2020年 受難週祈祷会

2020年4月10日(金) 

近藤 由良子

ルカによる福音書 第23章46節

 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」こう言って息を引き取られた。

 死の恐怖の中でもう逃げ道がない、そういう人間の姿がここに見えています。そして、私はこのイエス様の姿を見て改めて気づかされました。このイエス様の恐怖とは、本当は私の恐怖だったのではないか。
けれどもそのような滅びの恐怖の中で、イエス様はただ一つの逃げ道、委ねることを私達にも見せてくださいました。父よ私の霊をどうか、あなたが受け取ってください。

 神との絆が断たれ切羽詰まっている。もはや「叫び」としか言えないような祈りの声が神に向けられます。無力感が全存在に染み渡り、まさにそう言う時に神を呼ぶ叫びが生まれます。
 イエス様は「父よ私の霊をみ手に委ねます」との最後の言葉で全ての恐怖と苦しみを突破されたのではないでしょうか。

 天の父が御顔を隠されイエス様には世の全ての罪が襲い掛かったのです。罪を犯した者が永遠に滅びなければならないその死を代わってくださったのです。

 数々の奇跡を起こされたイエスさまです。十字架を飛び降り自分を救うことが出来た筈です。しかし神様との関係を守られ旧約からの預言の成就に従われたのです。神様への信頼と従順をシッカリと表され見せてくださったのです。
見せてくださったと言うのはつまり、ここに私たちの本当の生き方があり、幸せな安心な生き方があるのです。その対極にあるのが、愚かな金持ちの例え話で語られています。

 ある金持ちの畑が豊作だった。入り切らないのでもっと大きな蔵を建て、そこに穀物や財産を蓄え、これで大丈夫何年も生きられる食べたり飲んだりして楽しもうと安心するお話が出てきますが、神は「愚かな者よ今夜お前の命はとりあげられる。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と。金持ちは飢餓から守られた安心感と死に対する不安も薄らいでいたでしょう。

 私達は愚か者ではなく賢くなる事を求められています。
 そこで求められる賢い者とは、自分は何時死ぬか分からないと言うことに気付く事でなく、人生とは儚い物であると知っていることでもなく「神の前に豊かになる」事を知ることなのです。神の前に豊かになるとは、日々の生活において自分の霊を父である神に委ねて生きることなのです。愚かな金持ちにはそれが出来なかったのです。

 私達は夢中になればなる程自分で頑張って成し遂げようとします。誰にも頼れないと思ってしまいます。その時イエス様を忘れているのです。主の導きの上に成り立っている事にも気が付かないのです。
 大嵐の時の、小舟の上で眠っていらしたイエス様と船を沈ませないように波と闘っていたペトロさんを思い出して下さい。人間の力ではどうしようも無いことが起きているのです。イエスさまに速やかに起きて頂き助けを求めお委ねしましょう。私達を放って置かれる筈がありません。

 「父よ御心ならこの杯を私から取り除けてください。しかし私の願いではなく御心のままに」とイエス様はこの時もう既にご自身の霊を神に委ねておられるのです。この「御心のままに」と言う祈りを捨てて「私の願い」に固執し始めると神の御心が見えなくなり誘惑に陥り、其れは神が父であることが見えなくなる時なのです。

 霊を父なる神に委ねられ、そして息を引き取られる。
 イエス様は生き方においても死に方においても私達の模範なのです。そのように生きそのように死ぬ、委ねる死に方です。私達には委ねられる方がいて下さるのです。
私達の命を造られた父である神は死においても父でいて下さり、命を取られるのは父である神であられます。全てを委ねている神の手がそれをなさるのです。死は自分の思うがままとはいきません。誰が死をもたらすのか。この時私達が陥りやすいのは運命の力とか宿命を信じるとかです。しかしそれは諦めでしかないのです。受難も復活も神さまの定めなのです。

 イエス様にとっての苦しみ、その中心になったのはまさに神様との絆が絶たれることでした。それに対して我々にとって、神様との絆が絶たれる事というのは、実はそれほど痛くも痒くもないことなのです。そうですよね。そういう我々だからこそ、神に委ねると言う本当の人間の幸せな安心な生き方を見失っているのではないでしょうか。あの愚かな金持ちのように。
 神様に命を委ねられるのはそこに絶対の信頼があり死に向かい合いながら望みを抱くことが出来たからなのです。

 神様は罪のために壊れた私達との関係をもう1度繋ごうと計画し代価を用意して下さったのです。神様は全部終わりにしてこの世界を新たに造り直してもよいのに私達を愛し憐み存続の道を取られました。親は自分の子供が弱くても見捨てません。何とか立ち直らせたいと尚更愛を注ぐのです。その愛がどれ程尊いのか気付けない、分かっていながら親「神」の愛を鬱陶しいとさえ感じ無視してしまう傲慢な私達なのです。 

