2020年8月9日 主日礼拝

「すべては主からいただいたもの」

中村 慎太

歴代誌上 第29章10-17節
コリントの信徒への手紙一 第4章6-13節

 

 かつて、主なる神から受けたものを喜んでささげた王がいました。その王の名は、ダビデ。
 旧約において特に有名な、主なる神に従い民を導いた王です。彼は、自らの最後の働きとして、エルサレムに主に礼拝をささげるための神殿を築こうとしました。しかし、主なる神はダビデではなく、その息子ソロモンに神殿建設の役目を与えます。ダビデは、ソロモンと民が神殿を築けるように最大限の準備をします。
 今日私たちが聴いた旧約のみ言葉は、そのダビデが神殿建設を準備した際の出来事です。ダビデと彼が導いた民は、神殿建設のために数多くの寄進を、献げ物をするのです。巨万の富が、集まりました。
 しかし、ダビデはそれで高ぶることはありませんでした。この王がたたえたのは、主なる神であって、自らではありませんでした。
 ダビデは、主をたたえて言いました。歴代誌上第29章10節から。

「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」

王となれば、自らの力、業績を、栄誉を誇示したくなるものです。しかし、ダビデはそのすべてを主なる神に帰したのです。すべてを、主にお返ししたのです。なぜなら、ダビデはそのすべてが、主から与えられていたもの、主からいただいたものだと、常に心に刻んでいたからです。
 主は、命を与え、家族を、仲間を与え、生きるための糧を、必要なものをすべて与えてくださいます。私たちは、そのことに感謝しながら、主に栄光をお返しするために、すべてを尽くして礼拝をささげるのです。
 このダビデと同じように、主からすべてをいただいていることを、熱心に語り伝えた信仰者がいました。伝道者パウロです。
 彼がそのように語ったのは、コリント教会に向けての手紙の中でした。
 コリントの信徒への手紙一第4章6節から。

「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」

 これは、叱責の言葉でもあります。パウロがこのように手紙を書かなければならないほど、コリント教会の人々は高ぶっていたのです。
 教会が大きくなっていたことを、自分たちの成果としてしまっていたのです。そして、教会の中で自分たちの知識をひけらかし、自らの地位を高めるため、分派争いをしてしまったのです。その分派争いのために、かつての牧者、指導者の名を利用までしていた。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」といったように。
 コリント教会に限りません。地上の教会において、また私たち一人一人の心において、主から与えられたものを自らの成果とし、自らを高めてしまうことがあるのです。
 私たちは、教会の財産、建物、会員数、それを誇ることがあるかもしれません。そして、それらを、神さまにお返ししてささげることに躊躇してしまうことがあるかもしれない。
 自らに与えられている信仰、生活の糧、それらを自らが勝ち取ったものだと錯覚することがあります。神さまからいただいたものとして、礼拝によってすべてを神さまにささげお返しすることを、おろそかにしてしまう。
 コリント教会の現状を嘆き訴えるパウロの言葉は、私たちをも立ち帰らせるものです。
 「わたしたちは、すべて主からいただいて今生きている。そのすべてを、主にお返しするために、心を尽くして礼拝をささげようではないか。力のかぎりに主にささげつつ、その福音宣教に参与しようではないか」。そう私たちには伝えられているのです。
 このコリントの信徒への手紙において、「いただく」「いただいた」と訳されているこの語は、新約全体においても、大切に使われている言葉です。
 この言葉は、英語でいう、 ”take” や ”receive” と訳せる語です。能動的な言い方をすれば、「取る」と訳されます。そして、受け身の言い方の時は、「受け取る」「いただく」と訳せるのです。
 例えば、このコリント信徒への手紙Ⅰ第2章などでは「受け取った」「いただいた」という意味でこの言葉が使われます。神さまから、「聖霊」を受け取ったのだ、とパウロは伝えているのです。
 この「いただく」という語は、主なる神から、私たちがキリスト者として生きる根源となるような大切なものを、受け取った、いただいたことを表す言葉となっています。聖霊、恵み、賜物、といったものを受け取っていることを表す言葉なのです。
 そして、この言葉は能動としても、大切に用いられている言葉です。特に、それは福音書で示されます。主イエスが、弟子たちと共に分かち合う食べ物を取る時に用いられる語なのです。
 例えば、ルカによる福音書の第22章でイエスさまは杯を、パンを「取り」それを弟子たちに与えてくださいました。また、ルカ第24章でも、パンを取り、魚を取り、弟子たちに与え、ご自身が一緒に食べてくださったのです。
 主イエスが、糧を取ってくださった。そして、その糧を、私たちに与えてくださった。私たちは、その主イエスの糧を、主イエスの恵みを受けとって、いただいて、今生きているのです。
 主が杯とパンを取り、私たちに与えてくださったこの出来事は、聖餐となります。主イエスの、十字架で裂かれた肉と、私たちのために流された血が現わされる、聖餐です。
 私たちは、聖餐によって確かに知らされます。すべてを父なる神から与えられたものとしてほめたたえつつ、その父なる神にすべてをお返しするために、すべてを差し出し、ささげつくしてくださった方は、主イエス・キリストなのだと。
 ダビデとその民が多大な寄進をし、献げ物をした以上に、私たちがささげられるあらゆる物以上に、大いなる献げ物となってくださったのは、主イエス・キリストご自身だったのです。主は十字架で、ご自身の命をも差し出し、ささげてくださった。この方の十字架によって、私たちには聖霊が、恵みが、賜物が、与えられていたのです。
 私たちは、これほどの恵みを受けています。主イエスが取って、与えてくださった恵みです。主が「取り、飲みなさい、このように行いなさい」と伝えてくださった恵みです。
 使徒と呼ばれる伝道者たちは、この主イエスを見上げ続けて、伝道に命をささげました。パウロは伝えます。

「考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」

 使徒たちに起こったこのような事柄は、十字架に向かう主イエスにこそ当てはまる出来事でもありました。主イエスこそ、死刑囚としてひきだされ、見世物となり、弱く、侮辱させられ、飢え、渇いた方だったのです。
 私たちはそもそも、主にすべてをささげつくすことができない、主に心を尽くして立ち帰ることのできない罪人だったのです。イスラエルの王たちでさえ、主イエスの弟子たちでさえ、主に従うことの難しさを突き付けられながらその歩みを続けました。
 しかし、そのように主から目を背けてしまい、完全に主にすべてをささげることができなかった私たちのために、主イエスは十字架にかかったのです。その罪が赦されるようにと、自らを差し出してくださったのです。
 使徒たちは、この十字架の主を見上げて、この主からすべてを与えられていることを知らされました。それによって初めて、主と同じように、低くにみなされるようになったのです。いやむしろ、主イエスの十字架を知っているからこそ、その主に結ばれたものとして、低い者とされることによって、主を証ししたのです。そうせざるを得ない者とされたのです。
 私たちも、今日、十字架の主を見上げ、大いに主をたたえましょう。主の聖餐をもって、十字架の主を見つめることができるように、切に祈りましょう。自らを高くしてしまう、この罪深い私たちを、救ってくださった主イエスをこそ、ほめたたえ、この方に栄光をお返しましょう。まことの礼拝をもって、私たちのすべてを主にささげましょう。

 主なる神よ。すべてはあなたのものです。私たちに与えられているものすべてもあなたからいただいたものです。主イエスが十字架によって、私たちに恵みを与えてくださいました。この鎌倉雪ノ下教会の群れが、その恵みの業を指し示す聖餐を執り行いつつ礼拝をささげ、主をほめたたえられますように。私たちが、すべてを主にささげつつ主に栄光を帰すことができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

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