2020年11月1日 主日礼拝

「誰を喜ばせるために生きるのか」

川崎 公平

テサロニケの信徒への手紙一 第4章1-12節

 

■伝道開始103年の記念礼拝を、「いつも通り」と表現してよいでしょうか、教会堂においでになる方を制限した形で行わなければなりません。今朝も教会の仲間の多くが、この礼拝堂に来ることを断念しなければなりません。礼拝動画の配信、あるいは説教の原稿や録音に頼りながら、信仰生活を続けている仲間たちの多いことを思います。もちろん神は、私どもの全能の父ですから、どんな手段を用いてでも、み言葉をもって教会を生かしてくださると信じておりますし、だからこそ、この鎌倉雪ノ下教会の歩みも、これまで103年間、何度も倒れそうになりながら、けれども決して倒れることなく、支えられてきたのであります。そのことを記念する感謝の礼拝を、このようなさびしい形でしかすることができないということは、これは決して、本来の教会の姿ではありません。
 けれども同時に、私が心から感謝していることがあります。このようなタイミングで皆さんと一緒にテサロニケの信徒への手紙一を学ぶことができたことです。8月から読み続けているこの手紙を、今朝も迷うことなく読み続けることにしました。伝道開始記念の礼拝だからって、特別な聖書の言葉を選ぶ必要はない。むしろ、このような時にこそ、神がこの手紙を、私どもの教会に与えてくださったことを共に感謝したいと思いました。
 伝道者パウロが、テサロニケという町に生まれたばかりの教会に書き送った手紙です。何度もお話ししていることですが、テサロニケの教会は、パウロたちの伝道によって生まれました。けれども激しい迫害に追われて、パウロたちは他の町へ逃げなければなりませんでした。その後も、何らかの事情が重なって、パウロたちはテサロニケの教会を再び訪ねたいと願いながら、それが叶わなかった。そこで、やむにやまれぬ思いを込めて書かれたのが、この手紙です。
 私どもと同様に、テサロニケの教会の人たちも伝道者パウロの説教を肉声を聴くことができず、もちろん当時は説教のライブ配信なんかできませんから、パウロは手紙を書くことになりました。パウロの本当の気持ちから言えば、こんな手紙、書かずにすむのなら、そちらの方がよほどよかったというところかもしれません。ところがその手紙が、二千年の時を越えて、今私どもの教会を生かす神の言葉として響き続けているのです。
 ご存じの通り、新約聖書の半分近くは手紙です。手紙という形式そのものが、福音を伝える手段として最も適切な、神のお選びになった方法であるのかもしれません。しかもこのテサロニケの信徒への手紙一というのは、新約聖書の中で最も古い文書です。共に礼拝をすることを妨げられた教会と伝道者が、そのような人を引き離す力に抵抗するように、手紙という手段で共にキリストの福音にあずかったのです。そのような手紙を読みながら、神が今も、この鎌倉雪ノ下教会を生かしてくださり、その歴史の新しい一頁を開いてくださることを、感謝をもって受け止めたいと思うのです。

■そこで今朝は、第4章の前半を読みました。ここからこの手紙は新しい区分に入ります。

さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。

わたしたちは、あなたがたに〈歩き方〉を教えたのだ。その歩みを、今後も続けなさい、というのです。
 ここでパウロが「歩む」と言っているのは、言うまでもなく、何キロ歩いた、今日は1万歩も歩いた、というような意味でははなくて、「生きる」、「生活する」ということの比喩的な表現です。日本語でも「鎌倉雪ノ下教会103年の歩み」などと言います。今私は当たり前のことをしゃべっているようですが、たとえば英語でこの「歩む」という言葉を翻訳しようとしたら、”walk”と訳しても訳せないこともないかもしれませんが、おそらく別の言葉を使った方がしっくりくるでしょう。日本語の「歩む」という言葉が「生きる、生活する」という意味を持つというのは、いわばたまたまのことです。ただ興味深いことに、ギリシア語においてもこの「歩く」という言葉を「生きる」という意味に転用するのはそれほど一般的なことではなくて、あるギリシア語の辞書を調べてみると、特に新約聖書のパウロの手紙においてこの用法が広く使われるようになった、と書いてあります。「生きるということは、歩くことだ」。そこに既に、私どもの信仰の特質を見出すことができると思うのです。
 歩くということは、地味なことです。私どもの生活、しかも神を信じる生活というのは、熱狂的になって、全速力で100メートル走を10秒ちょっとで走り終わったと思ったら、しばらく息切れがして動けない、ということではないし、それは神の御心にかなうものでもないのであって、毎日休むことなく、こつこつ、歩き続けるのです。
 11節にも、「そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」とあります。「そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう」(12節)。ここにももう一度、「歩む」という言葉が出て来ます。毎日毎日、平々凡々たる生活が続きます。その意味では、パウロがテサロニケの教会に教えた歩き方というのは、決して劇的なものでも、熱狂的なものでもありませんでした。「自分の仕事に励みなさい」。つまり、洗礼を受けたからって、仕事をやめたり変えたりする必要はない。けれども、テサロニケの教会の人たちは、驚きをもってパウロたちの歩き方を学んだと思います。ああ、こういう歩き方があるんだ。

