2020年10月11日 主日礼拝

「パンと子羊」

中村 慎太

出エジプト記 第12章1-20節
コリントの信徒への手紙一 第5章1-8節

 

 主イエスの十字架は、私たちが裁きから過ぎ越されるための、新しい過ぎ越しの出来事です。私たちはその主の御業に感謝し、ほめたたえます。
 今日私たちが聴いた聖書の御言葉には、旧約と新約に共通して大事に伝えられている、ある祝いのことが書かれていました。それは、過越祭と除酵祭のことです。出エジプトの際の出来事が、始まりとなった祭り、祝いです。
 旧約にある出エジプト記には、主なる神がイスラエルの民をエジプトから導き出し、約束の地へと導いてくださった出来事が記されています。指導者としてモーセが立てられ、民を導きます。皆さんの多くも、聖書で読んだことや、どこかで話を聞いたことがあるのではありませんか。出エジプト記は、旧約の出来事の中でも、特に多く映画化されている話でもあります。
 出エジプトにおいて特に重要な出来事の一つが、主の過ぎ越しです。
 奴隷として働かせられていたイスラエルの民を、エジプトのファラオは解放しようとしませんでした。そのエジプトに対して、主なる神は災いをいくつも起こされます。その最後の災いは、国中の初子を撃つ、ということでした。つまりは、エジプト中の人も、家畜も、初めての子は皆命を取られる、という災いでした。
 この時、エジプトにいたイスラエルの民もその災いに巻き込まれるのかというと、そうではありませんでした。主なる神は、災いをもたらす際、イスラエルの民の家は過ぎ越すように、通り過ぎるようにしてくださいました。イスラエルの民の家を主が過ぎ越すように、このようにしなさいと、主はお教えになったのです。
 それぞれの家で、傷のない一歳の小羊を屠ることを、主はお命じになりました。その小羊の血を、家の入口の二本の柱と鴨井に塗ることをお命じになったのです。そして、災いが起こるその夜は、その屠られた小羊を焼いて食べることが命じられました。
 また、酵母を入れないパンを食べることを、主はお命じになりました。酵母が入っていないということは、私たちがよく食べるふわふわしたパンではなく、しっとりしたというか、固い感じのパンということになります。
 この出来事が、過越祭となっていきます。
 また、この時にパンに酵母を入れないことは徹底的に行われました。その家自体に、酵母を置かないようにと命令されたのです。
 皆さんの中に、パン作りをした経験がある人がいるでしょうか。天然酵母とかイースト菌とかを入れて、パンを膨らませて焼くわけです。そのための酵母が、袋に入って売ってあります。それが今、実際に家にある方もいるかもしれません。
 過ぎ越しの際は、そういったものを、家からも出しておくように、と神さまはイスラエルの民に指示しました。そして、過越祭に続けて七日間の間、その酵母なしのパンを食べるということも、大切な祝いとなっていきました。これが除酵祭、酵母が除かれたパンを食べる祝い、となっていきました。
 過越祭と、それに続けて祝われる除酵祭。これが、主なる神さまが、エジプトから民を救い出し解放してくださったことを記念する、イスラエルの民にとって最も大切な祭りとなりました。
 イエスさまも、この過越祭を祝います。その過越祭の夜に、イエスさまは弟子たちと食卓を囲むのです。

 さて、時は旧約やイエスさまが地上の生涯を歩まれた後の時代、教会が地中海地域にも拡がった頃です。教会のことを教えるために、過越祭のことを伝えた伝道者がいました。伝道者パウロは、コリント教会への手紙で、過越祭の話をします。
 イスラエルから場所としては遠く離れた、コリント教会の人たちに向かって、イスラエルの祭りの話をしたことになります。ギリシア圏の都市にある教会に向けて、旧約の出エジプトの話をしたのです。ユダヤ出身でない人には伝わりにくいのでは、とも思います。しかし、パウロはユダヤ出身ではないコリント教会の人々にも、旧約の出来事を丁寧に伝え続けたことは大いに予想できます。
 イエス・キリストの父なる神は、旧約に記されている昔から、信仰の群れを導いてくださっていました。コリントの教会もまた、この旧約から続いている神さまの救いの歴史に、出来事に、無関係ではないのだ、と伝えていたはずです。
 パウロがコリント教会に、パン種の話、酵母の話をしたのには、理由がありました。コリント教会の一員に、みだらな行いをしている者がいたことを、非難してこの話をするのです。具体的に言えば、自分の父親の妻を自分のものにしてしまった人がいるということでした。
 ただし、パウロはその人のことだけを非難し、嘆くのではありません。
 コリントの信徒への手紙一、第5章2節をお聞きください。

