2020年5月3日 主日礼拝

「剣を取る者は剣で滅びる」

川崎 公平

創世記 第9章1-7節
マタイによる福音書 第26章47-56節

■私どもが聖書を読みますときに、ことに、今朝読みましたような福音書の受難物語を読みますときに、私どもが絶えず考えていなければならないことは、主イエスはどうして十字架につけられたのか、ということであります。このお方は、どうして十字架につけられなければならなかったか。どうして、殺されなければならなかったか。これは、長く信仰生活をしておりますと、何となくそんなものかと受け流してしまいそうになることですが、よく考えてみると、一生考えても解きつくせないものがあると思います。

 なぜ主イエスは十字架につけられたのか。それはわたしのためだ、わたしの救いのために、あのお方は十字架につけられたのだと、聖書はそのように私どもに教えてくれますが、いやいや、そのところがいちばん分かりにくいんだと思われる方も多いと思います。いったい、どうして主イエス・キリストの死が、わたしの救いになるのか。そもそも、救いっていったい何だ。わたしの何がどう救われたら、本当に救われたことになるのか。実は、そのことがよく分かっていないから、主イエスの十字架の意味も、いつまでたってもよく分からないということになるのではないかと思うのです。

 私どもは、実はいつも、自分が救われることを願っているものだと思います。本当に素朴な、根源的な人間の願いなんです、救われるということは。大学受験に失敗すれば、何とか次こそはと願って、もちろん自分でも一所懸命勉強するでしょうけれども、神社なんかに行って願いをかけるのです。自分が病気になった、愛する家族が病気になったと言えば、その試練から救われるように、できる限りのことをするでしょうし、奇跡的にその苦境を乗り越えることができたならば、「ああ、救われた」と、そのときはそう思うでしょう。けれども、一難去ってまた一難、私どもの人生には、これでもういい、これで完全に救われた、もうだいじょうぶということは、絶対にないので、私どもはおそらく死ぬまで、神さま、これを何とかしてください、ここからわたしを救い出してください……一生続くのであります。自分の子どもがどうにも手に負えないとか、夫婦の関係が絶望的にうまくいかないとか、年老いた親をどうしても愛することができないとか、そんな小さなことでも、私どもは死ぬほど悩むものですし、もっと大きなこと、たとえば世界中を悩ませているウイルスのこととか、国と国との争いとか、自分ひとりではとうてい手に負えないような事柄にぶつかったときに、本当にどうしようもない思いで、「神よ、助けてください、わたしを救ってください」と、特に信仰がなくたって、思わず神の名を呼ぶことだってあるだろうと思うのです。

 けれども、そういうときにいつも私どもがよく考えなければならないことは、本当の救いっていったい何だ。同じことを繰り返すようですが、わたしが救われるって、何がどう救われたら、本当に救われたことになるのか。私どもは、実はそのことがよく分かっていないのだと思います。私どもの何が、救われなければならないのでしょうか。どこから、救い出されなければならないのでしょうか。そもそもそのことが分からないと、そのわたしのために主は十字架につけられた、などと言われても、意味が分からないのは当然であります。

■そこで、今日読みました聖書の記事であります。話の筋書きとしては、新共同訳聖書の小見出しに「裏切られ、逮捕される」とある通りで、最初の47節にこう書いてあります。

イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。

イエスを捕らえようとしてやって来た人びと、「大勢の群衆」と言いますから、5人や10人ではなかったと思います。何十人という大集団が、皆刃物を持っていた。武器を持っていた。なぜ武装する必要があったかということは、この話を読めばすぐに理解できるので、このような武装集団に取り囲まれた弟子たちが、すぐに何をしたかというと、51節、「そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした」というのです。

 この「イエスと一緒にいた者の一人」というのが誰のことか分かりませんが、言うまでもなく十二弟子のひとりでしょう。正確には、イスカリオテのユダは向こう側に回ってしまっていますから、11人の弟子たちのひとり。ただ興味深いことに、他の福音書にも同じような記事があり、そのうちヨハネによる福音書だけが、ここで大祭司の手下に切りかかったのは、一番弟子のシモン・ペトロであると、名指しで伝えています。そう言われてみると、確かにペトロのやりそうなことだと思われるかもしれません。マタイによる福音書にも、この第26章の35節に、こういうペトロの言葉がありました。

ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。

「先生、わたしは先生と一緒に死ぬ覚悟です」。このペトロの言葉に、嘘偽りは1ミリもなかったと思います。ペトロは、強がりでも何でもなく、本心から、主イエスのために死ぬ覚悟をしていたのだと、私はそう考えています。ここで男を見せなくてどうすると、剣を振り回した。もちろん、落ち着いて考えてみれば、多勢に無勢、どう考えても勝ち目はありません。けれども、弟子の端くれとして、先生のためなら、わたしは死んでもいい。ペトロという弟子は、しばしば誤解されることもありますが、本当は決して意気地なしではなかった、弱虫ではなかったと思うのです。

 けれども問題は、そのペトロの振り上げた剣が、ペトロを救うのかということです。仮に、ペトロが実は宮本武蔵のような刀の達人で、たったひとりで100人の武装集団をやっつけることができたとして、しかしそれが本当にペトロの救いになるのか。そこでも繰り返し、よく考えなければならないことは、いったい救いって何だ。ペトロというひとりの弟子が救われなければならないとするならば、ペトロの何がどう救われたら、本当に救われたことになるのか。ペトロは、どこから救い出されなければならないのか。少なくとも、ペトロの剣がペトロを救うわけではないことは、これは落ち着いて考えてみれば明らかであります。

■そのことを明確に言い当てたのが、52節の主イエスの言葉であります。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。いったいここで、主が何を言おうとしておられるのか、よく考えなければならないと思うのです。「剣をさやに納めなさい」というのは、その剣はあなたを救う力を持たない、ということでしょう。「剣を取る者は剣で滅びる」。あなたを救うのは剣ではない、むしろその剣は、あなたを滅ぼすものでしかないではないか。あなたを救うのは、このわたしだ。そう言われたお方ご自身が、たったひとりで、剣を持つことを、拒否しておられるのです。そのことの意味を、よく考えなければならないと思うのです。

 大勢の群衆が、剣や棒を持って、主イエスを取り囲んでいます。主の弟子たちも、剣を握りしめています。武器を持っていないのは、主イエスただおひとりです。なぜ私どもが剣を持つかというと、結局、怖いからです。死にたくない。滅びたくない。自分で自分の命を救いたい。そういう私どもが、最後の最後まで握りしめているものは、結局、剣なんじゃないでしょうか。文字通りの刃物を手にすることがなくたって、私どもはいろんな剣を、形を変えて、手にしたがるのではないでしょうか。その私どもの心の最も深いところにあるのは、恐怖でしかないのです。

 けれども、そのような恐れのとりこになっている人間たちの真ん中に、ただひとり、剣を捨てておられる神の子が立っておられます。このお方は、その気になれば、53節にあるように、ひと言父なる神にお願いすれば、「父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」。そのくらいのことは、いつでもできる。いくらでもできる。けれどもわたしはそれをしない。なぜかと言うと、54節、「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」。ここで天使の軍団なんかを呼んでしまったら、聖書の言葉が嘘になってしまう。わたしは、神のみ旨に従い、剣を用いない。天使の軍団も呼ばない。なぜなら、そんなことをしたって、神のみ旨は実現しないし、あなたが救われることもないからだ。56節でも、「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」。そう言われるのです。

 「剣を取る者は皆、剣で滅びる」というのは、もう一度申します、これは他の誰の言葉でもない、私どもの救い主の言葉なのです。主イエスというお方は、剣を持つことを拒否なさったがために、十字架につけられたのです。そういう救い主に救われた私どもというのは、いったい、何がどう救われたんでしょうか。どこから救われたんでしょうか。

