2020年7月12日 主日礼拝

「引き寄せられた人たち」

嶋貫 佐地子

ヨハネによる福音書 第6章41-59節

 

風薫るカファルナウムという町です。
ガリラヤの湖のほとりのその町の会堂で、主イエスが長く話をされています。
主が「わたしが命のパンである」と言われたところです。
でも、主がこのように長く話をされるときは、ご自分を表されるときであって、
そこには、主イエスのせつないほどの求めがあるのです。

先に主イエスは5000人の人たちに食べ物を与えられました。見渡す限り人ばかりの中で、パンと魚とをお分けになりました。それを食べた人たちは、この人はすごいと思ったのです。そして「もっとください」と思いました。この方なら、何でも自分たちの思い通りにしてくれるかもしれない。そしてこの方を自分たちの王様にしたいと思いました。彼らは主イエスを自分たちのものにしたかったのです。それで彼らは向こう岸から湖を渡って、主イエスを追いかけてきたのでした。でも主は、そんな彼らの気持ちをおわかりでした。

主イエスは彼らに言われました。今日食べてなくなってしまうようなパンではなくて、いつまでもなくならないパンを食べなさい(6:27)。そのいつまでもなくならないパンとは、主イエスの命のパンのことだったのですが、主イエスを信じなさいということだったのですが、でも、話の相手にはそれが通じませんでした。何を言っているのかよくわからない。それで彼らは、とても人間臭いことを申しました。信じなさいというなら、そのために何をしてくれますか?あなたはわたしたちに何をしてくれますか?もし、その証拠を見せてくれたら、わたしたちはあなたを信じます。すると主は言われました。
あなたがたはわたしを信じない(6:36)。あなたがたはわたしのところに来ない。
主は、おつらかったと思います。

ところが主イエスはそれで話をおやめにはなりませんでした。そうではなく、もっと熱くなられながら、主イエスのほうがヒートアップされてゆきながら、何度も重なりあって繰り返される話をなさるのです。

その主イエスのお話の中に、「その人」と呼ばれる人が出てきます。お話の中に何度も出てくる人です。主は、「その人」のことをこうおっしゃいます。

「わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(6:40、44、54)
「その人は永遠に生きる。」(6:51)

そして主は「その人」のことを、こういう人だとおっしゃいます。

「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。」(6:45)

「その人」とは、父なる神から聞いて学び、わたしのもとに来る人です。

そしてまたこういうふうにもおっしゃいます。
「信じる者は永遠の命を得ている。」(6:47)
「その人」というのはわたしを信じる者。そして「その人」はすでに永遠の命を得ている。

そして主のお言葉をたどってゆきますと「その人」はこう言われてゆきます。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」(6:54、56)。
「わたしを食べる者」(6:57)、「このパンを食べる者」(6:58)。

主が言われる「わたしの肉」「わたしの血」というのは、ご自分の十字架のことを意味しておられますので、主が「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(6:51)と言われたのも、その十字架の犠牲のことを言っておられますので、「その人」は、主イエスの十字架の贖いを信じ、主イエスの肉をわが肉とし、主イエスの血をわが血とする人であって、主の贖いを自分の命とする人です。 

その話をされながら、主イエスには「その人」のことが見えておられるようです。「その人」のことを思い浮かべられながら、主はユダヤの人たちと話をされているようです。主のお心のうちには「その人」が住んでおり、主は「その人」のことを見つめながら語っておられるのだと思います。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者…」(6:54、56)。でもそれは、「その人」を見つめながら、主は父なる神の御業を見つめておられるのだと思います。なぜなら44節で主はこうおっしゃるからです。

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(6:44)

父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。
父が引き寄せてくださらなければ、「その人」はいないのです。

神の選びの厳粛にあって、しかし、神の引き寄せる力に抵抗することなく、神の御腕に入る人がいて、主イエスにとっては、それは父がご自分に与えられた人(6:39)であって、「その人」を「一人も失わないで」(6:39)わたしは「その人を終わりの日に復活させる」(6:40、44、54)と、それが「父の御心」(6:40)だとも、言われているからです。

そうでなければ、主は言われるのです。
だれもわたしのもとへ来ることはできない。
父が引き寄せてくださらなければ、
ここにも誰もいない。
ライブ配信の前にも誰も座ってはいない。
父が引き寄せてくださらなければ、
この世界のどこにも教会はない。けれども、