「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。」

 信仰共同体の中にそのような人がいることを、嘆かないとは、どういうことか、とパウロは伝えます。むしろ、コリント教会の人々は高ぶっていた、とまで記されています。一員の中にそんな人までいるのに高ぶるのは、何たることか、とパウロは嘆き、憤っているのです。
 教会は、そのような人のために、時に厳しい対処もするのだ、とパウロは教えます。主イエスの名により、主の権威に従って集まり、その人にしかるべき処置を行うことを、パウロは伝えます。さらには、場所は離れていても、その集まりに自らも霊的に連なったことまでパウロは伝えるのです。
 今の教会でも、このように誰かを戒めることはあります。特に鎌倉雪ノ下教会もその流れにある改革派では、戒規と言われる、戒めの規則を重んじます。なぜなら、教会の中にも、牧者にも、信徒にも、そういった罪が起こるからです。教会の歴史で、教会員や、牧者が、性的にみだらなことや、やってはならないことをしてしまった時がたしかにあったのです。教会の長老会などは、厳重に、そのことと向き合います。時に、悔い改めのため厳しい対応をすることもあるのです。
 ただし、それはその誰かが悔い改めることを祈りつつ行うものです。パウロもそのことを伝えています。
 第5章 4節から。「つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。」
 サタンに引き渡すという、かなりきつい表現がされているのは事実です。その者の肉、つまりは悪の性質が滅ぼされるように、教会から追放し、主の支配からサタンの支配に引き渡した、というのです。ただ、それは彼が悔い改めて、主の霊によってその人の霊が新しくされて、救われることを願ってのことです。
 教会は、そのように一員のことで時に悲しみ、時に厳しい対処をするものだと、パウロは伝えるのです。その一人のことで、全体が悪に染まってしまうことがないように、です。
 パンの練子に酵母があれば、小さな練子も大きく膨らみます。そのパン種が悪いものと例えれば、小さな悪からパン全体がどんどん悪いものとして膨らんでしまいます。ちょうど、コリント教会が一人の罪をからはじまり、高ぶって、誇って、大きくなってしまったように、です。
 私たちは、パン種が入った方がふわふわなパンができて望ましいと考えます。たしかに聖書はパン種をいいものとして伝えることもあります。その一方でパン種を悪いものとして伝えることもあるのです。
 実は、イエスさまもパン種を悪いものとして譬えてお語りになったことがありました。

「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」

ルカによる福音書第12章で、イエスさまが弟子たちに言われた言葉です。イエスさまは、ファリサイ派の人々の偽善を言って、それはパン種のようであると言われました。ファリサイ派の人々が持っているような偽善が、あなたたちにも入り込んだら、それは膨らむパンのように大きくなる、と注意なさるのです。
 しかし、ここまで話してきて思うことがあります。私たち自身のうちには、その悪いパン種はないのでしょうか。ファリサイ派にあったという偽善。あるいは、コリント教会に実際に起こった、みだらな、悪しき行い、そして、高ぶり、誇るといった、傲慢さ。
 これらの罪は、私たちにもあるのです。
 では、これらのことを私たちは取り除くことができるのでしょうか。それこそ、家にある天然酵母の袋を外に放り出すように、私たち自身でその罪を除くことはできるのでしょうか。主の災いが、裁きが起こる時に、私たちは過ぎ越されるために、罪を除くことができるのでしょうか。
 コリントの信徒への手紙一第5章、7節からの御言葉に聴きましょう。

「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」

 古い私たちの性質、悪に向いてしまうその罪の性質は、私たちを膨らませるパン種のようなものでした。それを取り除くことを、パウロは言います。しかし、それは私たちの力だけではできないのです。
 私たちは、かつては、罪に、悪に影響される古いパン種を内包したパンでした。しかし私たちは、そのようなものから、新しく作り変えられました。パン種を除かれた、酵母を入れぬパンとされたのです。
 それは、イエス・キリストによって成し遂げられました。
 イエスさまは、私たちの過ぎ越しの小羊として言い表されます。過ぎ越しを記念する祭りの際、小羊が屠られました。信仰者たちが主の災いから、裁きから過ぎ越されるために、屠られる小羊です。主イエスは、その小羊となってくださいました。
 エジプトのすべての家が滅びに直面するように、罪から逃れられず、滅ぼされるはずだった私たちは、キリストの血によって、過ぎ越されることとなったのです。柱と鴨井に血がぬられるように、主は十字架上でその血を流されました。主がそのように血を流されたのは、私たちのために犠牲となられたのは、私たちが主の裁きから過ぎ越されるためでした。主は私たちの罪を贖う犠牲として、十字架にお架かりになったのです。
 私たちはその主によって、罪から赦されて、過ぎ越しのパンのように酵母のないパンのようにされました。主の偉大な業を祝うための群れとされたというのです。
 そのことを伝えたうえで、パウロは言います。

「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」

このように伝えたパウロは、このコリントの信徒への手紙一にて、聖餐の制定についても記していきます。主イエスは過ぎ越しの祭りを祝いつつ、さらに全く新しい過ぎ越しの祭りも弟子たちに、教会にお示しになったのです。主イエスの十字架のことを指し示す食卓は、聖餐となっていきます。主イエスによって立てられた教会が、主の贖いを覚え、悔い改めて、そしてその救いを感謝し祝うのは、聖餐によってです。これこそが私たちの純粋で真実のパンで祝う過ぎ越しとなっています。
 私たちは、過ぎ越しの小羊として、私たちの罪を贖うために十字架に架かってくださった主イエスを見上げ続けましょう。その主の前に罪を悔い改めつつ、感謝をささげましょう。

父なる神よ。
私たちの贖いのために、その御子をまで十字架におかけになった、あなたの深い御心を、心から感謝します。はるか昔から、そのためのご計画をあらわしていてくださったあなたのことを、ほめたたえます。主イエスの十字架の前にひれ伏し、その復活を感謝します。私たちが、その主に贖われた群れとして、あなたに従いつつ歩めますように。
主の御名によって祈ります。

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