2020年4月26日 主日礼拝

「苦しみ悶える神の子」

川崎 公平

創世記 第22章1-8節
マタイによる福音書 第26章36-46節

■主イエス・キリストの受難物語と呼ばれる、福音書の最後の部分を読み続けています。主イエスの地上のご生涯の、最後の苦しみには、いくつかの山があります。もちろんそのいちばん大きな山は、十字架につけられることでしょうけれども、それに先立つさまざまな苦しみの山の中でも、特に大きな山は、今日読みました、ゲツセマネという場所での、徹夜の祈りだろうと思います。既に聖書朗読をお聞きになりながら、皆さんもさまざまな思いを抱かれたことだろうと思います。
 悲しみ、もだえながら……いったい主イエスはどのような声で、どのような表情で、祈りをなさったのだろうか。もしできることなら、その場に居合わせたかったとさえ思います。38節に、「わたしは死ぬばかりに悲しい」という言葉がありました。「悲しみのあまり、死にそうだ」というのです。ただ、原文の意味は少しとりにくいところがあって、「いっそのこと死にたい」という意味だと説明する学者もいます。自殺願望を口になさった。問題は、これがどこかの平凡な人間の言葉だというのではなくて、神の御子の発言だということです。神の御子イエスが、どうしてこんな弱音を吐いておられるか。
 この聖書の記事を説明しながら、こういうことを言う学者がいます。この記事は、間違いなく歴史的な事実に基づくものだ。つまり、のちの時代の教会の作り話ではない。なぜかと言うと、このようなたいへん頼りない、ある意味で誤解を招きかねないイエスの姿を、のちの時代の人がわざわざでっちあげるということは考えられないからだ。「悲しみもだえ」とか、「できることなら、この杯は勘弁してください」とかいう記述は、実際に起こった事実として考えないとつじつまが合わないだろう、などという学者の説明を読みながら、私は、本当にそうだよなあ、と思いました。ことに、最初にこの主のお姿を目の当たりにした三人の弟子たちは、本当にびっくりしただろうなあ、と思うのです。何だろう、この人は……。しかし、ただびっくりするだけでは、意味がないのです。実際のところ、この三人の弟子たちも、悲しみもだえる主のお姿に、当惑したかもしれませんが、結局はそのそばでずっと居眠りしていたというのです。
 このゲツセマネの記事は、おそらく誰にとっても、忘れることのできない情景だろうと思います。何度読んでも不思議な思いにさせられます。少し正直なことを申しますと、説教の準備をしながら、どうも私は心が重かった。いったい、人間に許されることなんだろうか。この聖書の記事を説き明かすなんてことは。けれども、ひとつ私が今日、皆さんの前に立ちながら心を決めていることは、主イエスがこのとき三人の弟子たちに繰り返しお求めになったように、「目を覚ましていなさい!」 苦しみもだえておられる主イエスのお姿を、とにかく正面から見つめないといけない。主イエスは、死ぬほどの悲しみの中で祈りながら、しかも弟子たちのことをお忘れになることはありませんでした。何度でも戻ってきて、「目を覚ましなさい、眠っちゃだめだ」と言われました。今私どもも、この主イエスのご訪問を受けたいと願います。もしまだ眠り込んでいるならば、何度でも主イエスに起こしていただいて、その祈りのお姿を、きちんと見つめ直したいと思うのです。