 社会生活をする中で人が約束を交わす時保証人を立てるように言われます。銀行から融資を受けて債務者が返せなければ保証人が代わって返すのです。勿論借金が有ったなら保証人にはなれません、イエス様は何ひとつ罪を犯されなかったのです。人間が負うべき責任を全て保証人が負ったのです。
保証人になりあらゆる罪を帳消しにして頂いた私達はどの様に生きるべきでしょうか?誰かに死ぬ程愛されたならどうでしょう!此れが主と私の関係なのです。この事を学べて命の大切さが分かり生きる意欲が湧き上がって来ました。

 主は私と私の家族が絶望の底にいた時逃げ道が何処にも見つからなかった時、救うために出来る限りの全てをして下さった事が今だから分かります。祈ることも勿論委ねる事もできず立ち尽くすしかない私に何度も手を差し伸べて助け出して下さったことも今だから分かります

 ある時信仰の先輩との会話で「主が私達をなんとか導きたいと願っていて下さるのよ、あなたも同じ」と言われたのです。心の中心にイエス様を迎え神様に委ねられたところから出て来た言葉がそこにあったのです。委ねる事が難しいと苦戦している私に何とか伝えようとの先輩の思いを感じ同時に主の強い導きを感じました。
それまでは、「委ねる 頑張らない」の言葉が体で感じられず説教の言葉が外側に流れ焦り解りたいと強く望んでいました。諦めそうになっていた私に、改めてイエス様が答えてくださったような気がします。

 私の足りないところは主を心の中心にお迎えしていない事でした。もっと積極的に真剣に丁寧に主のお側に寄ること。信じることも、頼ることも、祈ることも足りていませんでした。
 神に委ねるとは十字架でイエス様が示されたように神様を信頼し神様に祈ることだとこの学びで知りました。それが頑張らないにも通じるのだと解りました。迷う決断を迫られた時はイエス様どうすれば良いですか?と助けを求め祈ることだと思いました。
 学んだ言葉から意味が理解出来た事でイエス様との距離も近くなりやっと今までの自分が赦されたと感じられました。イエス様の心を受け御心を探しながらイエス様を自分から不在にしないよう注意を払いたいと思います。

 川崎先生から「委ねるしたたかさを持つ」と教えて頂き「神様に遠慮しないで打ち明け甘えて良いんですよ」と言われた気がしてホッと肩の荷を下ろせました。「死」とは神様から安心を頂く事と思いました。

祈り この学びに感謝し御名を讃えます。アーメン

 


 

2020年4月9日(木) 洗足の木曜日

「私たちの渇きを負って」

中村 慎太

ヨハネによる福音書 第19章28節

 「渇く」。

 十字架に架かられ、息を引き取られる直前に、主イエスはこう言われます。

 「渇く」というこの言葉から、まず私たちは主イエスの十字架の苦しみがどれほどのものだったかと思い巡らします。

 主イエスは、裁判の時、むち打ちによって痛めつけられました。ゴルゴタの丘の上まで、自らが架かる十字架を背負われました。長い道のりであり、途方もなく重い仕打ちだったはずです。

 そして、十字架に磔にされました。乾燥した土地です。しかし、死刑にされた者として、水が差しだされることもなかったでしょう。

 十字架の上で、主イエスは息を引き取られるまで、数時間があったでしょう。そして、息を引き取るその時に、主イエスは言われたのです。「渇く」。

 私たちが経験する渇きの、どん底まで、主イエスは渇いてくださった。私たちがこのみ言葉を聴くとき、まずその事実が突きつけられます。

 ただし、私たちはこの「渇く」を、ただの主イエスの苦しみの表明として聴くだけではありません。この一言には、さらに深い、主イエスの思いが込められています。

 ヨハネによる福音書に聴き続けると、主イエスが何度かこの「渇く」という言葉をお用いになっていたことが知らされます。主イエスはその地上の生涯において、この「渇く」という言葉を用いて、人々に主の御心を示していました。それは、「渇いている人は、わたしのところに来て飲みなさい」という招きの言葉でした。

 サマリアの井戸にて、ある女の人と話をしていた時、主イエスは言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。ヨハネによる福音書第4章の出来事です。

 さらに、主イエスは繰り返し言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。第6章と7章において、そう主が言われた出来事があります。

 主イエスは、渇いている私たちに、わたしが与える水を飲みなさい、わたしを信じなさい、私のところに来て飲みなさい、と呼びかけ続けてくださったのです。

 そのように言い続けた主イエスが、十字架の上では、言われるのです。「渇く」。

 この「渇く」という言葉、新約のもとの言葉から日本語にすると、「わたしは渇く」と訳せるものです。日本語の訳によっては、そのように「わたしは渇く」と訳するものもあります。

