2020年6月28日 主日礼拝

「もう絶望はない」

川崎 公平

マタイによる福音書 第27章45-56節

 

■主の日の礼拝においてマタイによる福音書を読み続けてまいりまして、いよいよその終わりが近くなりました。この福音書を読むときに、いつも私どもが忘れてはならないことがあります。というよりも、この福音書を書いたマタイ自身が、主イエスのどんな姿を描く時にも、また主のいかなる言葉を伝えるときにも、片時も忘れはしなかったことがあります。そのひとつのキーワードは、この福音書の第1章に出てくる「インマヌエル」という言葉です。クリスマスになると必ず読まれる物語の中で、このようにイエスというお方がお生まれになったのは、預言者イザヤの言葉が成就するためであったと言って、こう言うのです。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる」。
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

あなたと共に、神がいてくださるのだ、あなたは決して神に見捨てられてなんかいない。ナザレのイエスこそ、この神の愛のしるしである、と告げるところから始まるマタイによる福音書の最後の言葉は、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というお甦りになった主ご自身の言葉であります。この福音書を書いたマタイは、主イエス・キリストの物語を書きながら、どんな主のお姿を描くときにも、どんな主の言葉を伝えるときにも、「インマヌエル」、神がわれわれと共にいてくださるのだという恵みの事実を忘れたことはありませんでした。
 けれどもそこで、問わずにおれないでしょう。そのように私どもと共にいてくださる主イエスというお方は、どのように、あるいはどのような姿で、わたしと共にいてくださるんでしょうか。私どもの信仰生活というのは結局のところ、主イエスと共に生きる生活であります。皆さんは、自分と一緒にいてくださる主イエスのことを考えるときに、どのような主のお姿を想像なさるでしょうか。あるいはもっとこういうことを問わなければならないかもしれません。「わたしはいつも、あなたと一緒にいるよ」と約束してくださった主イエスが、どうして十字架の苦しみを受けなければならなかったんでしょうか。

■先ほど読みましたマタイ福音書の記事は、主イエスが十字架の上で息を引き取られたときの様子を伝えています。そこでマタイが印象深く伝えることは、その主イエスの死に先立って、全地が闇に覆われた。その闇は3時間に及んだというのです。45節に、「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と簡潔に書いてありますが、考えてみればたいへんな出来事です。天地創造以来、こんなに深い闇が世界を覆ったことは一度もなかったということだと思いますし、この全世界を覆い尽くした闇というのが、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの叫びと深い関係があるということは、誰にでもすぐに分かるだろうと思います。神に見捨てられる暗さです。言ってみれば、ここで全世界が神に捨てられている。ところが、その神に捨てられる絶望の闇を、たったひとりで自分の身に引き受けておられるのが主イエスである。
 神に捨てられるって、どういうことでしょうか。ここで私どもは、もはや言葉を失うのではないかと思います。
 この数か月、主の日の礼拝において、主イエスの受難物語を読んできました。主イエスが十字架につけられ、殺されていく、その経緯を、私どもなりに学んできたのです。どうしてこのお方は十字架につけられたのでしょうか。それには実際のところ、いろんな要因が絡み合っておりました。まず祭司長、長老たちがイエスのことを憎んだ。そして弟子のひとりであるユダがイエスを裏切った。一番弟子のペトロも、あんな人のことなど知らないと言った。ほかにもいろいろ、ピラトがどうとか、群衆が「十字架につけろ」と叫び続けたとか……。そして、こういう言い方は少し語弊があるかもしれませんが、そういうことは、私のような者にとっても説教しやすいんです。ペトロに共感しながら、そうだなあ、自分だってペトロみたいに自分の信仰を隠したくなることがあるよなあ、とか、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた群衆の姿を思いながら、でも自分だってその場に居合わせたらどうなっていたか分からんなあ、とか、反省してみたり、悔い改めてみたり、そういうことは比較的簡単なんです。けれどもそういうことは、主の十字架の核心そのものではありません。
 しかしここに至って、主の十字架の意味が決定的に明らかになる。神が、イエスを見捨てておられるのです。それが十字架の意味です。ペトロやユダが主イエスに何をしたか。祭司長や群衆が何をしたか。あるいは私どもが主イエスに対して何をしたか、何をしなかったか。そんな私どもの思いが入り込む隙もないほどに、神がイエスを十字架の上で、徹底的に苦しめておられる、見捨てておられる。神の怒りは誰に対するよりも御子イエスに対して燃え盛り、その激しさは、全地が闇に覆われるほどのものがあったのです。その神の怒りの前で、御子イエスは泣き叫んでおられる。苦しみもだえておられる。なぜそんなことが起こったのか。あなたのためだと、聖書は言うのです。
 これは決して簡単な話ではありません。ここで私どもは、もはや言葉を失うのではないだろうか。ただ黙って、息を呑むほかないと思うのです。
 しかもマタイによる福音書は、まさに息を呑むような思いで主イエスの叫びを伝えながら、「その名はインマヌエル」と、そう言うのです。この人を見よ、神に見捨てられて叫んでおられるイエスこそ、あなたと共にいてくださる神だ、というのは、到底人間の知恵では測りがたい、ある神学者の言葉を借りるならば、「荘厳なる神秘」とでも呼ぶほかないことだと思うのです。