■そこで、何と言っても私どもが心を打たれることは、どうして主イエスは、こんなに苦しんでおられるのだろうか、ということです。ルカによる福音書を読みますと、その苦しみの激しさは、汗が血の滴りのように、ぽたぽたと地面に落ちるほどであったと言います。「父よ」という言葉が繰り返されますが、日本語の聖書翻訳の伝統ではそう訳されるんでしょうが、要するに、「お父さん、お父さん」と、まるで子どものように、泣き言を言っておられるかのようです。事実、このお方は、神の御子であられたのです。その意味では、ここにこのお方の神の御子としてのお姿が鮮やかに現れていると、そう言うこともできるのかもしれませんが、それならば、なぜ神の御子ともあろうお方が、こんなに弱々しい姿を見せておられるか。これは、私どもが何度読んでも不思議な思いにさせられるところだと思います。
 ナザレのイエスは、まことの神であり、まことの人であられる。これは、私どもの信仰の、最も大切な事柄です。まことの神でありながら、その神であることを少しも割り引くことなく、本物の人間となられた。人間らしい姿を、仮面のようにかぶっておられたというんじゃない、どこをどう切り取っても100パーセント人間である。そのような主イエス・キリストのご性質が、ある意味でいちばん際立って現れたのが、このゲツセマネにおける祈りの姿であったと言えるのではないでしょうか。まことの神が、しかもまことの人として、ひとりの生身の人間として、苦しんでおられるのです。
 十字架という処刑の方法は、たいへん残酷なもので、生身の人間なら多少の泣き言を言ったって、むしろそれが当然だろう。それはそうです。けれども、そうは言っても、イエスさまは神の子じゃないか。どんなに十字架というのが恐ろしい刑罰であったとしても、神さまならどうってことないんじゃないか。実際に、多くの人がこの主イエスの弱さにつまずいてきました。ソクラテスという哲学者は、最後まで弟子たちと議論を交わしながら、平気で毒の杯を飲み干したと言われますが、別にソクラテスなんて何千年も昔の人の話なんかしなくたっていいんで、私どもの知っている偉い人というのは、たいてい最後の最後まで偉いんです。その最後の最後に醜態をさらしたら、「晩節を汚した」などと言われるのです。ある日本を代表するような財閥の創始者が、遂に医者からも見放されて、「金ならいくらでもやるから、誰か助けてくれ」とわめいたという話を聞いたことがありますが、私どもはやっぱりそういう人のことを軽蔑するんです。
 けれども、聖書が伝えていることはそんな次元のことではないのであって、むしろ話はまったく逆で、実は、ゲツセマネの苦しみというのは、神だからこそ苦しむことができた。神の御子以外には苦しみ得ない苦しみであった。なぜかと言うならば、このお方の苦しみは、本当はイエスという人ひとりの苦しみにとどまらないのであって、私どもが人間として苦しむべき苦しみのすべてを、たったひとりで背負って、苦しんでおられる、そういう苦しみであったからです。
 宗教改革者のルターは、主イエスほど死を怖れた人はなかった、と言いました。この福音書の記事を読みますと、本当にそうだと思わされるのですが、なぜこのお方は、ここまで苦しまなければならなかったか。それはあなたのためだ、あなたのためにこのお方は苦しんでおられるのだと、聖書にはそう書いてあります。しかし、それがいちばん分かりにくい、何度聞いてもぴんとこない、と思われる方も多いだろうと思います。確かに分かりにくいことです。
 そこで、それでも私どもにできることがあるとするならば、先ほども申しましたように、「目を覚まして」、目をつぶらないで、このお方の苦しみを、よく見つめてみることです。なぜこの人は、こんなに苦しんでおられるんだろうか。なぜ、神であるお方が、ここまで苦しまなければならないんだろうか。「目を覚ましていなさい」というのは、ただ居眠りするな、という意味ではないでしょう。目を覚まして、見るべきものを見なさい、ということであります。ことにここでは、主イエスの苦しみから、目をそらすな、ということでしかないのであります。

■「目を覚ましていなさい」と、主は三人の弟子たちに、繰り返しそのことをお求めになりました。どうして眠るんだ。目を覚ましなさい。しかし、目を覚まして、どうするんでしょうか。
 このことと合わせて、特にマタイによる福音書において際立っている言葉があります。それは、ただ漫然と読んでいてもなかなか気づきにくいことかもしれませんが、マタイによる福音書というのは、もともとマルコによる福音書を土台にして編集されたと言われます。そのマルコによる福音書のゲツセマネの記事と比較しますと、ひとつ際立っていることは、まず36節。「イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て」とあります。イエスは、ひとりで来たんじゃない、「弟子たちと一緒に」とわざわざ書いてある。これはマルコによる福音書にはない言葉です。それから38節。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。ただ目を覚ませ、というのではなくて、「わたしと共に」目を覚ましなさい、わたしから離れちゃだめだ。それはつまり、わたしから目をそらしてはだめだ、ということでしょう。その「わたしと共に」というのが、マタイによる福音書だけに現れる言葉で、それは40節にも繰り返されます。注意されてもまた眠ってしまった弟子たちに言われました。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」。
 こういう言葉遣いにマタイによる福音書の特色があると言うと、ああ、そうかとお気づきになる方もあると思います。このマタイによる福音書の第1章23節に、クリスマスになると読まれる言葉がある。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる」。
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 神は、われわれと共にいてくださる。このナザレのイエスこそ、そのしるしだ。そういう喜びの知らせから始まるマタイによる福音書の、最後の言葉はこうです。お甦りになった主イエスが、改めて山の上で弟子たちに約束してくださった言葉が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。マタイによる福音書を最初から最後まで貫くメッセージというのが、このインマヌエル、神がわれわれと共にいてくださる、ということであったのです。
 けれどもそこで問題は、そのように私どもと共にいてくださる主イエスというお方が、何のために、私どもと一緒にいてくださるのか。どういう目的で、私どもと一緒にいてくださるのか。このお方は、私どもと一緒にいて、何をしておられるのか。そのことを、目を覚ましてしっかりと見つめることがないと、ただ「イエスさまはわたしと一緒に」などと、甘ったれたことを言ってみたって、何の意味もないのです。私どもと一緒にいてくださる神の御子が、どうしてこんなに苦しんでおられるんだろうか。
 悲しみもだえながら、夜を徹して父なる神の御心のみを問い続けたイエスさまの姿を見つめながら、ああ、そうだ、このようなお方がわたしと共にいてくださるから、わたしは救われたんだと、そのことが分からなければ、私どもは、本当の意味でインマヌエルという言葉を使うことはできないと思います。ここにいた弟子たちは、そのことが分からなかったから、主の苦しみのそばでぐうぐう居眠りをしたんでしょう。物理的にはいちばん主の近くにいることが許されたのに、その心は遠く離れていたのです。けれども弟子たちの心は離れていても、主イエスは、この弟子たちと共にいてくださいました。この弟子たちのそばで祈りつつ、弟子たちのためにも、苦しんでおられたのです。その事実に、しかし今は、きちんと目覚めていなければならないと思うのです。

