来事になったのではないでしょうか。神がすべてを決定なさったのです。二度目のクリスマスも同じだと、パウロは言うのです。改めて1節から読んでみます。

兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。

一度目のクリスマスが何の前触れもなく起こったように、二度目のクリスマス、つまり主の再臨も、その日付を事前に知ることは誰にもできない。そう言うのです。

人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません(3節)。

しかし、そのように読んでまいりますと、もしかしたら分かりにくいのは4節です。

しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。

最初に2節で「主の日は盗人のように来る」と言っておきながら、4節では「主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはない」と、まるで矛盾しているようですが、矛盾でも何でもありません。主イエスは、いつおいでになるか分かりませんが、再臨はいつであっても構わないのです。なぜかと言うと、5節。

あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。

この「光の子」という印象深い表現から、最初のクリスマスに輝いた光を連想することは決して間違いではないと思います。あの最初のクリスマスの夜以来、私どもは、神の愛の光の中に立たせていただいているのです。毎年私どもがクリスマスを喜んで祝うのも、その神の光を信じてのことで、そういう私どもが、二度目のクリスマスについては、どうもピンと来ないとか、いつだか分からないから怖いとか、そんなことは考えられません。

■けれども話はそこで終わらないので、ここでパウロは、主の再臨を前提とした私どもの生活の姿勢を語っていきます。

従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう(6~8節)。

ここでの主題は、主の再臨です。「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」という、最後の神の裁きを前提としている人の生活の姿勢は、自ずと新しくなるであろう。しかしそうなると、だんだん話が難しくなってくるかもしれません。最後の裁きというのはつまり、自分が一生の間にしてきたこと、いいことも悪いことも、人には隠してきたことも、最後はすべて明らかにされるということは、率直に言って恐ろしいことです。先ほど読んだ3節でも、「人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません」。そんなことを真剣に考え始めたら、私どもは絶望するしかないかもしれません。けれども、ここでパウロが私どもに教えていることは、恐怖でも絶望でもありません。
 そこで改めて考えてみたいことは、ここでパウロは、主イエスを泥棒に譬えています。言うまでもありませんが、これはあくまで「予告なしに来る」ということの譬えであって、主イエスを犯罪者呼ばわりしているわけではありません。ある人は、これを泥棒ではなく突然のお客さんに譬えてみせました。皆さんの中にも、きっとそういう方があると思いますが、予告なしにお客さんが家に訪ねてくると、非常に慌てます。散らかっているものを寝室かなんかに放り込んで……もちろんそうでない、きちんとした方も多いと思いますが。しかしここでの問題は、主が突然訪ねて来られても慌てずに済むか、ということです。パウロはここで、あなたがたは光の子だから、いつ主がおいでになっても大丈夫だね、と言っているのです。私どもの生活は、何年何月にキリストの再臨があるから、それまでは安心だと言って部屋を散らかし放題にするというのではなくて、いつでも、再臨の主イエスをお迎えする用意ができているのです。その意味では、再臨を思うことは、特別なことではなくて、毎日の生活を支える心、そのものなのです。しかし、それがいちばん難しいとお感じになるに違いありません。
 主イエスを突然のお客さんに譬えてみるというのは、その通りだろうと思いますが、それだけではないだろうとも思います。主イエスは、お客さんではありません。ほかの部屋はどんなに汚くても、とにかくきれいな客間にお通しして、何とかやり過ごすというわけにはいかないのです。その意味ではやはり泥棒に近いのかもしれません。すべての部屋が探られるのです。片付いていない部屋にも、人には見せたくない場所も、というよりも、私どもの生活の中でいちばん罪深いところにも、主が入って来られるのです。それは困る、というのはおかしなことで、本当は、今既に、私のすべてが主のまなざしの中にあるのです。
 一度目のクリスマス。なぜ主イエスは、この世界においでになったのでしょうか。よほどこの世界がきれいだったから、主をお迎えすることが可能だったのでしょうか。そんなことはないのです。むしろ、世界が罪の闇の中に覆われていたから、はっきり言えば、この私が罪深かったから、主が来てくださったのです。この私が、神の愛を裏切るような人間であったから、この私が、隣人を愛によって生かすことのできない悲惨の中にあったから、だから主はひとりの幼子として、馬小屋に生まれてくださったのです。9節以下に、こう書いてあります。