■この主イエスの最後の叫びについて考える際に無視できないことは、これがもともと旧約聖書の詩編の言葉だということです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というのは強烈な言葉ですが、実は主イエスが初めて口になさった言葉ではないので、これは詩編第22篇の冒頭の言葉、そのままであったのです。
 主イエスは、いつも祈っておられました。その心の内にはいつも神への祈りがあり、賛美がありました。その主イエスの祈りの生活をいつも支えていたのが詩編であったということは、歴史的に考えても間違いないことです。その詩編の言葉のひとつが、十字架の上でも再び主の口に上ったということです。けれどもそれが、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか」というのは、いったいどういうことなのでしょうか。
 この主イエスの最後の叫びは、多くの人を躓かせました。それはそうでしょう。主イエスともあろうお方が、どうしてこんな情けない死にざまをさらしたか。その疑問を回避したいという目的で詩編第22篇を思い出そうとする人もいないわけではありません。ここで主イエスは、絶望だけを言い表したのではない、詩編第22篇の後半を読むと、むしろそこには神への信頼があり、あふれるほどの賛美があり、主はそれを言い表そうとしたけれども、最初の言葉だけで力尽きてしまったために、このような謎の言葉だけが残ってしまったのだと、そういう解釈をしてみせる人もいるのです。しかしそれはあまりに安直な読み方だと思います。全地を闇が覆ったと聖書が伝える、その闇の深さを、簡単にごまかすことは許されないだろうと思います。主イエスは、本当に、闇の中に捨てられる経験をなさったのであります。
 そのような闇を刺し貫くような叫びが、詩編の言葉で言い表されたということには、深い意味があると思います。言い換えれば、この主イエスの最後の叫びは、実は主イエスただおひとりの叫びではなかったということです。無数の人びとが、無数の嘆きをこの詩編に託して、涙を流して神に訴えてきた歴史が既にあったし、いや、歴史とか何とか、そんな難しい言葉を使う必要もないんで、私どもはこの詩編の言葉を読むとき、本当は、これはわたしの祈りなんじゃないか。「神よ、あなたはわたしの神ではありませんか。どうしてわたしをお見捨てになるのですか」。これは、わたしの祈りではないか。そのことに気づきます。ところがその祈りを、主イエスが叫ぶようにして祈っていてくださる。わたしと共に。いやむしろ、私どもよりも一歩先んじて、私どもが経験したこともないほどの絶望の中に、主が先に足を踏み入れていてくださるのです。
 しかし、そうだとするならば、私どもはもう、本当の意味で絶望せずにすむのではないでしょうか。私どもがどんなに深い絶望の中に落ち込んだと思っても、そこにキリストがいてくださる。というよりもむしろ、主が一歩先んじて、その絶望の中に踏み込んでいてくださる。まさにそこで私どもは、インマヌエルの恵みを知るのだと思うのです。

■詩編第22篇というのは、読めば読むほど興味深いもので、福音書の受難物語との関わりも、最初の言葉だけではないのです。もし関心があれば、丁寧に調べてみるとよいかもしれません。そういう意味でならば、主イエスが詩編第22篇の全体を思い出しておられたのだろうと考えることもできるかもしれません。たとえば7節以下にこういう言葉があります。