■この「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉は、比較的よく知られているものだと思います。たとえば、キリスト者が平和について考えるときに、しばしばこの言葉が引用されます。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」、だからわれわれの国が軍事力を持つことは間違っているのだと主張することがあります。けれどもそういうことを言うと、必ず反論されます。そんな甘ったれたことを言っていられるのは、実は日本が外国の軍隊に守られているからじゃないか。そして実は、軍隊なんて大きなことを考える必要もないので、たとえばおまわりさんはピストルを持っています。ピストルを持っているおまわりさんは、ピストルで滅びるんだろうか。まさか誰もそんなことは考えないでしょう。しかも、もしもおまわりさんがピストルを持つことをやめたら、実はいちばん困るのはわれわれ自身なんで、おちおち外を歩くこともできなくなるでしょう。そうなると、やっぱり常識的な範囲で、剣を持つべき人は剣を持たないとだめなんじゃないか。「剣を取る者は剣で滅びる」って、まあ理想論としては結構だけれども、というように、いくらでも議論ができそうです。議論をしながら、既に主イエスの思いからは遠く離れてしまっているかもしれません。

 先日、新聞にこんなことが書いてありました。中東のイエメンという国で、相変わらず内戦が続いている。泥沼とでも言うべき内戦が続く中で、案の定、新型コロナウイルスによる死者が出た。今後、この国はいったいどうなっちゃうんだろうか。せめて戦争はやめたらどうかと誰もが思いますが、争っている当事者たちは、どうしてもやめられないんです。そういうものだと思うのです、人間というものは。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」、そうだ、主イエスのおっしゃったことは本当だと、誰もがそう思うのかもしれませんが、私どもだって追い詰められたらどんな剣を振り回すか分かりません。

 「ペンは剣よりも強し」という格言があります。この言葉を巡って、ある人がこういうことを書いていました(もう何年も前のことで、インターネットで拾い読みしたようなことですから誰の文章かも覚えていないのですが……)。「ペンは剣よりも強し」、実にその通り。しかしこの言葉は、必ずしも戦争反対とか、言論の自由とか、そういうご立派な意味で使われてきたわけではない、と言うのです。むしろどちらかと言えば多くの場合、これは言葉の力の恐ろしさを表現するもので、たとえば、無責任なマスコミの言論が、その言葉の力でどんなに深く人を傷つけることか。それが社会全体にとっても、どんなに大きな影響力を持つことか。インターネットの発達によって、その問題はますます深刻になっている、と言うのです。「ペンは剣よりも強し」、言葉というのは、実はどんな刃物よりも深く人を傷つける力を持っている。本当にそうだと思います。ことにこの数か月、新型ウイルスの不安の中で、私どもはそのことを実感しているのではないでしょうか。剣よりも強いのは、どんなウイルスよりも恐ろしいのは、実は人間の言葉である。

 旧約聖書の箴言にも、「あたかも剣で刺すかのように軽率に語る者がいる。知恵ある人の舌は癒しを与える」(箴言第12章18節/聖書協会共同訳)とあります。「あたかも剣で刺すかのように軽率に語る者がいる」。私どもも、実にしばしば、こういう意味での剣を振り回すことがあるでしょう。言っていることは正しいんです。けれどもそういう私どもの言葉の剣は、誰のことも救わないんです。私どもは、そういう悲しみを、いろんなところで経験し、よく知っているのです。けれどもそこで、ただ反省したり、言い訳をしたりしても、何の意味もないだろうと思います。私どもは、救われなければならない罪人なんで、その罪人である私どもが救われる道が、もしもあるとするならば、それはいかなる救いなんだろうか。誰が、わたしを救ってくださるんだろうか。

■そこで聖書は、ひとりのお方の姿を指し示し、そのお方の言葉を伝えるのです。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」。あなたを救うのは剣ではない。わたしがあなたを救う。

 このお方は、そのご生涯において、遂に一度も剣をお用いになりませんでした。いつでも天使の軍団を召喚できるだけの力を持ちながら、その力を自分の満足のためにお用いになったことは、一度もありませんでした。むしろ、「あなたの敵を愛しなさい」と、「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」と、そのように教え、それを本当の意味で実践なさったのは、主イエスご本人であったのです。そしてそれは、主イエスがひとりでお考えになったことじゃない、「必ずこうなると書かれている聖書の言葉」、すなわち父なる神のみ旨に、徹底的に従われたのです。私どもを救うために、そうなさったのです。私どもは、剣を持たなかったこのお方に救われたのであって、それ以外に、私どもが救われる道はどこにもなかったのであります。