「その人」はいる。

「その人」はいま、父の腕の中にいる。
主の目にはそれが見えておられるのです。

話の中で主イエスが旧約聖書の引用をなさったところがありました。45節です。
45節「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。」そう呼ばわれましたのは、旧約聖書のイザヤ書第54章13節の御言葉です。お開きいただける方は旧約聖書の1151ページです。イザヤ書第54章13節。「あなたの子らは皆、主について教えを受け、あなたの子らには平和が豊かにある。」この御言葉を主イエスが引用なさいました。

このイザヤ書第54章は、ユダヤ人である神の民イスラエルの苦しみを神がごらんになって、その民の背きにも、ご自分の怒りを鎮めて彼らを呼ぶ、そうして平和の約束の中に呼び戻す、そういうところです。その第54章にこのような御言葉があります。第7節です。神が言われます。7節「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。」

そこにも、神が「あなたを引き寄せる」という言葉があります。でもこちらのほうの「引き寄せる」という言葉は、ギリシア語の旧約聖書ですと「憐れんで助ける」という言葉になるのです。そうしますと、ここをそのままぎこちなく訳しますと「わたしは深い憐れみをもってあなたを憐れんで助ける」となってしまうほどです。それほどに神は憐れまれたというのです。罪に傾いた民を、わたしはわずかの間、見捨てたけれども、それもやめた。もうそれはできない。深い憐れみがそうさせる。深いというのは大きな憐れみで、父は怒りに遅く憐れみに速く、あなたを憐れまずにはいられないと、憐れんで助けるのだと仰せになって。さらに続く8節

「とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと/あなたを贖う主は言われる。」
父なる神が、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れみ、贖うと、言われるのです。

主イエスが第54章を引用されながら熱くなられたのは、この父の憐れみのお心があったからに違いないです。「父が引き寄せてくださらなければ」と言われたときに、この父の彼らを「憐れんで助ける」、引き寄せて助ける、その父の手を主が心に深くお分かりだったからに違いないです。
そうして目の前にいるユダヤの民に引用された「彼らは皆、神によって教えられる」とは、この父の腕の中に引き寄せられるその憐れみを、教えていただくに違いないのです。それを父から聞いた者は皆、主イエスのもとに来るからです。主のもとに来るのです。
主イエスご自身が、父の憐れみだからです。

それで父は憐憫極まり、御子を「肉」になさいました。それはどうしてかというと、
引き寄せる相手が「肉」だからです。

「その人」が肉だからです。

「その人」が「肉」の存在だからです。

「その人」は限りある命を持っており、自分の欲望もあって、時に萎えて、力尽きます。涙も出ますし、絶望もしますし、放っておいたら何を考え出すかわからない。そういう「肉」の人です。でもそれは「肉」の血が滲むようなもので、どうしようもないほど過ちに傾くことや、悲しみ疲れることなどを、しかし父が、「その人」を見て深く憐れみ、とこしえの慈しみをもってわたしはあなたを憐れみ、贖うと、御手を垂れてくださって
引き寄せてくださいました。
主イエス・キリストはまことに、実際にわが身に触れた、父の憐れみの御手なのです。

先日、教会での葬儀が続きましたが、葬儀の前にその方のお身体を棺に入れる、そういう、納棺と呼ばれるものがございます。親しんだ教会で、その人が生きた教会で、そこにいるわずかな人たちの手で、その方のお身体を持ち上げて、棺に納めさせていただきます。
その時に川﨑公平牧師がこういうことを言われました。「今、私どもは、人の手でこの方のお身体を棺に入れるけれども、ここに神が、御手を添えてくださらなければ虚しい。何より神の御手がこの方に添えられていると信じる。」

私どもはそのことを信じます。父が引き寄せる。
棺にいる「その人」もまた、父が引き寄せられる。

そして、御子、主イエスは、将来、父の御心どおりにしてくださることでしょう。

「わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(6:40、44、54)

なんと幸いなことでしょう。

 

お祈りをいたします。

父なる神様
あなたの憐れみの中に引き寄せられた自分を、生涯、覚えさせてください。
主の御名によって祈ります。  アーメン

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