2020年3月29日 主日礼拝

「あなたは、わたしに従いなさい。」

上野 峻一

ヨハネによる福音書 第21章15-25節
創世記 第22章1-19節

 

 「あなたは、わたしに従いなさい。」主イエス・キリストご自身が、福音書で最後に語られた言葉です。今日の礼拝で大切なことは、今、そして、これからも、私たち一人ひとりに、主イエスが、「あなたは、わたしに従いなさい」と語られ、語り続けられるということです。

 先日、ある方が、「上野先生の雪ノ下教会での最後の説教の題は、『あなたは、わたしに従いなさい』でしたね。先生に従うのですか」というようなことを言われました。私は、慌てて、すぐにそれを否定しました。もしも、そんなことをいう牧師がいたら、カルトの教祖です。教会は、いついかなる時も、神さまに、主イエス・キリストに従わなければなりません。それは、牧師もまた、長老も、そもそもイエスさまを救い主として信じて洗礼を受けたキリスト者であっても、決して完璧であって、過ちを犯さないというわけではないということです。鎌倉雪ノ下教会に着任して、本当に畏れをもって受け止めたことの一つは、牧師が、まるで聖書のことをすべて知っていて、誤りのない者かのように、牧師先生から学ぶというような姿勢でした。それは、ある意味ではよく教育された、どれだけ若い伝道者であったとしても、主なる神さまから遣わされた者として受け止める信仰者のあり方でした。もちろん、そんなことは、言ったことはないですが、もしも、私が「あなたは、わたしに従いなさい」と言ったら、きっと雪ノ下教会の皆さん「はい」というような印象でした。ところが、私が鎌倉雪ノ下教会に着任して間もない頃に聖書を教えていた東京にある某女子校では、まったくもって逆でした。もちろん、そんなことは、言ったことはないですが、もしも、私が「あなたは、わたしに従いなさい」と言ったら、きっと「はあ?!」と、激しい迫害と非難の嵐が起こっていたはずです。このことは、それぞれ、何とも恐ろしい話のように思えます。

 「あなたは、わたしに従いなさい」という御言葉は、この世界で、ただお一人、主イエス・キリストにしか語ることを赦されていない言葉です。「わたし」というところには、神さま以外、誰の名も入れてはいけません。この御言葉の「わたし」に、主イエス・キリスト以外の他の名が入るから、私たちの人生はめちゃくちゃになると言ってもいいです。教会なら尚のことです。そこに、主イエス・キリストの名以外は、決して入り得ないのです。「あなたは、神に、主イエス・キリストに従いなさい。」

 そのように、主イエス・キリストに従う者たちは、何よりもまず、神を礼拝するということをします。今日も、聖なる日、主の日、日曜日なので、このように礼拝をささげています。けれども、その礼拝の仕方が、明らかに、いつも通りではありません。今日という日も、どれだけ多くの人たちが、教会堂に集まって礼拝をささげたかったにも関わらず、それが適わなかったということを思うと、本当に苦しくなります。「あなたは、わたしに従いなさい」という主の御言葉に聴き従うからこそ、その痛みがあります。今、世界各地において、猛威を振るっている新型コロナウィルスが、一体どのような意味があるのか。神さまの御心はどこにあるのか。問わずにはいられない状況を、私たちはそれぞれの生活において思わされています。今も、その病で苦しんでいる者や、愛する家族や大切な人を失った人の苦しみは、私たちの想像を遙かに超えています。そのような状況にあって、教会もまた、いつものような皆で一つところに集まってする礼拝は、中止せざるを得ない教会も出てきているのは事実です。日曜日に礼拝をささげられないことの痛みや苦しみを感じている人は、本当に大勢います。もちろん、主を信じてない人にとっては、日曜日の礼拝は、「そこまで言うほどに大事なのか」と思うかもしれません。しかし、「あなたは、わたしに従いなさい」という主イエス・キリストの御言葉に聴き従うことは、人生において、他の何より優先して最も大切な生き方です。礼拝は、その中心です。