■主イエスの苦しみのそばで、それでも眠りこけてしまった弟子たちについては、いろんな言い方ができるだろうと思います。おそらく皆さんの多くは、この弟子たちに同情するところがあると思います。人間として当然の弱さが現れたのだと、言ってしまえばそれだけのことかもしれません。41節に、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」とそう言われた上で、「心は燃えても、肉体は弱い」と主は仰せになりました。これは主イエスの憐れみの言葉だと、しばしばそう読まれます。あなたがたの心は燃えているんだね。分かるよ。でも、肉体は弱いんだね。それはそうです。もう夜遅い。しかもその前には、過越の食事をしていますから、ワインも飲んだに違いない。眠くなるのはしょうがないじゃないか。しかし、率直に申しまして、弟子たちの心は本当に燃えていたんでしょうか。本当は、心も冷えていたのではないでしょうか。そして事実、私どもの弱さというのは、ただ肉体が弱いというだけでなく、心が弱いのです。何よりも、主イエスの苦しみを目覚めた思いで見つめることにおいて、私どもの心はなかなか燃えないと思うのです。
 そこで、この「心は燃えても」という言葉については、別の読み方が考えられると思います。これは直訳すると、「心」というよりもむしろ「霊は前進する」という意味です。そして多くの人が、これはむしろ神の霊のことだと言います。神の霊は前進する。ここで弟子たちが何をしようが何をすまいが、神の働きは妨げなく前進する。しかし「肉体は弱い」、直訳すればむしろ「肉は弱い」という意味です。心も体もひっくるめた、人間そのものの弱さを、主は見つめておられるのかもしれません。
 しかしそこで改めて問わなければならないことは、人間の弱さって、いったい何でしょうか。夜になると眠い。お酒が入ればますます眠い。いろんな弱さがあるでしょう。けれども、人間の弱さ、われわれの何が弱いって、結局のところ、信仰が弱いのです。私どもも、ことにこの数か月、世界中が、人間というのはこんなに弱いのだということを、つくづく思い知らされております。信仰なんか、どこかに吹っ飛んでしまいそうな思いの中で、今わたしと共に、主がいてくださる。わたしのそばで、主が苦しんでいてくださる、その苦しみを見つめることにおいて、私どもの心はなかなか燃えません。そうではないでしょうか。それにもかかわらず、「神の霊は前進する」、神のみわざは、妨げなく前進しているのだから、目を覚ましてこれをよく見なさい。
 弟子たちは、どうして眠り込んだのか。どうしてその心は燃えなかったのか。いくらでも言い訳はできたでしょう。「疲れていたんです」。「アルコールも入っていたんです」。「もう夜も遅いですから」「心は燃えても、肉体は弱いんです」……。けれども、どんな言い訳をしてみたって、人間というのは本当に眠っちゃいけないときは眠らないもので、弟子たちは要するに他人事だったんです。しかしもし、この主の苦しみが、本当にわたしのための苦しみだと分かっていたら、弟子たちだって、眠るどころじゃない、真っ青になって祈っただろうと思います。
 聖書が語ることというのは、結局はこの一点に尽きるのです。神の御子が苦しみをお受けになったのは、他の誰のためでもない、これは、わたしのための苦しみなんだ。そのことが分からなければ、聖書のどこを読んだって、結局は他人事にしかならないんで、何をどんなに勉強したって、一行も理解できないだろうと思います。
 ある神学者が、こういうことを申しました。たいへん有名な話で、どこかでお聞きになったことのある方も多いと思います。あなたが釣りをしているときに、突然誰かが横から走ってきて、ひとりで水の中に跳び込んで、「わたしはお前のために死ぬぞ」と言われたって、それは頭のどうかした人が、ひとりで溺れていっただけで、何のことだかさっぱりわけが分からないだろう。しかし、あなたが溺れているときに、誰かが水の中に跳び込んできてくれたならば、何の説明もなくたって、事の重大さを理解するだろう。
 今ここに、水に跳び込んで、わたしのそばに来てくださった方がおられる。それが、神の御子イエスであります。このお方は、「わたしが一緒にいるよ、だからだいじょうぶだよ」というだけではすまなかったんで、そのお方が、わたしのために、わたしのそばで、苦しんでいる。祈っている。その主イエスの祈りというのは、ただご自分のためにだけ祈っておられたのではありません。神さま、死ぬのはいやですと、ただわがままな祈りをなさったのではありません。そうではなくて、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と言われたのは、父よ、どうかこの溺れている人たちを助けてください、そしてもし御心ならば、そのためにわたしの命を使ってくださいという、そういう祈りであります。
 それなのに、その祈りが、自分のための祈りだということが分からなければ、やっぱり眠くなるんです。自分は溺れかかっている、自分の罪のために溺れているのだということが分からなければ、主イエスの苦しみも、主イエスの悩みも、主イエスの祈りも、自分には全然関係なくなるし、眠ければ寝るだけの話にしかなりません。けれども、本当に溺れている人が、眠いからって眠るでしょうか。まして、そこに誰かが飛び込んできてくれたというときに、いやあ、どうもすみません、でもわたし眠いんで、などと言うでしょうか。このイエスというお方が、誰のために苦しんでおられるのか、そのことが本当によく分かったときに、「主が共にいてくださる」、その恵みが、本当によく分かるようになるのです。今も、このお方が、わたしと共にいてくださる。あなたと共にいてくださるのです。そのことが、どんなに大きな慰めになるか。どう考えても、眠っている場合では、ないのであります。

