2019年09月22日 主日礼拝説教

「父と子」

上野 峻一

ヨハネによる福音書 第5章19-30節
サムエル記上 第7章8-16節

 

 

 本日の新約聖書の第5章1節の前半以外、19-30節まで、すべて主イエスご自身が語られている言葉です。その中で、イエスさまは「はっきり言っておく」と、三回も言われています。この「はっきり言っておく」という言葉は、元々のギリシャ語では「アーメン、アーメン、レゴーヒューミーン」と言います。もちろん、イエスさまはアラム語を話していたとされますから、単純にイエスさまの口癖などとは言えないかもしれません。しかし、その言葉を、主イエスが口にされる度、そこに、続く言葉には、主イエスの深い思いがあると受け止めるべきです。「アーメン」というのは、お祈りや讃美歌でも最後に言いますが、「真に、本当に、その通り」という意味のヘブライ語です。ユダヤ人が使う旧約聖書のヘブライ語の言葉が、日本語の「カタカナことば」のように、そのまま新約聖書のギリシャ語に用いられています。恐らく、アラム語を話されていたとされるイエスさまでも、「アーメン、アーメン」と、大事なことを語り始めておられたのでしょう。

 今日は、「父なる神」と「子なる神であるイエスさま」について、主イエスご自身が、大事なことおして語られています。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」私などは、主イエスが「自分からは何もできない」と言われたと知ると、非常に驚いてしまいます。「何もできないって、イエスさま、あなたは、38年も病気である人を声をかけただけで癒されたじゃないですか。」そう言いたくなります。けれども、このことは、今日の聖書の最後の30節で、もう一度、語られます。最初と最後で「わたしは自分では何もできない」と、主イエスが、まさに父なる神さまと一つであることを明言されます。それは、19節に書いてあるように、子である主イエスは、どのような時も父である神さまのことを見て、何でも、その通りにしたということです。なぜなら、父が子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからです。「父は子を愛している。」それが、父が子にすべてを示し、父と子が一つであるという理由となります。父と子の愛による確かな関係が、ここにあります。

 「愛する」ということは、一筋縄にはいきません。色々な伝え方、方法があると言っていいでしょう。先週の説教では、「愛するとは、赦すこと」だと御言葉に聴きました。今日は、「愛するとは、示すこと」だと、主イエスは言われます。20節「父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。」子である主イエスは、父からすべてを示されました。「示す」とは、「見せる」ということです。隠さずにすべて明らかにされるのです。それは、信頼のしるしとなります。自分の大事なものやことを、隠さずにすべて見せることができるのは、信頼している、愛していることを伝える方法の一つです。そこには、深い信頼関係、愛による関係性があります。

 今日の聖書では、主イエスの口から、父と子の深い関係が語られています。私たちは、いつも説明を聞きたいと思います。主イエスが、子なる神であることを、論証して納得させて欲しいと望みます。確かに、主イエスが真の神であり、真の人であるという真理について、もっとよく知りたい、少しでもわかりたいとすることは大切です。しかし、主イエスご自身が、ここで語られたこととは、自分が神の子であることを論証したり、説明したりすることではありません。父と子との関係が「どれだけ愛によって深いものであるか」を伝えられたのです。父がすべてを示されたということが、父が愛しているという、その関係があることこそが、主イエスは神の子であることを明らかにします。そのようにして、父である神の権能が、子であるイエスさまに与えられています。父にしかなされないはずのことが、子においてもなされるのです。

 そのことが、今日の聖書で繰り返し語られる「命を与えること」と「裁きを行うこと」です。これら二つの働きは、ユダヤ教の伝統では、安息日にも続いて行われる全知全能なる神の働きとして理解されていました。まさに、神にしか許されない、神にしかなすことのできない働きです。この二つの働きを、主イエスが担われます。20節の後半では、これらのことより大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになるとも言われます。ここで言われる「より大きな業を子にお示しなったこと」それが、十字架と復活の出来事です。主イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架で死にて葬られ、陰府に下り三日目に復活されたことが、聖書が記し、教会が伝える「福音の中心」です。この出来事が、「神の愛」によってなされたのです。そこからすべてが始まりました。21節以下、「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切、子に任せておられる。」命を与えること、裁きを行うことの二つの働きです。この働きによって、父と子とは、神と主イエスとは、確かに一つであることを語られます。

 「はっきり言っておく。」24節、主イエスは、ここでまた、重要なことを語られます。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている。」さらに、ここでも、命と裁きです。興味深いのは、「死から命へと移っている」と、現在形で言われていることです。今、現在、既に主イエスの言葉を聞いて、イエスさまを遣わした神さまを信じている者が、永遠の命を得て、死から命へと移っているのです。もう「永遠の命」をもっているのです。実は主イエスが語られる命とは、二重の意味で考えることができます。永遠の命は、主イエスの言葉を聞いて信じる者に「今」「現在」与えられているものです。

 そのような「死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。」今日、三回目の「はっきり言っておく」と、主イエスが語られる御言葉です。「はっきり言っておく。死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」主イエスの声に聞いた者は、「生きる」のです。なぜなら、主イエス・キリストが、今ここで、この時も、私たちにも語っておられるからです。「あなたは、わたしの声を聞いて、神を信じて生きるのだ」と、主イエスが語られます。父なる神が、ご自身のうちに命を持っておられるように、子なる主イエスのうちにも命をもつようにされています。また裁きを行う権能を子である主イエスにお与えになったのです。ここでも、やはり再び「命を与えること」と「裁きを行うこと」の二つの神の働きを、子である主イエスがなすこととして言われます。繰り返し、父と子の関係の深さを伝えるのです。ひたすらに、「父と子」の関係、愛に根拠をもつ、信頼ゆえに、主イエスの働きがあることを語ります。

 本日の説教の題を「父と子」といたしました。今日の新約聖書を一度、読んだだけでもすぐ気づくように、また繰り返し伝えられているように、今日のところでは「父」と「子」が最もよく出る単語です。今日の第5章19-30節に記されている主イエスの言葉は、「父」と「子」という言葉が、まるで網のように張り巡らされるカタチで語られています。もちろん、この「父」と「子」というのは、これまで語ってきたように、父なる神さまと、子なるイエスさまのことです。けれども、私たちもまた、それぞれに「父と子」という具体的な関係をもって生きています。そして、時に、そのことが、かえって御言葉を妨げてしまうことがあるのです。本当の父親とは、父なる神さまを知り、神によってなされた「愛する」ということからしか知ることはできません。それは、何としてでも、何があっても、愛し、赦し、命をかけて私たちを救おうとする神の愛の出来事です。それが、御子イエス・キリストの十字架の贖いです。

 28節「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ。」その時、やがてすべてが終わる時、肉的な死を迎えた者たちは、主イエスの声に聞き、復活します。それは、父にゆだねられた神の働きをなすために、子なる主イエスがなさる「命を与えること」と「裁きを行うこと」のためです。私たちは思います。誰が善を行った者なのか、悪を行った者なのか。命を与えられる者か、裁きを行われる者なのか。そのことについて、私たち人間は、誰一人としてわかる者はいません。けれども、一つだけ確かなことがあります。それは既に、私たちには、主イエス・キリストによる救いが与えられているということです。神の愛は、もう今、現在、私たちのところへと確かに届けられています。だからこそ、子である主イエスによって、私たちは、神を父と呼ぶことができるのです。お祈りをいたしましょう。

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