 「あなたは、わたしに従いなさい。」この御言葉は、私たちに一人ひとりに語られている言葉だと言いました。ただし同時に、聖書では、イエスさまが一番弟子のペトロに語っておられます。教会に通っている方で、キリストの弟子ペトロの名前を知らない人はいないと思います。他の福音書を読むと、ペトロは、元漁師で、結婚もしていたことがわかります。初めてイエスさまと出会った時、ペトロは、まさに「わたしに従いなさい」という言葉に聴き従って、イエスさまについていきました。それから、約三年間、イエスさまとずっと一緒にいました。本当に家族のような、いや、文字通りすべてを捨てて、イエスさまに従っていたから、家族以上の時を過ごしてきてきたかもしれません。イエスさまから、本当にたくさんの神さまの話を聞いて、多くの奇跡を目の当たりにし、自分自身も奇跡を経験しました。そのようなペトロでした。しかし、イエスさまが捕らえられ、十字架で殺される直前、ペトロは、イエスさまを裏切ります。ペトロは、主イエスが捕らえられる最後の夜、他の弟子たちの前で、「みんながつまずいても、わたしは大丈夫だ」「あなたのためなら命を捨てる」とまで言ったにも関わらず、いざ、主イエスが捕まり、連れていかれると、ペトロは、主イエスを三度、つまり絶対に知らないと言います。

 主イエス・キリストが、「あなたは、わたしに従いなさい」と言われるのは、そのようなペトロに対してです。先生であり、友であり、家族である本当に親しい関係にあったにも関わらず、その人を一番大事なところで、命にかかわる決定的なところで、裏切るような相手、ペトロに主イエスは、「あなたは、わたしに従いなさい」と言われました。普通に考えたら、おかしな話です。絶対に許せないと思います。ある時、学校の授業で、「普通なら、ペトロのような裏切りは許せない」という話をしたら、「え、だって、イエスさまは、三日目に復活しているから別にいいじゃん」と言われました。うーん、半分正解。でも、いや、よくないです。復活しているなら、尚更、主イエスは、直接、ペトロや他の弟子たちに対しても、恨みつらみを言ってもよかったはずです。折に触れて、ちょいちょい小石を投げるように「ま、あの時、君は裏切ったけどね」的なことを言ってもよかったのです。そういうのは、まったく赦してないと思いますが、そういうことをされてもおかしくない裏切りをペトロはしたのです。「あなたは、わたしに従いなさい」ではなくて、「あなたは、わたしと関わるな」というのが、聖書を離れた世界での考え方です。ペトロも、最初は、きっとそのように考えていました。それが、イエスさまが、ペトロに言われた「わたしを愛しているか」という問いにあるやり取りに表れています。

 「わたしを愛していますか」と問われたことはあるでしょうか。良いか、悪いか、もしくは覚えていないか、恐らく、私にはそういう経験はありません。ただし、先程、少し話した東京タワーのよく見える某キリスト教学校の卒業生たちに会うと、決まって、どこかのタイミングで「だって、上野しは、私たちのこと大好きだもん?」と言われます。絶対に「いいえ」とは言えない問われ方です。仮に「はい」と言わなかったとしても、既にそういうことになっています。しかし、それは、ある意味では、愛していることが伝わっているからこそ言える言葉かもしれません。ところが、イエスさまは、「わたしを愛しているか」とストレートに問われます。これは、お互いにとって、とてもハラハラ・ドキドキする質問です。ものすごい緊張が起こります。もしこの説教を聞いている方で「わたしのことを愛しているの?」と聞かれたことのある人は、それは恐らく「修羅場」であったことに間違いはないでしょう。繰り返しになりますが、残念ながら、私にはそういう経験はありません。イエスさまとペトロも、ここで、かなり決定的な修羅場を迎えています。ヨハネ福音書の最後の最後にです。実は聖書の学者たちの多くが、ヨハネ福音書の第21章は、最初のヨハネ福音書が書かれた時にはなかったのではないかと言います。けれども、第21章は、ヨハネ福音書において、欠かすことのできない重要な出来事です。

 イエスさまは、一度目に言われます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」ペトロという名前は、「岩」という意味をもってして、弟子となったペトロにイエスさまが付けた名前です。それに対して、ヨハネの子シモンというのは、ペトロの元々の名前です。ある意味で、弟子になる前、初心に立ち返るような呼び方とも言えます。この呼びかけにも、ペトロはドキッとしたはずです。さらに、「この人たち以上に」と言われます。今日の個所の前では、ご復活されたイエスさまは、弟子たち皆で食事をしています。「この人たち以上」というのは、「他の弟子たちよりも」ということです。恐らく、十字架を前にして、イエスさまを裏切る前のペトロであるならば、「はい、もちろん、わたしは、他の誰よりもあなたを愛しています」と答えたでしょう。しかし、ペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」「他の弟子たちよりも」とは、明らかに言えないペトロの想いがありました。それは、自分はイエスさまの一番弟子であると思っていたペトロには、どうしても気になる弟子がいたからです。いや、客観的に、他の人たちからみても、ペトロは明確に、弟子たちのリーダーでした。ペトロ自身も、きっとそうであるとは思っていました。けれども、ペトロには、いつも頭をチラつく一人の弟子がいました。それが、「イエスの愛しておられた弟子」と呼ばれる弟子です。