■眠りこけている弟子たちをしり目に、けれども、主イエスはその祈りを貫いてくださいました。「神の霊は、前進する」というのは、本当にその通りなのだと思わされます。そして最後に主は言われました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる」。それでよい、と言わんばかりの言葉です。のちに弟子たちは、このときの主イエスの言葉を、本当に恥ずかしい思いで、思い起こしただろうと思います。だがしかしなお深い感謝をもって、神のみわざを賛美するような思いで、この主イエスの言葉を、語り伝えたことだろうと思うのです。

「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。

 「立て、行こう」。それまでの弱々しい主のお姿とは、ずいぶん違うようです。しかしそう思うのは、御子イエスと父なる神との関係を知らないからであって、主イエスご自身の中には、何の矛盾もありませんでした。父なる神を信じるがゆえに、このお方は悲しみもだえながら徹夜の祈りをなさったし、その御父の御心を信じるがゆえに、言ってみれば、前進する神の霊に手を引かれるように、立ち上がって、さあ、行こうと言われるのです。
 この「立て、さあ行こう」という言葉を、ある学者がこのように説明しています。そのあとに「見よ、わたしを裏切る者が来た」とあるように、この世の支配者が近づいてくる。けれども、この世のどんな支配者も、死の力でさえも、自分に対して何の力も持っていない、自分に命令したり、自分の運命を変えたりするような力はまったくないのだ。世界を支配しているのは、父なる神の御心だけだ。さあ、立ち上がって、それを示しに行こう、と言うのです。
 主イエスの歩みを拘束しているのは、ただ父なる神の御心。その神の御心によって、「あなたがたも立て、さあ行こう」と言われるのです。「立て」と訳されている言葉は、のちに、主イエスのお甦りを表現するためにも用いられるようになりました。御子イエスを死人の中から立ち上がらせてくださった父なる神の力が、ここで既に主を立ち上がらせておられるし、その主と共にいることを許された弟子たちも、ここで主と共に立つのです。私どもも今、目覚めた思いで、主と共に立ち上がる幸いを知りたいと願います。お祈りをいたします。

 あなたの御子が、共にいてくださいます。どんなときにも、私どもから離れることなく、共にいてくださる主が、しかし私どものために、どんなに深い苦しみの中に立ってくださったことか。深い痛みをもって、その事実に目覚める者とさせてください。私どもも苦しんでいます。さまざまな悲しみを知っております。その中でわがままになり、罪を犯す日々であることを、何よりも悲しく思います。それだけにますます深く、今共にいてくださる御子イエスに対する愛と信仰を深くさせてください。主と共に、私どもも立ちあがることができる、その望みを新しくさせてください。主のみ名によって祈り願います。
アーメン

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