 主イエス・キリストは、十字架につけられました。剣を持たなかったがゆえに、このお方は弟子たちに見捨てられ、人びとに捕らえられ、侮辱され、殺されたのです。「あなたの敵を愛しなさい」と教えられたお方を、私ども人間は、いちばんひどい仕方で殺してしまいました。まさにその事実の中に、私どもが罪人であることが明らかにされているし、私どもがいったいどこから救われなければならないか、そのことが、この主イエスの十字架のお姿に、はっきり表れていると思うのです。

 私どもはいつも、あれが足りない、これが足りない、だから神さま、わたしをこういうふうに救ってください、こうしてください、ああしてくださいと、いろんなことを願うのですが、私どもの本当の問題というのは、実はいつもたったひとつなんです。私どもが、いつも剣を握りしめているのは、それがどんな種類の剣であろうが、結局私どもが愛に挫折しているということでしかないのです。その意味で、剣というのは、勝利のしるしなんかじゃない、私どもが愛に挫折している、そういう意味で敗北している、その象徴でしかないのです。そのことを、たとえばハイデルベルク信仰問答という信仰の書物は、その最初の第一部で、「人間のみじめさ」という言葉で表現するのです。「あなたのみじめさとは何ですか」。「愛することができないことです」と、たったひと言でそう言うのです。

 けれども、もう一度申します。剣や棒を持っている人びとに取り囲まれて、たったひとり、剣を持たない神の子が立っておられます。「わたしは剣を持たずに、あなたを愛する」と、そう言ってくださったお方です。誰がわたしを救うのか。何がわたしの救いとなるのか。いかなる剣もわたしを救うことはありません。ただ神の御子イエスが、私どもに代わって十字架の上で死んでくださったことによって、初めて私どもの救いの道が開かれたし、その御子イエスを、父なる神が死人の中から引き上げてくださったとき、神の愛の戦いは必ず勝利に終わることを、確証してくださいました。私どもも、今は、この神の愛の勝利の中に立つのです。その望みに生きるとき、私どもも、私どもなりに、少しずつであったとしても、敗北のしるしでしかない私どもの剣を、捨てることを学んでいくことができるでしょう。

■弟子たちは、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。それは既に第26章の31節で、主が予告なさった通りのことでした。第26章31節以下。

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。
すると、羊の群れは散ってしまう』
と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。

ある人が、こういうことを書いていました。弟子たちの群れが散らされたとき、それはすなわち、教会が一度死んだということだ。主が捕らえられたとき、そして主が殺されたとき、教会は一度死んだのだ。ここに記されているのは、教会の死である。けれども、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。お甦りになった主が、もう一度教会を集めてくださる。主イエスの復活は、教会の復活でもあったと、そう言うのです。教会の存在は、ほかの誰の意志によるのでもない。ただ神のご意志によります。

 そのように、ただ神のご意志によって新しく立った弟子たちは、その後、二度と剣を取ることはありませんでした。それはそうでしょう。教会というのは、その存在そのものが、剣をお用いにならなかった神の勝利のしるしなのです。剣の支配ではない、神の愛が勝利するのだ。そのような、まことに確かな場所に立つことを許された弟子たちは、もう二度と剣を取ることはなかった。まさしく、弟子たちは、救われた者として立ったのであります。私どもの物語、教会の姿が、このように描かれていることを、感謝をもって受け止めたいと思います。お祈りをいたします。

 

 神さま、どうか私どもを救ってください。剣を取る者は、剣で滅びる。本当にそうだと思います。どうか、私どもを滅ぼすものでしかない剣を、捨てさせてください。いや、そんなことよりもまず、私どものために剣を捨てて、十字架につけられた、あなたの御子イエス・キリストの思いを、日に日に深く学ぶことができますように。罪深い私どもにとって、やっぱり怖いものはたくさんあるのです。だからこそ、私どもの救いは、お甦りになった御子イエス以外には、何も与えられていないことを、正しくわきまえる者とさせてください。私どもの救い主、イエス・キリストのみ名によって、祈り願います。アーメン

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