2020年8月30日 主日礼拝

「命の言葉」

嶋貫 佐地子

ヨハネによる福音書 第6章60-71節

 

昔、牧師たちの学びのときに、加藤常昭先生がこんなことを言われたことがありました。「お皿を洗っている時にも、思い出すような御言葉」。

そういう説教をしなさい。
いいなぁ、と思いました。たとえばご婦人が、最近は男性もなさいますけれども、家でお皿を洗っている時に、ふと思い出す、説教の言葉。時間が止まって、ああそうだ…、と、深く思い巡らす御言葉。お皿を洗っている時でなくても、道を歩いていて、いつもの道でも、ふと思い起こす御言葉。その主のお言葉に、生き返るような思いをすることがあります。

そしてその時にはなにも、こちらが思い出そうとしたわけではないので、まったく霊的なものです。神様の不意打ちの、と言ったらいいのか、狙い撃ちと言ったらいいのか。神様は、自分のことをよくご存じでいらして、その言葉で、私どもは癒されて、時にいましめられ、諭されて、苦しむときには助けられ、罪あるときには気づかされる。

ヨハネ福音書は第一章の初めで、主イエスのことを「言」といいましたが、
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1:1)そして「言の内に命があった。」(1:4)といいましたが、その命をくださるために、主は来てくださいましたし、今も、私どもに、その命を与えてくださいます。

今日もまた、主は、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(6:63)と言われました。主がお話くださる言葉は、主イエスご自身であって、父なる神がくださった命です。これは長く「言葉」を研究している学者たちが言っていることです。「主の言葉は、ぜんぶ神の意志。信じる者の中で働く、生命を与える、神の力だ。」

ほんとうに、その「言葉」で、主の命が、自分のいのちになってゆきます。

しかし同時に、その「言葉」は、私どもにはっきりとした決断を求めます。
ついてくるか、ということであります。
今日、主はこうも言われました。
「あなたがたも離れて行きたいか」(6:67)。

離れて行った人たちがいたからです。

主イエスは、ガリラヤのカファルナウムというところで、とても大切な話をなさいました。ご自分は天から降って来た、神のパンである。命を与えるために来たから、食べなさい、と言われたのです。そこにいたのは、先に山の上で主イエスからパンと魚をいただいた人たち、それから、主イエスの「弟子たち」と呼ばれる人たちでした。ちょっと不思議ですけれども、主イエスには、私どもがよく知る十二人の弟子たちのほかに、たくさんの弟子たちがいたのですね。その人たちは、主イエスがこれまでなさった、人々を癒されることや、素晴らしい教えに魅了されたのだと思います。主のなさることに感動して、そうして、このお方についてゆこうと思った。ああ、これで、自分の人生も変わると思った。周りをみてもそういう人たちでいっぱいだった。さらに感動して、ああこれで、何かが変わるとも思った。このお方から、離れたくないと思った。そしてついてきた。彼らは、主イエスを信じたのです。

ところが、主イエスがこのパンの話をされた時、事態は一変しました。こう書いてあります。
「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)。
ごそっといなくなったのです。
今まで一緒に歩いて来たけれども、もうそれもできなくなった。それも一人や二人ではなくて、多くの弟子たちが、主イエスのこの話を聞いて呟きました。「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」(6:60)。「実にひどい話だ」。

主イエスのお話の、何がそんなに、「ひどい話」だったのでしょうか。
この「ひどい」という言葉を、辞書で引いて聖書のほかの使い方でみますと、「迫ってくる優勢な力に対して、敵意をもったり憎んだりする」意味があるようです。つまり相手が優れた方だということはわかっている。でもいやだ、と、反抗したい時に使うのです。ですから彼らも、主イエスがすごい方だということはわかっている。けれども、そんな話はいやだ、と思った。

ここには明らかに二種類の人たちがいます。一方はパンをもらった「ユダヤ人たち」と呼ばれる人たちです。この人たちは、主がこの話をされたときに、おや、待てよ、この人はあのヨセフの息子じゃないかと、それなのになぜ自分が天から降って来たなどというのかと言って、主イエスの人物像につまずきました。ですから最初からこの話を聞けませんでしたし、理解もできませんでした。でもこの「弟子たち」というのはそうじゃないのです。弟子たちは、主イエスのことを、このお方は人間にはないようなお方だとわかっていましたし、この話の内容もわかった。彼らはパンのしるしも見ていたでしょうし、もしかしたら、あの沈みそうになった舟にも乗っていたかもしれません。そうして、向こうから迫ってくる優勢なお方である主イエスを、目の当たりにしていたかもしれません。だから一度はこのお方に支配されている。だから彼らはこの話も理解できたでしょう。何を言っているか。

この話は、受難予告だ。
この方は、自分の肉を与えるために、天から来たと言っている。
そのことを主が言われたのは51節です。「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」そして続きます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(6:53-54)

彼らはこの話がわかりました。そしてそのうえで疑問を抱きました。自分を与える?自分が犠牲になる?そのために天から来た?何を言っているんだ。この人は、素晴らしい方だと思ったからついて来たのに、自分の人生を変えてくれると思ったからついて来たのに、犠牲になるとはどういうことだ?そうしたらその先はどうなる?こんなことをわたしたちに受け入れろというのか?ひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられるか。

