2020年9月13日 主日礼拝

「主イエスに結ばれた生き方を」

中村 慎太

詩編 第62篇1-13節
コリントの信徒への手紙一 第4章14-21節

 

 

 伝道者パウロは、コリント教会の人々に向かって告げます。

「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。」

 伝道者パウロは、コリント教会の信徒たちの親として語りかけていることになります。「わたしがあなたがたをもうけたのです」。ただし、このような言い方は、イエス・キリストの福音とその御業によってのみ伝えられることです。そして、この語りかけに、教会の伝道の大切なことが示されています。
 コリントの信徒への手紙一を読み続けると、叱責の言葉、結構厳しい言葉がちりばめられていることが分かります。
パウロがそのように記さなければならなかったほどの問題が、コリント教会にはあったのです。コリント教会は、伝道者パウロによって開拓伝道されました。そして、パウロがコリントから離れて数年、コリント教会には問題が起こっていました。知識で高ぶる人が出ていた。党派争いが生まれてしまっていた。
 パウロはそのような問題を抱えているコリント教会の人々に、時に厳しい言い方も交えつつ伝えてきました。「私たちは十字架のイエスさまのみを誇るのだ」「この方だけを宣べ伝えるのだ」「わたしが伝道者としてどんな困難にあったとしても、それはただひたすら十字架の主イエスを宣べ伝えるためなのだ」、と伝えたのです。
 そのうえで、パウロは教えます。コリントの信徒への手紙一第4章 14節から。

「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。」

 パウロは父親として、コリント教会の人々を「愛する自分の子」として見ていました。
 この箇所で、父親という言葉と対照的に用いられている言葉は、「養育係」です。
 養育係とは、子供を教える役割を与えられた者です。この手紙が書かれた当時の地中海世界では、奴隷がその役割を担うことが多いのでした。
 養育係は、その生徒と家族として向き合うわけではありません。ただ知識の面で、生徒の上に立つだけです。生徒から見ても、養育係はただ自分に知識を与えるという利益がある者となります。養育係によっては、生徒との関係は一時的です。教え子が将来どうなるかということまでは、関与しなかったかもしれません。
 しかし、パウロはコリント教会に伝えていることになります。「知識だけで高ぶっている養育係が一万人いてもしょうがないのだ」、「教会が広がり新しく生まれるのには、ただ養育係がたくさんいればそれでいい、というわけではないのだ」と。「信徒が間違ったら、厳しいことを言ってでも、主の元に立ち帰るように伝える、親のような者こそが、教会をたてあげていくのだ」と。
 この手紙でそう言われていることを聞きつつ、現在の教会に生きている私たちもまた自問します。今の教会においても、そのような養育係としかなれない伝道者がいたら、それは問題なのです。ただ聖書の知識だけを、うわべの言葉として伝えることをしていたら、教会の伝道は進まないのです。私たち牧者は、そのことを心に刻みながら、知識だけではなく、主が私たちに与えてくださる深い思いを、御心を伝えられるようにと祈ります。
 そして、このことは牧者だけに限らないと思います。私たち、教会に集うものすべてが、伝道する者として自分に問いかけることになります。誰かに主の福音を伝える時、ただの知識を渡すだけの、養育係のようになってはいけない。新たに主にであう誰かにとって、親といってもいいほど、深い思いをもって私たちは伝道したい。
 もし、今の私たちの教会においても、いくら知識にあふれた信仰者が一万人そろったとしても、それだけでは新しいキリスト者は生まれないことになります。
 私たちは、親が子に伝えるように、主のことを誰かに伝えるのです。
 信仰において、父親を名乗るというのはとても大きな責任を伴うことといえるでしょう。そう簡単に名乗れるものではありません。
 私たちが聖書を読むと、実は「父親」を思い浮かべる箇所がたくさんあります。旧約を読むと、主なる神が、父がその子を導くように、その民を導かれたことが伝えられているのです。
 そして、その主なる神は、時に厳しいことをしてでも民を導く方でした。民が不信仰に陥ってしまい、そのことで主なる神がお怒りを表すことがありました。しかし、主はその民を見捨てず、時に厳しい懲らしめを与えます。そのうえで、民がご自身の元に立ち帰る道を与えてくださったのです。
 そのような主の憐れみが示されたある旧約の御言葉を伝えます。主から離れてしまった民が、エフライムやイスラエルの名が冠されて語られます。そして、そんな民に向けられる主の深い憐れみが、預言されるのです。どうぞお聞きください。

「わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた。「あなたはわたしを懲らしめ/わたしは馴らされていない子牛のように/懲らしめを受けました。どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。わたしは背きましたが、後悔し/思い知らされ、腿を打って悔いました。わたしは恥を受け、卑しめられ/若いときのそしりを負って来ました。」エフライムはわたしのかけがえのない息子/喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられないと/主は言われる。道しるべを置き、柱を立てよ。あなたの心を広い道に/あなたが通って行った道に向けよ。おとめイスラエルよ、立ち帰れ。ここにあるあなたの町々に立ち帰れ。いつまでさまようのか/背き去った娘よ。主はこの地に新しいことを創造された。女が男を保護するであろう。」

 このみ言葉は、エレミヤ書第31章18節からの言葉です。
 主なる神は、どんなに離れ去ってもその民を我が子として憐れみ続け、立ち帰る道を示そうとしてくださったのです。
 旧約には、そのように主なる神が私たちに与えてくださった憐れみが記されていました。伝道者パウロも、そのような主の憐れみを思いつつ、父親という言葉を用いたはずです。
 しかし、私たち自身のことを父なる神と比べるのは、思い上がりのようにも聞こえます。父なる神と人間を同じようにしているかのようです。
 人間は、誰も父なる神と同じようになれるはずはありません。私たち自身も、皆主から離れてしまう罪人です。父なる神からの憐れみなくして生きていけない者です。
 パウロもその一人です。かつて主から離れ去っていて、主イエスの体である教会を迫害していたのは、パウロ自身です。
 しかし、彼はそんな過去を持った自らを、コリント教会の人々にとっての父親とまで名乗ったことになります。それは、パウロが180度変わるほどの、主の力ある御業が起こったことを示します。
 パウロが自らを親として述べる時に、必ずつける言葉があります。パウロは、主イエスの名において、自らが親であることを告げているのです。「キリスト・イエスにおいて」わたしがあなたがたをもうけたのです、とあるように。
 「キリスト・イエスにおいて」この言葉は、教会でよく伝えられる大切な言葉です。英語で訳すなら、in Christ キリスト・イエスの内において、という言い方です。
 この言い方は、今日私たちが聴いた箇所で何回か出てくる言い方です。パウロは、自らをコリント教会の人々が倣うべき者として伝えます。コリントの信徒への手紙一4章 16節から。

「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。」

 ここで、パウロは自らの生き方、自らに与えられた道を、「キリスト・イエスに結ばれた生き方」と言い表しました。この言葉、英語に訳せば「キリストにある道」「ways in christ」となります。
 コリント教会の人々の模範となるパウロの生き方も、パウロ自身のものではありませんでした。そうではなく、キリスト・イエスに入れられたパウロの生き方だったのです。
 パウロも、私たちも、主なる神の前に罪人です。しかし、主イエスには、このような私たちをも変える力がありました。罪人である私たちを解き放ち、自らの内にいれるように、その救いに属する者として招き入れる力です。
 この力のことを、実はパウロはコリントの信徒への手紙第1章から解き明かしていました。この力とは、主イエス・キリストの十字架の出来事のことです。
 この説教の中で先ほど、主なる神がその民を親のように憐れみ続けたことが記された御言葉を読みました。そのエレミヤ書第31章には、主が離れ去った民のために、道しるべを置き、立ち帰らせることが預言されていたのです。その預言の成就は、主イエスの十字架によって起こりました。主イエスご自身が、私たちの道となってくださいました。
 どれだけ主から離れてしまっていても、どれだけ罪で汚れてしまっても、主は私たちを見捨てず、憐れんでくださいました。そして、主はこの地上に降りてきてくださいました。鞭や杖で厳しく懲らしめられるはずだった私たちに代わって、十字架でその裁きを受けてくださったのです。その十字架こそ、主の愛と柔和が表される出来事でした。主はそのようにして、立ち帰りの道がなく、絶望するはずの私たちを憐れんでくださったのです。
 私たちは、その主イエスの十字架と復活の出来事から、主の憐れみと愛を知らされました。この主の十字架によって、私たちは初めて主なる神を父と呼べるようになりました。親子の関係が回復されたのです。
 パウロは、主イエスによってその主の愛を伝えられた一人です。主イエスによって父なる神との関係が回復された一人です。その愛を伝えるために、今度は彼自身が父親のようにコリント教会の信徒を愛し、伝道したのです。
 パウロのように、自らを誰かの信仰の父と称するのは、すごくおそれおおいことに思えます。しかし、主から受けた憐れみと愛を、私たちもその主が私たちに与えてくださった愛をもって、誰かに伝えられたら、それはとても幸いなことではないでしょうか。
 教会は、主の憐れみと愛をこれからも伝え続けます。主は私たちの父として、私たちを憐れみ、愛してくださいました。その憐れみと愛を、私たちもまるで親のように深い思いを抱いて、人々に伝えていきましょう。

 父なる神よ。
あなたが、私たちがどれほど離れ去ろうと、私たちの父でいてくださったことを感謝します。あなたが、私たちを憐れみ、立ち帰りの道として主イエスをお遣わしになりました。主イエスの十字架こそ、あなたの憐れみと愛が溢れる出来事でした。私たちがこの主の十字架のみを見上げて、その福音を伝えられますように。主の愛をもって、その愛に入れられて、新たな人にその福音を伝えられますように。
 主の御名によって祈ります。

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