神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

私どもが最初のクリスマスにお迎えしたのは、このようなお方であったのです。私どもを神の怒りに定めるためではなくて、救いにあずからせるために、そのために十字架の死を苦しんでくださったのが、あのイエスさまです。そのお方が、今既に、「目覚めていても眠っていても」、私どもと共にいてくださいます。その恵みの中で、私どもは二度目のクリスマスを心待ちにするのです。もう一度、私どもの愛する主が来てくださることを待ちながら……それが、今ここにおける私どもの生活の基盤となるのです。もう一度、6節から8節までを読みます。

従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。

■6節と8節に、「身を慎んでいましょう」という言葉が繰り返されます。直訳すると「酔っ払うな、しらふであれ」という意味です。酔っ払うというのは、言い換えれば、現実がよく見えなくなるということでしょう。酔っ払って、眠りこけて、何が見えなくなるかというと、10節。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」。今共にいてくださる主の姿が見えなくなるし、ということは、二度目のクリスマスの約束もすっかり忘れてしまう。けれどもそれは、酔っ払いと同じレベルだと言っているのです。
 「しかし、わたしたちは昼に属しています」と言います。われわれは昼を生きているのであって、酔っ払ってなんかいない。目覚めた思いで、主を見ている。だから、「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」。このところについて、ある人が注意を促しています。「わたしたちは昼に属しています」というのは、事実の確認。それに対して、「だから、身を慎んでいましょう」というのは命令の言葉。問題はその間にある、「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり」というところで、これを事実の確認として読むのか、それとも命令として読むのか。「信仰と愛を胸当てとして着けなさい、救いの希望を兜としてかぶりなさい」というように、命令の言葉として読むと、パウロの意図を読み違えることになるだろう。そうではなくて、「わたしたちは昼の子であって、既に信仰と愛の胸当てを着けている。救いの希望の兜を、既にかぶっている。だから、身を慎んでいましょう」。既に胸当ても兜も、主イエスから支給されている、そして既に身に着けている。その上で、だからこそ、正気でいることができる。そう言うのです。
 酔っ払わないで、主と共に生きる。それはしかし、現実問題として、戦いでしかないと思います。主が共にいてくださる、その現実を見えなくさせる闇の力が、いつも私どもの生活を脅かすものです。神の愛だとか、クリスマスの恵みだとか、そんな甘ったれたことで現実の世界を生きていけるか。そう思い込むとき、けれども私どもは、まさにそこで酔っ払いになるのだと思うのです。
 そんな私どものために神は、信仰と、愛と、救いの希望と、この三つの武器を支給してくださいました。私どもの生きる世界の基準から言えば、あまり頼りにならない防具に見えるかもしれません。信仰とか、希望とか、愛とか、こんなもので戦えるか。そんな酔っ払いのようなことを言わないでいただきたい。パウロは別の手紙で、すべての知識が廃れても、信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残ると言いました。いつか主が再び来てくださるとき、それはまた、神が既に私どものために、どんなにすばらしい賜物を与えてくださっていたか、それが明らかになる時だと思います。
 信仰と、希望と、愛。主が再び来てくださるとき、私どもは、この三つのものについてイエスさまにどんなに感謝しなければならないかと思いますが、他方から言えば、お詫びをしなければならないかもしれません。「イエスさま、申し訳ありません。こんなにすばらしい胸当てと兜をいただいていたのに、それを十分に使うことができませんでした。闇の力が怖くて、いろんなほかのもので自分を守ろうとして、そうやって罪を犯してしまいました。申し訳ありません」。けれども、それでも、神の愛に揺らぐところはひとつもない。そのことが明らかになるのが、二度目のクリスマスであります。その時を待ち望みつつ、11節にあるように、今既にここで、互いに励まし合う、そういう教会の生活を始めたいと、心から願います。祈ります。

マラナ・タ、主イエスよ、来てください。目覚めた思いで、いつもその願いに生きることができますように。そのために既にあなたは、信仰と、希望と、愛と、この三つの永遠の賜物を与えてくださいました。目覚めた思いで、その事実に気付いていることができますように。私どもも、弱っています。いつも罪に誘われています。だからこそ、互いに励まし合うことができますように。目覚めていても眠っていても、主と共にある幸いの中に立ち続けることができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン

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