2020年3月15日 主日礼拝

「教会とは何か」

川崎 公平

コリントの信徒への手紙一 第9章16節

 昨日、鎌倉雪ノ下教会長老会として、「新型コロナウイルスへの対応について(2020年3月14日)」という文章をまとめました。本日皆さんにも印刷して配布させていただきましたし、教会のホームページで読むこともできます。私個人の言葉ではなくて、鎌倉雪ノ下教会の、公の発言であると理解していただきたいと思います。その冒頭の文章を、改めてここで読み上げてみたいと思います。
 
 3月8日、私ども鎌倉雪ノ下教会は、主の日の礼拝を中止しました。何度思い返しても、苦しい決断です。教会のいのちが絶たれるかと思われるほどのことで、このようなことは、関東大震災のとき以来だと聞いています。今後も、私どもの礼拝生活がさまざまな形で制約を受けることは、やむを得ないかもしれません。それは教会にとっての歴史的な危機であり、神に召され、礼拝に招かれている皆さまひとりひとりにとっても、特別な試練であるに違いありません。しかし、このような時だからこそ、み言葉の力を信じ抜きたいと願います。御子イエスを死者の中から復活させられた神は、いかなる方法を用いてでも、教会にみ言葉を与え、これを生かしてくださいます。
 
 このような文章を私が書いたときに……この文章を直接筆を執って書いたのは私川崎なんですが、私が思い起こしていたのが、先ほど朗読したコリントの信徒への手紙一第9章16節の、伝道者パウロの言葉です。
 
 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。
 
 この「わたし」という言葉を、「教会」と言い換えてもまったく差し支えないと思います。「教会が福音を告げ知らせても、それは教会の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしたち教会は不幸なのです」。たとえ一度限りと言えども、主の日の礼拝を中止したということは、「わたしたち教会は不幸なのです」ということになるのだろうか。そうかもしれません。その上でなお、今朝私が皆さんと一緒に、丁寧に考え直したいと願っていることは、「教会とは何か」ということなのです。
 「教会とは何か」。教会のホームページにしか予告されていないことですが、今日の説教題を、「教会とは何か」としました。そして先ほど朗読したコリントの信徒への手紙一のパウロの言葉は、「教会とは何か」、そのことを非常に端的に言い表している言葉だと思うのです。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」。神は教会に、ご自身の言葉、すなわち福音をゆだねてくださっています。この鎌倉雪ノ下教会にも。教会は、そのために生かされています。その事実に根ざして、「そうせずにはいられない」、福音を語らずにはいられない、ということが起こります。「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」と言うほどに、教会のいのちは、神の言葉と一体となっているのです。
 今からほぼ80年前、1937年にドイツで、ある神学者が語った説教学の講義があります。1937年のドイツというと、第二次世界大戦は始まっていませんが、ヒトラーが既に大きな力を持ち始めていました。それに対抗するように、「われわれは神の言葉を説教することによって戦う」という姿勢を明確にした教会の集まりが作られていきました。ドイツ告白教会という名前をお聞きになったことがあるかもしれません。そのドイツ告白教会の神学校のような場所で語られた、説教学の授業です。
 なぜわれわれは説教するのか。ヒトラーの支配のもと、制度としての教会、秩序としての教会は残っても、本当の意味で教会が根絶されてしまうのではないかということを問いながら、なぜわれわれは説教するのか、ということから説き起こします。
 そこで、たとえば最初のところでこういうことを言います。われわれは、二千年前の昔話としてイエス・キリストを説教するのではない。聖書を研究して、昔々、あるところに、イエスさまという人がいました。こういうことをしました、こういう言葉を語りました、なんてことを説教するわけではない。われわれは、今ここに生きておられるキリストを説教する。二千年前のイエスさまになんか興味はないと言わんばかりの、たいへん激しい言葉です。イエス・キリストは、今ここに生きておられる。そのお方のことを語るために、教会は召されているのだと言います。
 しかも重ねて、こういうことを言います。われわれは、今生きておられるキリストを説教する。そして、そういうわれわれの存在がいなくなったら、その瞬間、キリストご自身もまたこの地上に存在することができなくなるのだ。これはたいへん大胆な発言であります。キリストは、今ここに生きておられる。そのキリストが、今ここで語られる。そのキリストのご臨在を担うのが、この教会という存在なのです。
 最初に申しましたように、ヒトラーの支配下で、非合法の神学校で、ひそかに語られた説教学講義です。そこでこの神学者は、はっきりと言うのです。いつか教会は根絶やしにされてしまうのではないか。教会が、見る影もなく没落してしまう日が、いつか来てしまうのではないか。そうだ。それは十分にあり得ることである。教会がなくなることはない、なんて言い張ることはやめようと言います。しかし冷静に考えてみれば、これは別に大胆な発言でも何でもないので、教会がなくなるかもしれない、そういう不安材料を数えようと思えば、いくらだって見つけることができるのです。教会が高齢化している。10年後、20年後、どうなるだろうか。私どもがそういう不安を隠し持っているところに、上野牧師の辞任という事態が生じました。鎌倉雪ノ下教会、これからどうなるんだ。そんな心配をしている脇から、今度は謎のウイルスがとんでもない悪さをし始めて……もしかして、何かが起こったら、全身防護服に身を包んだ作業員が徹底的にこの建物の中を消毒する。当然その間、この教会堂は立ち入り禁止になって、もちろん礼拝も中止。絶対にそんなことが起こらないことを願いますが、しかしそういう事態が明日にでも起こらないという保証はどこにもありません。
 けれどもこの神学者が、はっきりと、「神の言葉は根絶やしにされることがあり得る」と明言しているのは……教会の存在は、神の奇跡のわざでしかない。そして、神の言葉が聞こえるのも、ただひたすらに神の奇跡のわざでしかない。私どもは、ただひたすらに、神のわざを待つほかない。それ以外に神の言葉が聞こえる道はない。そしてそのために、神は、ご自身の教会を立ててくださって、過ち多く、弱々しい人間に、ご自身の言葉を委ねてくださったと言うのです。
 今、ここに来ることができない仲間たち、動画配信を通じて同時に礼拝をしている方たちのことも思いながら……今私も、ひとりの神の使者として、心から告げます。イエス・キリストは、今ここに生きておられる。そのことを告げる教会の言葉は、ただひたすらに、神からいただくほかない、恵みの言葉なのです。もう一度、繰り返します。「このような時だからこそ、み言葉の力を信じ抜きたいと願います。御子イエスを死者の中から復活させられた神は、いかなる方法を用いてでも、教会にみ言葉を与え、これを生かしてくださいます」。神の言葉に生かされる皆さまひとりひとりの上に、心より祝福を祈ります。お祈りをいたします。
 
 このような時だからこそ、あなたのみ言葉を待ちます。あなたの御子キリストが、今ここでも、私どもの礼拝を受けていてくださることを、私どもの望みとさせてください。主の知らぬ悲しみはなく、主の知らぬ悩みもありません。感謝して、主のみ名によって祈り願います。アーメン
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