■その歩き方について、1節では、「神に喜ばれるためにどのように歩むべきか」と言います。テサロニケの教会の人たちがパウロたちから学んだ歩き方、それは神を喜ばせる歩き方です。これは、言うだけなら簡単かもしれませんが、私どもの人生をまったく新しく決定づけることだと思います。「あなたは、誰を喜ばせるために生きるのか」。私どもの〈古い自分〉がいつも考えていることは、まず何と言っても自分を喜ばせることでしょう。それこそ、毎日毎日、歩いていても寝ているときも、私どもが最初に考えることは、自分を喜ばせることであるに違いありません。けれども、本当はそれだけではないのであって、私どもがその次に考えることは、どうしたら人に喜ばれるかということです。自分のしたことを、人がどう思うか。自分のことを、誰が褒めてくれるか、あるいは誰が自分の悪口を言っているか、いつどこを歩いていても、私どもが寝ても覚めても考えていることは、きっとそういうことだろうと思います。
 ところがパウロたちがテサロニケの教会の人たちに教えた歩き方というのは、「あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました」。「そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください」。それを12節では改めて、「そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう」と言うのです。その人の歩く姿、言ってみればただ歩いているだけなのに、品位がにじみ出てくる。それは「外部の人々」、つまり神を信じていない人にも、見れば分かるのです。あれ、あの人の歩き方、きれいだな。どうしてあんな品のある歩き方ができるんだろう。ただ神を喜ばせることだけを考えて歩いている人の姿は、信仰を持っていない人の心を動かすほどのうるわしさを見せるはずだと、パウロは言うのです。しかし考えてみれば、そうかもしれません。自分のことしか考えない人の歩き方が醜いのは言うまでもなく、いつも他人の目ばかり気にしている人の生き方というのも、第三者から見たら、かえって見苦しいものになっているのかもしれません。

■このような聖書の言葉は、しかし、おそらく、私どもを困惑させるものがあるだろうと思います。品位のある歩き方なんて、そんなそんな……。しかし、12節よりもずっと厳しいと感じられるのは、3節ではないかと思います。「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」というのです。こんな言葉を聞かされて、困らない人はひとりもいないかもしれません。いったい、どうすればよいのでしょうか。
 しかし、ある説教者は、この3節を説き明かして、こういうことを言っています。「あなたがたが聖なる者となることは、神の御心だ」。注意していただきたい。われわれが聖なる者となることは、神の御心、神のご意志であって、われわれの意志によることではない。ところがその神のご意志を、われわれはなかなか理解しないのではないか。そう言って、マタイによる福音書第6章の主イエスの言葉を引用してみせるのです。「あなたがたのうち誰が、思い煩ったからといって、身長を伸ばすことができようか」。これは、実は新共同訳では翻訳が違っていて、「寿命をわずかでも延ばすことができようか」と書いてあります。しかしたとえば文語訳聖書では、「寿命」ではなくて、「身の長(たけ)一尺を加へ得んや」と訳されました。身長でも寿命でも、伸ばすことができないことは結局同じことですが、「なるほど」と思わされたのです。たとえば小さな子どもが、「きみが大きくなることは、神さまの御心なんだよ」と言われたとして、それなら、と言って、背丈を高くしようと頑張り始める子どもはいないでしょう。神のご意志ならば、頑張らなくたって自然と背は伸びるのです。けれども背丈よりもずっと大切なことがある。「あなたがたが聖なる者となることは、神の御心だ」。私どもを聖なる者としてくださるのは聖霊なる神であって、われわれではない。
 私はそういう説き明かしを読みながら、本当にそうだと、しみじみそう思いました。それは、たまたま先週、うちの息子が7歳の誕生日を迎えたからということもあるかもしれません。すうすう寝息を立てている息子が、今や完全に大人ひとり分の布団を占領してしまって、「なんか、でかくなったなあ……」。この子についても、「誰が思い煩ったからって、身長を伸ばすことができようか」。「それをしてくださるのは、神だ」。そのことを信じることができるなら、「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」というこのパウロの言葉についても、確信を持つことができるはずだと思ったのです。
 パウロは、この手紙の終わり近く、第5章23節以下で、改めてこう書いています。

どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。

それをしてくださるのは、神ご自身だ。そして(少し飛ばして)24節で重ねて言います。

あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。

私どもの望みは、この真実なる神に喜んでいただくことです。ただしそれは、一所懸命「清く、正しく、美しく」、そのために努力して、神さまを喜ばせよう、喜ばせよう、と頑張るというのは、話が違います。どんなに思い煩ったからって、身長を伸ばすことも寿命を延ばすこともできない私どもですが、私どもを成長させてくださるのは神であり、その成長を喜んでくださるのも神ご自身なのです。人間の親だって、子どもが大きくなれば、それだけでうれしいんです。それにも似て、いやそんな親の喜びなんか吹き飛ばしてしまうほどの大きな喜びをもって、神は私どもの歩みを喜んでいてくださる。その神の喜びの前に立つときに、既に私どもの聖化は始まっているのです。

■けれども、私どもが聖なる者となる、そういう意味での成長を妨げる力が実際に存在していることにも、気づいていなければなりません。パウロがここで具体的に語っていることは、そのことです。たとえば、3節以下です。

実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。

ここでパウロが取り上げている性の問題というのは、人間の最も根本的な欲望に関わることで、それだけに、さまざまな具体的な罪が生まれるものです。6節で、「このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません」と言われていることも、私どもには説明抜きによく分かるので、旧約聖書の最大の王ダビデが、この点において決定的な罪を犯し、「兄弟を踏みつけたり、欺いたり」したことを思い出すまでもなく、古今東西どこででも起こってきた悲劇です。そこでパウロは、まことに単純に告げるのです。あなたの妻を大切にすることは、神さまを喜ばせることでしかないのだから、そのことをよく理解してほしい。
 ところで、この「妻」という言葉について、敏感な方は、特に女性の皆さんは「ん?」と思われたかもしれません。なぜここで妻だけが出てくるか。なぜ夫は出てこないのか。結局パウロも男性中心の社会に生きた人間であって、男の側からしか物事を考えていないではないか。けれども実は、ここは聖書の解釈について、既に古代(4世紀ごろ)から激しい議論が続いているところで、直訳すると「器」、「道具」という言葉です。「あなた自身の器を、聖さと尊敬の内に保ちなさい」というのです。その「器」という言葉を「妻」と読むか、あるいは「自分の体」と読むか。あくまで私個人の見解ですが、「妻」という翻訳は、語学的には少し苦しいかな、と思いますし、やはりと言うべきか、一昨年に刊行された聖書協会共同訳という新しい翻訳は「妻」という言葉を消して、「自分の体を聖なるものとして尊く保ちなさい」と訳しました。面白いのはある文学者が個人で訳した新約聖書の翻訳で、「自分の体を尊敬しなさい」と言います。自分の体を軽蔑するな。それは神さまからお預かりしたものだから、きちんと尊敬しなさい。そのとき、言うまでもないことですが、その体の使い方に関して、自分の夫や妻を軽んじるようなことがあってはならないのです。
 このような福音を聞かされたテサロニケの人たちは、本当に新しい世界に目を開かれたような思いではなかったかと思うのです。「自分の体を尊敬しなさい」。これまで、そんなことは考えたこともなかった。直訳すれば「道具」という言葉だと申しましたが、道具なら、その道具の使い方を間違ってはならないのです。この自分の体という道具を、誰を喜ばせるために使うのか。自分を喜ばせるのか、他人を目を気にしながら歩くのか。そうではなくて、この体は神を喜ばせるための道具なのだから、そうであるならば、その尊い体を尊敬して、使い方を間違わないように、そうして妻を愛し、夫を愛し、すべての兄弟姉妹を愛するのです。自分の仕事を愛し、どんなにつまらない、平凡な生活だと思っても、その生活を愛して、一歩一歩、歩いていくのです。私どもは、神に愛された神の子どもなのですから、そのような私どもの歩みを、神が喜んでくださらないはずはないし、その確信があるから、今この教会の歴史を、共に担わせていただいているのです。お祈りをいたします。

神よ、あなたの御心は、私どもが聖なる者、あなたのものとして歩むことです。そのために、あなたはご自分の聖霊を私どもの内に与えてくださいました。そのような私どもの歩みを、あなたが喜んでいてくださり、けれどもまた、あなたを心配させてばかりの私どもでもあることを、悲しく思います。今、聖霊と御言葉に導かれて、あなたの前に立つ者とさせてください。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン

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