 十字架の主イエスは言われたのです。「わたしが渇く」のだ、と。あなたたちが「渇く」、のでも、誰かが「渇く」のでもない、と。この十字架の時、渇いてくださるのは、主イエスご自身だったのです。主イエスは、私たちが渇かないように、私たちに永遠の命に至る水を与えて、ご自身が渇いてくださったのです。

 このことは、聖書の旧約からも示される出来事でした。今日私たちが聴いたヨハネによる福音書第19章28節では、「渇く」という言葉が言われたことに続けて、こう記されていました。「こうして、聖書の言葉が実現した。」

 主イエスが渇いてくださったことは、聖書にすでに記されていたことでした。

 十字架の主イエスを預言するようにうたわれた旧約のみ言葉に、詩編第22編があります。その中に次のような言葉があります。どうぞお聴きください。

 「雄牛が群がってわたしを囲み バシャンの猛牛がわたしに迫る。 餌食を前にした獅子のようにうなり 牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。 わたしは水となって注ぎ出され 骨はことごとくはずれ 心は胸の中で蝋のように溶ける。 口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」

 詩編第22編13節から16節のみ言葉です。この中にも、敵に囲まれ迫害されること、水となって注ぎだされること、渇いて、そして死に打ち捨てられることが、うたわれているのです。

 聖書のみ言葉を深く味わうことで、主イエスが渇いてくださったことが私たちにとってどういうことだったかが、より一層知らされます。主イエスが渇いてくださったのは、私たちに永遠の命に至る水を注がれるためであった、そして、その主の御心は、十字架の時のはるか前から、既に計画されていたことだったのです。

 主イエスの「渇く」という言葉、それは、主のご計画が達成されたことを表す言葉だったのです。主イエスは、そのご計画が今や成し遂げられたことを知って、「渇く」と言われました。私は、その「渇く」という言葉は、ただの弱弱しい苦しみの言葉ではなかったと思います。私たちを愛して、この上なく愛し抜かれた主の、勝利宣言のような言葉でもあったと思うのです。

 私たちには、渇きがあります。病の中で、肉体的に渇くこともあるでしょう。あるいは、霊的に渇くことがあるでしょう。祈り求めつつも、信仰の群れとして一堂に集まって礼拝をささげられない。聖餐を祝うことが、長くできない。

 私たちの群れのうちで、学業や世の務め、肉体の衰えなどで、礼拝の場に集えない時があります。そして今この信仰の群れ全体が、感染症の影響で、礼拝をいつものようにささげられない状況にあります。さらに、聖餐に至っては、どうでしょう。月一度第一週に聖餐を祝い続けた鎌倉雪ノ下教会としては、ここ2カ月聖餐を祝えないという、かつてない状況にあります。

 私たち鎌倉雪ノ下教会の群れが今抱く霊的な渇きは、かつてないほど大きいものなのかもしれません。

 今晩も、本来なら、主イエスの受難の歩みの中で、弟子たちと夕食を共にした出来事を覚えて、礼拝をささげるはずでした。聖餐をお定めになった出来事を心に抱きつつ、主の食卓を囲み祝うはずでした。

 しかし、私たちは今日それができない。

この時こそ、私たちは霊的な渇きを、抱くでしょう。

 しかし、そのような時だからこそ、私たちは知らされるのです。渇く私たちのために、主イエスは十字架に架かってくださったのだ、と。私たちの代わりに、どこまでも渇いてくださったのは、主イエスご自身だったのです。そして、それが、主の御心であり、ご計画だったのです。

 そのように渇いてくださった主は、私たちを、渇きではなく、永遠の命に至る水が流れる源と成してくださった。その十字架と復活の勝利が、既に起こっています。

 主から離れ、信仰において、霊において、渇いてしまう私たち。罪の結果の中、死を前にして、肉体においても渇く私たち。その私たちを、主イエスは招いてくださった。ここに来て、わたしの水を飲みなさい。渇くものではなく、渇かないものとなりなさい、と呼んでくださった。そして、私たちが渇く以上に、渇いてくださった。十字架の上で。 その十字架は、主の御心の成就で、主イエスの勝利です。 私たちは、この困難を乗り越えましょう。私たちのために渇いてくださった主を思いながら。そして、来る時に必ず迎えられる主の食卓を、待ち望みつつ、目指しましょう。この鎌倉雪ノ下教会で、皆で共に主の食卓を祝える時を、そして、再臨の主イエスが救いを完成させてくださる時を待ちましょう。勝利の主によって、その食卓に招かれる時のことを、祈りつつ待ちましょう。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク