2020年7月5日 主日礼拝

「イエスの墓こそ永遠の望み」

川崎 公平

マタイによる福音書 第27章57-66節

 

■主イエス・キリストが十字架につけられ、息を引き取られたとき、その周りにはさまざまな人がおりました。既に先週の礼拝でも、主イエスの最後の叫びについて読みました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。そのように大声で叫びながら息を引き取られた主イエスの周りで、さまざまな出来事が起こり、またさまざまな人の心の中に、さまざまな思いが生まれました。きっと皆さんの心の中にも、さまざまな心の動きが生じるだろうと思います。

 今朝私どもに与えられた聖書の記事に、アリマタヤのヨセフという人物が出てきます。主イエスの遺体を渡してくれるようにとピラトに掛け合って、これを自分の入るつもりだった墓に納めたという、このヨセフという人は、「金持ち」であったと書いてあります。マルコ福音書を読みますと、この人はユダヤの議員、つまり主イエスの死刑を求めた最高法院の構成メンバーでもあって、けれどもルカ福音書によりますと、ヨセフは実はそのユダヤ最高法院の決議に同意していなかったと言われます。それだけでも興味深い人物ですが、その上マタイによる福音書は、このアリマタヤのヨセフも「イエスの弟子であった」と言います。いつ、どのように、ヨセフは主の弟子になったのでしょうか。さらにヨハネ福音書を読みますと、このヨセフという人は「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」とも書いてあります。しかしそれ以上詳しいことは分かりません。マタイによる福音書がここに、弟子たる者の姿を描こうとしていることは確かだと思います。このようなアリマタヤのヨセフの姿を描きながら、これを評して、「この人をご覧なさい、この人も、イエスの弟子として行動しているのです」と言うのであります。

 ヨセフもまた、十字架につけられた主のお姿を自分の目で見たと思います。主の弟子のひとりとして、そのお姿を見たのであります。そして、「わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という、天を切り裂くような叫びをも聴き取ったと思います。そこでヨセフは、おそらく自分でも思いもよらなかったような行動に出ます。58節以下。

この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。

 ここでヨセフがしたことは、どう考えても、考えられないほどのものがあったと思います。死刑囚の遺体を引き取りたいというのです。伝道者パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、「木にかけられた者は神に呪われている」という旧約聖書の言葉を引用しながら、キリストは十字架の上で、私どものために神に呪われてくださったと言いました。その呪われた人を、しかしヨセフは自分の墓に迎えるのです。ピラトだって、ヨセフがきちんと自分とイエスとの関係を明言しない限りは、簡単に主イエスの遺体を渡すわけにはいかなかったと思います。明らかにヨセフはここで、自分の名誉、自分の社会的地位、そしておそらく自分の財産や家族の安全さえも、危険にさらすのであります。なぜそんなことをしたか。もしかしたら、ヨセフ自身もよく分からないまま、このようなことをしたのかもしれないと思います。

 もしヨセフの行動に理由があるとすれば、マタイによる福音書が書いていることはひとつだけです。「この人もイエスの弟子であった」と言うのです。「この人も」というのはつまり、「他の弟子たちと同じように、この人も」ということでしょう。回りくどいことを言わずに結論だけ申し上げるならば、ここでマタイは、教会に生きる者の幸いを、このように描いているのだと思います。「この人もイエスの弟子であった」。あなたもそうだ、あなたもイエスの弟子だ。あなたも、ヨセフと同じ恵みの中に立つことができる。

 当時のローマ帝国の定めによれば、処刑された人の死体は、基本的に身内にしか渡さなかったそうです。当然のことです。ですから他の人から見れば、「ええ? アリマタヤのヨセフって、あの死刑囚とどんな関係?」という話になっただろうと思います。われわれからすれば、「ヨセフよ、よくぞやってくれた」というところかもしれませんが、本当は話が逆なんで、主イエスがヨセフをご自分の身内、主の兄弟として迎え入れてくださったのであります。そしてここでも大切なことは、「この人も」と言われていることで、つまり私どもも同様に、主イエスの家族とされている。それはいったい、なお具体的には何を意味するのでしょうか。