 この「他の人のことが気になる」ということは、「あなたは、わたしに従いなさい」という主の御言葉に聴く時、本当に大きな障害となり得ることです。新型コロナウィルスの感染拡大防止、外出自粛要請によって、今日はこのようにライブ動画配信によって礼拝をささげていますが、「実はここに何人かの教会の方がいます」と言うと、今画面を前にしている方は、急に思うわけです。「え、それは一体、誰?」百歩ゆずって長老ならばいいけど、なぜ他の人が礼拝堂に入っているのだ。誰が、教会堂に入るのを許可したのか。牧師たちや長老たちに特別に思われているあの人では?!とか、思ってしまうわけです。私たち人間は、他の人のことがものすごく気になる生き物です。それゆえに、今回のコロナウィルスでは、全然根拠のないトイレットペーパー買いだめ事件とかが起こりました。自分の家には、ちゃんとストックがあるのに、他の人のことが気になり、それが不安になり、一応、買っておくかとなります。もちろん、人間は、人の間と書いて人間だとか、人は一人では生きていけませんとか、そんな言葉もあります。また反対に考えれば、他の人のことを気にして生きていかなければ、世の中、生きていけません。そんなこと、おかまいなしで生きていたら、社会の迷惑か、空気の読めない人と思われます。

 しかし、そのことが、イエスさまが言われる「あなたは、わたしに従いなさい」という御言葉に聴き従う時には、「他の人のことが気になる」という人間の特性を、ある意味では乗り越えていかなければなりません。それは、他の人との関わりをもつなとか、愛の業や他者への配慮の欠けた生き方をするのではなくて、何よりもまず、主イエス・キリストと「あなた」との関係がどうであるかということです。

 ペトロは、イエスさまを裏切ってしまったという事実を、恐らくずっと引きずっていました。それは、「イエスさまは三日目に復活しているから別にいいじゃん」という結果の話ではなくて、主イエスとペトロとの関係の問題です。だから、ペトロは、イエスさまが三度目も「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなります。一度目の「この人たち以上に」ということにも、ペトロは答えることができません。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」としか言うことができなかったのです。これが、ペトロの精一杯の答えでした。「イエスさま、わたしはあなたを裏切りました。それに、あなたには愛しておられるあの弟子がいるでしょう。きっと、その人の方が…」と、ペトロの心にあった気持ちであるかもしれません。けれども、そのようなペトロの心さえも、主イエスは、すべて知っていてくださり、「わたしの羊を飼いなさい」と言われます。イエスさまの愛に対しても、答えることのできないペトロの現実を突きつけられて、尚もペトロにご自分の羊を任せるというのが、イエスさまがペトロに対して示した答えでもありました。イエスさまの羊とは、イエスさまが、自分の命をかけてまでも愛し、守り、大切にしたものです。キリストの弟子、牧者が、神さまの羊である教会の群れを任された出来事とも言えます。イエスさまを裏切ったペトロが、今度こそ、ここにおいて、決定的な場面で「わたしの羊を飼いなさい」はっきり言っておくと大事なことを言われます。それは、本気で全力で「命」をかけて、主イエス・キリストに従っていくということです。

 先日、久しぶりに、献身者としての学び舎である神学校を訪ねました。そこで、献身してから10年という月日を知らされました。10年間、色々なことがあったと思い返しつつ、丁度10年前、献身する時、励ましの言葉として敬愛する牧師に言われたことを思い出しました。それは、「これから君にとって大事なのは『主イエスをどう愛するか』だね」ということでした。もしかしたら、神学校を卒業しても、その答えは曖昧なものであったかもしれません。けれども、主イエス・キリストの弟子は、すべてのクリスチャンは、弟子のペトロと同じように、主イエスに問われます。「わたしを愛しているか。」

ただし、この答えは、自分で見つけるものでも、努力して勝ち取るものでもありません。「はい、主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と、ペトロが、答えたように、主イエス・キリストが、私たちに主イエスの愛し方を教えてくださるのです。それこそが、「あなたは、わたしに従いなさい」という御言葉に示されています。実は、この「あなたは」という言葉の「あなた」は、聖書の原典のギリシャ語では強調されています。主イエスは、とても強い口調で「あなたは」と語られるのです。なぜなら、ペトロが、他の人、つまり、イエスの愛しておられた弟子のことを気にしていたからです。気になって、気になって、仕方がなかったのです。だから思わず聞いてしまいました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか。」ペトロは、振り向いて、イエスが愛しておられる弟子が着いてくるが見えました。気になるあの人が来たのです。勇気を出して、チャンスはここしかないと、こっそりと、けれども、はっきりとイエスさまに問いました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか。」主イエスは言われます。「わたしの来る時まで、彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。あなたは、わたしに従いなさい。」この力強い御言葉を前にして、ペトロは、きっともう主イエスに何も聞くまいと決心したはずでしょう。

