2020年5月10日 主日礼拝

「自らを欺かないで」

中村 慎太

ヨブ記 第42章1-6節
コリントの信徒への手紙一 第3章18-23節

 私たちは、知恵に頼ろうとすることがあります。しかし、伝道者パウロは伝えるのです。私たちが頼るのは、知恵ではない、人でもない。私たちは、主なる神にこそ、依り頼むのだ。
 そのことが、今日私たちが聴いた、新約、コリントの信徒への手紙Ⅰ第3章18節から記されていました。
 この手紙を伝道者パウロが書いた当時、ギリシアでは知恵が重んじられました。人々は知恵を求めて広場に集まりました。哲学も大きく発展していました。人々は、「あの哲学者はこう考えた、わたしもその立場である」などと言いながら、互いに論議を交わしたのでしょう。当時の哲学の有名な言葉には、「賢い者は一切を所有する」などという言い方までありました。
 そのようなギリシアの文化は、生まれたてのコリント教会にも、影響を与えました。信徒たちは、自分の信仰を知恵で評価しようとしました。そこで、自らの知恵を裏付けするために、教会の指導者の名を持ち出したのです。「パウロ先生はこう言った、わたしはこの意見に賛成だ」。「いや、わたしはこっちの先生につく」。などといった論議が起こったのです。
 パウロはそのように派閥争いに陥ってしまったコリント教会のことを、深く嘆きました。そして、コリント教会の信徒に、主なる神への信仰を思い出させ、励ますために、筆をとったのです。

コリントの信徒への手紙一第3章 18節から。
「だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」

 全知全能の主なる神の前では、この世の知恵などどれほどのものか。知恵ある者と自分を欺いて、自分の知恵に頼ろうとするな。むしろ愚かなものとして主の前に立ち、主を見つめる信仰者でいようではないか、とパウロは伝えているのです。

 私たちも、知恵に囚われることがあります。今の教会でも、コリント教会と同じような誘惑があるでしょう。「あの人は神学の本をたくさん読んでいる。知恵がある、信仰も立派なのだろう」と思いたくなる時があるかもしれません。
 あるいは、私のような牧師にも、知恵への誘惑があります。み言葉を取り次ぐ説教の備えをする時、さまざまな本を読み、知識を得ます。しかし、それでどこか安心してしまいそうになる。最も大切な、主の福音をまっすぐに伝えるため、思い巡らすことを、蔑ろにしてしまう。
 そんなことがあったら、主の日の説教に人間の知恵が溢れることになってしまします。その誘惑に陥らないように、牧者はいつも祈って備えるのです。主なる神のメッセージを、できるだけまっすぐに取り次げるようにと、祈ってみ言葉の説教を語るのです。
 今の社会も、やはり知恵に囚われています。テレビやインターネットで、情報が洪水のように私たちの前に広がります。本質を踏まえて、自分が本当に立つことのできる確固たるものを持てずに、私たちは情報の上を漂うのです。そして、誰か人間に頼ってしまいます。「だれそれはこう言っている」という形で、自分の考えを補完してしまうのです。
 例えば、新型コロナウィルスという困難に対しても、私たちは世の知恵で戸惑っています。目立つ人の意見によって、左右されてしまいます。そもそも、このウィルス自体が世界中の人々にとって未知のものでした。これまでの私たちの知恵が、まったく太刀打ちできないものだったのです。
 私たちはそのように、知恵に頼ることで人間本来の道を、見失います。そして、本来示されていた、主なる神へと通じる道を、見失いそうになるのです。
 「賢い者は一切を所有する」、ギリシアの哲学にそういった有名な言葉があったと、説教の初めの方で言いました。
 しかし、パウロはそうではないのだ、とパウロは伝えます。

第3章 21節から
「ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。」
「すべては、あなたがたのものです」。あなたがたは、賢い者に、知恵に所有されているのではない。
あるいは、あなたがたは、知恵を体現しているかのように持ち出された、教会の指導者たちのものでもない。むしろその教会の指導者たち、パウロ、アポロ、ケファと呼ばれたペトロは、福音を伝えるために、あなたがたに仕えた側ではないか、とパウロは伝えるのです。

パウロの言葉はさらに広がります。
「世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、すべてあなたがたのものです。」
あなたがたは世界に所有されるものでも、ない。生きることと死ぬことに、支配されるのでもない。現在のものも、将来のものも、あなたがたを支配しない。むしろ、それらさえすべて、あなたがたに属することなのだ。あなたがたはそれらに支配されることはない。
死も、私たちを支配はしないのです。死も、私たちを捕らえることはないのです。
今、疫病で、私たちは死を大きく意識します。これに囚われそうになります。しかし、私たちは今、知らされるのです。死は、私たちの支配者ではない。死ももはや、私たちに属するに過ぎないのです。
「すべてあなたがたのもの」、とパウロは伝えます。そうすると、今度は私たちがすべての支配者となってしまうかのようです。それこそ、傲慢ではないか、と私たちは思います。 

 しかし、これらのパウロの表現は、すべて、最後の言葉へと向かっている言葉でした。

23節。
「そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」

 すべてはあなたがたのもの、と伝えたうえで、そのさらに上へ、さらに超えていくことをパウロは伝えたのです。ここにこそ、私たちが立つ信仰があります。私たちが属する、揺るがない方がいてくださいます。 私たちはキリストのものです。そして、その主イエスが父なる神のものであるからこそ、私たちもその父なる神のものであるのです。
 あなたがたは、世の知恵でも人間のものでもない。あなたがたは、父なる神に造られた、父なる神のものなのだ。
 私たちはどんな知恵にも頼ることなく、この神さまのメッセージにまっすぐ聴きます。情報が溢れ、戸惑う今だからこそ、私たちは聖書のみ言葉をまっすぐに聴くのです。
 旧約の、ある預言で、主なる神はお伝えになりました。「わたしがあなたを造ったのだ。あなたはわたしのものだ」と。どうぞ、このみ言葉をお聞きください。

ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は
今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず
炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神
イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。
わたしはエジプトをあなたの身代金とし
クシュとセバをあなたの代償とする。
わたしの目にあなたは価高く、貴く
わたしはあなたを愛し
あなたの身代わりとして人を与え
国々をあなたの魂の代わりとする。
恐れるな、わたしはあなたと共にいる。

 イザヤ書第43章のみ言葉です。
 主なる神は、私たちを造られた方です。私たちはこの方のものです。
 そして、主はこの預言で、私たちを贖うことを、身代わりとなってくださる方を遣わすことを、私たちと共にいて下さることを約束なさいました。
 その約束は、主イエス・キリストによって実現しました。主の贖いを成し遂げてくださった方こそ、十字架に架かってくださった主イエスです。父なる神のもとに私たちが立ち帰るために、主イエスは救いを起こしてくださいました。
 主イエスは、人々に向かって言いました。神の言葉を聞いて行うあなたがたこそ、わたしの兄弟姉妹だ、と。主のみ言葉に聴き従う私たちに向かって、あなたがたはわたしの兄弟姉妹だと言ってくださったのです。
 パウロはそのように主の兄弟姉妹とされた喜びをもって、この手紙を書き記しました。あなたがたは、主イエス・キリストによって救われた。キリストのものとされたのだ。
 私たちは、その聖書に現わされた主イエス・キリストの福音を聴き、それによって喜び証ししながら生きるのです。
 私たちは知恵にも、人にも、頼みません。ただ、十字架の主イエスに依り頼みます。
 なぜなら、私たちが、主なる神のものだから。主イエスのものとされているから。
この方のみ言葉にまっすぐ聴き続けこの方の救いのうちに進みましょう。

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