■主イエスの葬りという聖書の記事は、どちらかと言えば目立たない方かもしれません。先週読みました、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とか、あるいは次回読みます主の復活の記事とか、それは何度も読んだことがある、そしていろんな牧師の説教を聴いたことがある、という方が多いと思います。けれどもその間にある主の埋葬の記事の説教は、皆さんも、そうたくさんは聴いたことがないだろうと思います。けれども「主が葬られた」ということは、教会の信仰の歴史においてはたいへん大切な位置を持つことになりました。たとえば使徒信条においても、「主は十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」と言います。「十字架につけられ」と言ったら、それはもう当然死んで葬られたに決まっているだろうと思いますが、使徒信条はたいへん簡潔な文章の中に、主が死なれたこと、葬られたことを丁寧に言い表します。

 それはなぜか。ハイデルベルク信仰問答は、「何故に、主は葬られたのですか」という問いに対して、「まことに死んでしまった、ということを、証するためであります」と答えています。主イエスの死は本当の死であった、そのことを証明するためだと言います。なぜ、そんな証明が必要なのでしょうか。

 私どもは、例外なく死にます。「本当に」死ぬのです。しかし、神の子であるイエスさまは、一度死んだかに見えたとしても、それはどうせあとで甦ることが分かっているような死であって、それは本当の死とは言いにくい。けれども、われわれはそうはいかない。主イエスと違って、わたしは「本当に」死ぬ。だから、わたしは死ぬのが怖い、愛する者が死んでしまうのが怖い。そういう道筋で、死を恐れているかもしれないのです。そして実際、教会の歴史の中にも、そういう考え方が絶えず入り込んできました。神の子が死ぬなんてことはあり得ない。死んだように見えただけで、仮の死にすぎない。

 しかし、そういう私どもの思いを打ち消すように、ハイデルベルク信仰問答は言うのです。主は、本当に死なれたのだ。いやむしろ、私どもの誰よりも深く、死ぬことを怖がっておられたのは主イエスであったのです。だからこそ、「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、今なお私どもを当惑させるほどの激しさを持ったのです。

 先週の礼拝でもお話ししましたが、マタイによる福音書が最初から最後まで、片時も忘れなかったことは、「インマヌエル」、「神がわれわれと共にいてくださる」という事実です。主イエスのいかなる姿を描くときにも、マタイはその事実を忘れたことはありませんでしたし、主イエスの埋葬の記事を読みながら、まさにここで私どもは、「主が共にいてくださる」という事実に気づかされると思うのです。なぜかと言うと、私どもは例外なく死ぬからです。死なない人はおりません。そして、私どもが体験的に知っていることは、幸せな死に方をする人もあれば、どうしても幸せな死に方とは考えにくい、残された者としては到底受け入れがたい死というものが、あると思うのです。皆さんの中にも、何年も前、何十年も前に起こった誰かの死を悲しみ続けている方があるだろうと思います。けれども、あのイエスさまが、誰よりも受け入れがたい死を死んでくださった、そして葬られてくださったことを知るときに、まさにそこで私どもは、「インマヌエル」、神がわたしと共にいてくださることを信じることができるのだと思うのです。もし、その恵みの事実がなかったら、私どもの流す涙は、結局は死の闇の中に消えていってしまうだけの、むなしい、意味のない涙になってしまうだろうと思うのです。

■先日、教会墓地の改装工事が完了しました。皆さんの祈りと献金に支えられて、立派な墓地ができました。私も、たまたま近くに用事があって、ついでにふらりと新しい墓地を見てきたのですが、それは本当にたまたま、工事が最終的に完了した当日の夕方で、図らずも一番乗りを果たしてしまいました。事前に大まかなデザインは予告してありましたが、大きな十字架が3本の柱で支えられていて、墓を訪ねるときにはその十字架の下に立つことになります。そこから上を仰ぐと、十字架のその向こうに大空が見える。それはあたかも、主の十字架の背後に既に甦りの光が見えるかのようです。そういうデザインを、私ももちろん最初から説明されていましたが、実際に見てみると、こんなに大きい十字架の下に立つのかと、少し驚きました。人によっては圧迫感を感じるかもしれませんが、私は深い感銘を受けました。そこでも改めて、「主は、十字架につけられたのだ。そして、葬られたのだ」ということを思わないわけにはいきませんでした。愛する者の墓を訪ねると、私どもは当然いろんな思い出を思い出すことでしょう。ここにあの人が眠っている。あの人も眠っている。だがしかし、まさにそこで、私どもは、主が共にいてくださることを知ります。十字架につけられ、死にて葬られ、そしてお甦りになった方が、私どもと共にいてくださるのです。

 新しい教会墓地は、大きな十字架を、三本の金属の柱で支えるようなデザインになっています。それはまるで、釘づけにされた主イエスの姿、つまり、両手と足の三点を釘付けされている主の姿を象徴しているようだと、ある人が言いました。それも、実際にご覧になると共感していただけると思います。主が十字架につけられた、その痛みを、生々しく思うことにもなるかもしれません。

 考えてみますと、アリマタヤのヨセフがしたことは、もちろん最初の決断も勇気がいっただろうと思いますが、実際に主イエスの遺体を十字架から下ろし、それを自分の墓まで運んで葬るという作業も、決して生易しいものではなかったと思います。主のお体は、鞭で打たれ、血だらけ、傷だらけで、決して美しいものではなかったでしょう。誰もが目を背けたくなるようなものであったに違いないのです。それをしかしヨセフは、もちろん他の人にも手伝ってもらいながら、自分の手で墓に納めたのです。既に冷たくなり始めていたかもしれない主の体の重みを、自分の手で感じながら、まさにあの信仰問答が言う通り、「本当に、主は死んでしまわれたのだ」ということをいちばん近くで確認した、いわばイエスの死の証人とされたのが、アリマタヤのヨセフであったのです。

■けれども一方で、ヨセフは主イエスの埋葬を終えたとき、不思議な充実感に満たされていたのではないかと、私は思います。主のお体を、自分の用意していた新しい墓に迎えることができた。人はいろいろと悪口を言ったでしょう。あらぬ噂を立てる人もあったでしょう。けれどもヨセフ本人は、主の弟子たる者の光栄、ここに極まれり、と思ったに違いないのです。主イエスよ、どうかここでお休みください。いずれ私もここに入りますから、そのときはよろしく、などと考えたか、どうか。

 けれども、そのヨセフにとっても思いがけないことが起こります。金曜日の夕方に埋葬をすませ、土曜日は安息日ですから、当然ステイホーム。ところが日曜日の朝早く、それこそ61節に出てくる「マグダラのマリアともう一人のマリア」とが主イエスの墓を訪ねると、もうそこに主のお体はなかった。そして主の天使が、ふたりのマリアに告げてくれました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(第28章5-6節)。「自分の目でよく見てごらんなさい、主のご遺体の置いてあった場所を」、そう天使は言うのであります。ふたりのマリアは、当然ヨセフにもその天使の言葉を伝えたでしょう。そしてヨセフは、心臓をバクバクさせながら、自分の墓へと走ったと思います。天使に言われた通り、自分自身の手で主のお体を置いた、その場所を何度も何度も確かめただろうと思います。空っぽになった墓を、何度も自分の目で確かめながら、入り口をふさいでいたはずの石が、信じられないような姿で転がっているのを見ながら、ヨセフは何を思ったでしょうか。

 60節に「岩に掘った自分の新しい墓の中に納め」と書いてあります。ヨセフが提供したこの墓は「新しい墓」であったと言うのです。その新しさというのは、もちろん単純な意味では、造ったばかりの墓、まだ誰の遺体も入れたことのない新しい墓ということでしょう。けれども多くの人が、この「新しい」という形容詞に、マタイは深い意味を込めたに違いないと考えます。人間の手では作り出すことのできない新しさであります。人間の歴史の中で、一度も起こったことのない、けれども神がここで、まったく初めての、まったく新しいみわざを始められた場所、それがこの主イエスの墓であったのです。神のお始めになった、新しいいのちの歴史が、ここから始まる。

 ヨセフは、そのあとも何度となく、自分の墓を訪ねたのではないかと思います。主はここに入ってくださった、そして、ここから出て行ってくださったのだ。そのことを思いながらヨセフは、「いずれ自分も、ここに入るんだよな」と、そう思ったとき、自分の葬儀が楽しみにさえなったのではないかと思います。死において共にいてくださる主は、甦りにおいても、私どもを伴ってくださる。神の与えてくださる新しい望みの中に、今私どもも立ちます。お祈りをいたします。

週の最初の日、それは主のお甦りの記念の日です。父なる御神、今朝もこのように、新しいいのちの言葉を共に聴くことができました。新しい言葉、私ども人間には語ることも考えることも許されない新しい望みの言葉を、今あなたが私どもに与えてくださるのです。ヨセフと同じように、私どももイエスの弟子です。が、いくたび望みなき古い場所へと引きずられてしまうことだろうかと思います。どうか今、甦りの主が共にいてくださる、その望みに新しく生きる者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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