わたしは虫けら、とても人とはいえない。
人間の屑、民の恥。
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
唇を突き出し、頭を振る。
「主に頼んで救ってもらうがよい。
主が愛しておられるなら
助けてくださるだろう」。

先週の礼拝でも似たような言葉を読みました。「主に頼んで救ってもらうがよい」。まさにこのような言葉で、人びとは主イエスをののしったのです。お前、神の子だってな。だったらお前の神さまに頼んで救ってもらえばいいじゃないか。そういうふざけた笑い声を主は十字架の上でお聞きになりながら、ばかなやつらだ、俺は神の子だぞ? 神がわたしをお見捨てになるはずがないだろうと、彼らを見下しておられたなんてことは、まったくないのです。そうではなくて、そのときから主の心の内には、この詩編第22篇が響き続けていたし、そのときから既に、神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか、と祈り始めておられたのです。昼の12時から3時まで、闇の中で3時間にわたって主が祈り続けておられたことも、「神よ、見捨てないでください。わたしの神よ、どうしてわたしを見捨てるのですか」ということであったに違いないのです。
 けれども、本当はそこで、人びとは気づくべきであったのです。「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という主の叫びを聞きながら、ああ、本当はわたしがあそこにいるんだ。神から見捨てられている罪人のみじめさの真相を、そこでこそ見るべきであったのです。主イエスにはそれが見えていました。だからこそ、その絶望の叫びは、天地創造以来一度もなかったほどに深いものがあったし、けれどもそのまわりに立つ罪人たちには、何も見えておりませんでした。今私どもは、何を見ているのでしょうか。
 マタイによる福音書は、「この人を見よ。その名はインマヌエル」と言います。私どもの知るどんな絶望の深みにおいても、この方が共にいてくださる。「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」というのは、詩編第22篇の次の、第23篇の有名な言葉であります。しかし、改めて問わなければなりません。いったい誰が、わたしと共にいてくださるのでしょうか。私どもの知るどんな絶望も、主は知っていてくださるし、いやむしろ、私どもに先立って絶望の中に足を踏み入れてくださった主イエスを、父なる神が死人の中から引き上げてくださったことを知るとき、本当の絶望はもうどこにもないと、私どもは知るのです。

■マタイによる福音書はここでもうひとつ、たいへん興味深い報告をしています。そしてこれは、もしかしたら、聖書に長く親しんでいる人であっても、あまり覚えていない箇所かもしれません。主イエスがもう一度大声で叫び、息を引き取られたとき……

そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた(51~53節)。

主イエスが闇の中で、完全なる絶望の中で息を引き取られたとき、まさにそこで、命の光が射し始めたというのです。「地震が起こり、岩が裂け」、その大きな揺れは、死者の国の門をこじ開けてしまったというのです。「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」。これだけ読むと、まるで主イエスの復活よりも先に、別の人たちがどんどん甦ってしまったかのようです。それは順番がおかしいんじゃないかとか、余計なことを考える必要はありません。マタイはここで、甦りの命に生きる教会の姿を、比喩的に描いているのだと思います。なぜかと言うと、さらに54節にこう書いてあるからです。
 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
 「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」というのは、主を実際に十字架につけた実働部隊でしょう。主イエスに茨の冠をかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」などと言って、主イエスをいじめ抜いた人たちであったかもしれません。十字架の下で主イエスから剥ぎ取った服をくじ引きで分け合っていたのも彼らだったでしょう。「神の子なら十字架から降りて来いよ、そうしたら信じてやったっていいんだぜ」と、主イエスを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振ってののしった人たちの中にも、この「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」が含まれていたに違いないです。その人たちが、しかしここでは、「本当に、この人は神の子だった」と、そう言ったというのは、死人の復活に匹敵するような奇跡です。まさにここに、教会の姿、私どもの姿が描かれていると思うのです。

主の絶望は私どもの絶望、そして主の甦りの命は、私どもを永遠に生かす、確かな望みとなりました。それほどに深く、私どもと共にいてくださる主の叫びが、今も私どもの心を深く刺します。悔い改めつつも、誇らしい思いで、「本当に、この人は神の子だった」と言い表す者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

カテゴリー: 未分類 パーマリンク