 このヨハネ福音書が記された当時、恐らく、このイエスの愛しておられた弟子が、何らかの理由で地上の死が近づいていたのかもしれません。「死なない」というのは噂であって、主イエスが言われたことを正確に伝える必要があったのです。ペトロという主イエスの一番弟子は、伝説では殉教したとされています。主イエスがペトロに言われた「あなたは、若い時には、自分で帯を締めて、行きたいところに行っていた。しかし、年を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる」という言葉から、色々と想像されるわけです。ペトロがどのような死に方で、神に栄光を現すようになるのかを示そうとして、主イエスがこう言われたとなれば、尚のことです。それに対して、イエスの愛しておられた弟子は、主の名によって迫害される殉教とは、ほど遠い平安な伝道者としての歩みをしていたのかもしれません。しかし、そのどちらの弟子としての生き方であったとしても、それぞれの歩みが、「あなたに何の関係があるのか」と言われます。そして、ペトロでも、イエスの愛しておられた弟子でもなく、主なる神さまは、今「あなたは」と、つまり、私たち一人ひとりに問われます。他の人たちがどうであっても、「あなたに何の関係があるのか。あなたは、わたしに従いなさい。」何よりも「あなた」が、主イエス・キリストに従うことから、すべてが始まります。

 わたしたちは、他の人のことが気になります。いつも誰かと比較して、いつも誰かのことばかり見えてしまいます。私自身、一人の牧師として、鎌倉雪ノ下教会に仕えていても、そうだったかもしれません。いや、きっとそうでした。それが、あのペトロと同じ、悲しみにつながっていることに気づいてすらいませんでした。ペトロは、イエスさまに三度、「わたしを愛しているか」と問われた時、イエスさまは、わたしのことを、まだ赦してないのだと、きっとあの弟子の方が自分を愛していると思って、ただひたすらに悲しくなりました。もう自分は、ダメだなのだと、自分で自分のことが嫌になったはずです。「わたしの羊を飼いなさい」という言葉も耳に入らず、また何よりも、イエスさまご自身が、三度目に「愛しているか」と問われた言葉が、一度目と二度目の言葉とは違った「愛する」という言葉であることも気づいていなかったはずです。

 一度目にイエスさまが、ペトロに「わたしを愛しているか」と聞かれた時、イエスさまは「神の愛、無償の愛」とも言える意味の「アガパオ―」という言葉で問われます。ペトロは、それに対して「わたしがあなたを愛している」と、友愛という意味をもつ「フィレオー」という言葉で返します。ペトロは、ずっと神の愛、アガパオーではなく、フィレオーという友愛という言葉で答えます。けれども、イエスさまは、最後の三度目、アガパオー、神の愛ではなく、ペトロの言う愛という言葉と同じ、フィレオーという言葉に合わせました。このイエスさまの言葉の変更に意味はないという聖書の学者もいます。しかし、私は思います。主イエス・キリストは、ペトロという弟子の弱さも、罪も、神の愛のなさも、すべて知り、それを受け止めてくださったのです。ペトロは、それでも尚、悲しくなります。主イエスの深い愛と赦しに気づいていないからです。だから、本当に、本当に、悲しかったのは、実はペトロではなく、イエスさまご自身でした。その悲しみを引き受けて、ペトロのためにも、そして、あなたのためにも、つまり、私たち一人ひとりのためなされた出来事が、主イエス・キリストの十字架と復活です。

 今、私たちは、キリストの御苦しみを覚える受難節、レントの時を過ごしています。こんなにも、世界が痛んでいる、こんなにも、目に見えてわかる恐れや不安、悲しみや苦しみが溢れていることは、ここ何十年間なかったはずです。しかし、それでも尚、主イエス・キリストは、私たちを愛するがゆえに、その御苦しみを受けて、語ります。「わたしを愛しているか。」「あなたは、わたしに従いなさい。」この御言葉は、どのような時も、神が、私たち一人ひとりに語られる決して変わることのない真実の生き方を示す確かな神の言葉です。世界を思い、愛する人を思い、ただひたすらに、主イエス・キリストにあって、共に祈りをささげましょう。

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