この、彼らが言った「ひどい話」の「話」というのは、第一章の「言」と同じなのです。
「初めに言があった」という「言」と同じ語で、主イエスご自身を意味する。でもそれが、「ひどい言」になりました。福音書は意図的にそうしているのかもしれません。現にこの「話」は核心であって、主の命の「話」なのです。そしてこれは神の意志、そのものなのです。そしてその「言」が彼らに迫って来ました。霊をもって迫って来た。受け入れるか、と。そのときに、「言」が彼らに、葛藤を引き起こしたのです。そうしたら、彼らはいやだと思いました。そんな話は神の話じゃない、神の言葉じゃない、信じない、と、反抗したのです。

すると主イエスはそれに気づかれて「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。」(6:61-62)と言われました。最後に「…。」で終わっておりますが、主イエスが最後までおっしゃることができませんでした。文法的にもそうです。言葉を失われたのです。このあと、何が続くのだったのでしょうか。

この主イエスが「もといた所」というのは、もちろん父がおられる天であります。そして、そこに「上る」というのは、ヨハネによる福音書では特徴的に、十字架のことも指します。十字架に上げられる。しかしそれは死だけではなくて、栄光のうちに主イエスが、父のもとに上げられることを意味しますので、十字架というのは、そうやって、父から来て父に帰る、主イエスの栄光の道なのであります。

そしてその十字架があったから、父から来て父に帰るその道を、私どもも通らせていただけるようになった。私どもも、父に帰る道ができた。主の十字架が、その道を通してくださったのであります。
でもそのことが、あなたがたにはきっと理解できないだろう、と主は言われたかったのではないかと思います。「…」のあとは、それでは、あなたがたはわたしの十字架を見たら、肉の犠牲をみたら「もっとつまずくだろう」と、続いたのではないかと思います。

人間の思いというのは、どうしても死につながれているようなところがあって、死んだら、全部無くなるとどこかで思っている。でもそれは人間的な肉の思いであって、主は「肉は何の役にも立たない」とはっきり言われましたし、また「命を与えるのは“霊”である」(6:63)と言われて、死を超える命をご自分が与えると、最上の約束をしてくださいました。そしてその霊を、先ほども申しましたように、お皿を洗いながらでも歩きながらでも、受け取る人がいますし、命を受ける人がいますし、でも、その霊が来ても、受け取らない人もいる。
霊には、反抗できるのですね。
主は「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」(6:65)と、もう一度、言われました。父が引き寄せられても、反抗をすれば、主のところに来ることはできない。「父のお許し」は出ない。父はその人を主イエスに与えない。

これはとても厳しいことです。だから、主イエスのお言葉が止まってしまわれた。
あなたがたは…。父のお許しがでない。

そうして、多くの弟子たちが主から離れ去りました。何も言わずに、いつのまにか消えた人もいたでしょう。そうして残ったのは、あの十二人でした。それで主イエスは、十二人に言われました。
「あなたがたも離れて行きたいか。」

ペトロは、十二人を代表して答えました。「あなたは命の言葉を持っておられます。わたしたちは、だれのところに行きましょう」(6:68)。これは他の福音書にもあるように、ペトロの信仰告白だと言われます。しかし主はそのペトロたちに言われました。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」(6:70)

突然、照明が落ちるかのようです。
ズドンと闇になる。
そして福音書だけが告げます。主はユダのことを言われたのだ。
「このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」(6:71)

主はユダを悪魔だと言われました。でも、ペトロも他の福音書で言われています。信仰告白の直後です。この時と同じように主が、受難予告をされた時です。ペトロは、主を脇へお連れして、主をいさめました。そんなことを言ってはなりません。すると主は、ペトロに言われました。「サタン、引き下がれ」。

神の言葉である主イエスが、サタンを名指しされることは何の不思議もありません。
そうやって十字架を妨げる者、そして逆に十字架に引き渡す者、どちらもサタン、悪魔だ。
現に十字架のとき、この二人も、そして十二人もみんな離れ去りました。このことは私どもに、次のことを教えてくれます。誰でも危険なのです。
離れ去る危険は、信じる者たち、教会の真ん中にある。

けれども、主イエスは、それを知っておられて、「選んだのはわたしだ」(6:70)と、言われました。またそれは、父が、選ばれた者だ。それでこのあとも、主イエスは悪魔の反抗心を従えて、歩かれたのです。十字架に向かうためです。
弟子たちが、父へ帰る道を用意するためです。
そして教会の真ん中は、その道になりました。
危険回避の「命の言葉」がある。私どもが、父へ帰る道に、教会はなったのです。

いまは、教会に来られないで、つらい思いをしている人がどれだけ多いことかと思います。けれども、命の言葉を妨げることはだれにもできません。お皿を洗っている時も、
道を歩いている時も、ベッドに横たわっている時も、命の言葉はやって来ます。

「あなたがたも離れて行きたいか。」

これは、「ついてくるか」、ということであります。
その言葉に、私どもははっきりと応えることができます。

あなた以外の、だれのところに行きましょう。どこにも行くところはありません。
自分の確信ではありません。
あなただけが
わたしを永遠の命につれてゆく、命の言葉を持っておられるのです。

そのとき主の命が、自分のいのちになってゆくのです。

 

お祈りをいたします。
父なる神様
生涯、主の命の言葉を与え続けてください。感謝し、
主の御名によって祈ります。  アーメン

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