2019年08月25日 主日礼拝説教

「この人に出会って」

上野 峻一

ヨハネによる福音書 第5章9b-18節
エレミヤ書 第29章10-14節

 

 今日の説教の題を「この人に出会って」としました。今日の新約聖書、ヨハネによる福音書第5章14節「その後、イエスは、神殿の境内で『この人に出会って』言われた」という箇所から取りました。ここの箇所にある「出会う」という言葉は、聖書が元々書かれたギリシア語では、「見つける」という意味です。「探し出す」というニュアンスがあります。主語は、イエスさまです。イエスさまが、「この人」を見つけ出して、出会ってくださったのです。今日の聖書は、その前のページ、第5章の続きです。イエスさまが出会った「この人」。それは、38年も病気で苦しんでいた人でした。第5章1節からは、この病気の人が、イエスさまによって癒された出来事が記されています。彼は、主イエスの「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」という言葉によって、それこそ、イエスさまの奇跡の御業によって、38年間も治ることのなかった病が癒されました。主イエスの言葉に従って、起き上がり、そのまま床を担いで歩いていきました。聖書は、「その日は、安息日であった」という言葉から、このひと続きの事件、その第二部を開始します。

 「安息日」それは、ユダヤ人たちの法律で定められていた休まなくてはならない日です。安息日という言い方は、旧約聖書が書かれたユダヤ人たちの言葉、ヘブライ語で「やめる」という言葉に由来します。安息日が定められて、その過ごし方や考え方の歴史は、色々とあります。けれども、イエスさまが、いつも、そこで問題にしているのは、ユダヤ人たちが、「安息日」という「ルールを守る」ことが何よりも大事と考えていたことにあります。この「安息日」、病を癒してもらった人は、自分をどなたが癒してくださったのか、実は知りませんでした。ただ、その方の言葉に従い、床を担いで歩いていただけです。ユダヤ人たちは、ルールに従って、何もしてはいけない安息日に、床を担いで歩いている彼を見つけて問いただします。「今日は、安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」そんなことくらい、恐らく床を担いで歩いている人もわかっています。けれども、38年も決して癒されることのなかった病気を癒されるような方が、「床を担いで歩きなさい」と言われたのです。病を癒された人が、何があっても、その方の言葉に従い続けるのは当然です。

 38年も病であって癒された人は、ユダヤ人から「床を担いで歩いている」ことを咎められました。その彼は、既にイエスさまと出会い、主の御言葉に従い、癒され、生かされたにも関わらず、主イエスが誰であるかを知りませんでした。彼が、ユダヤ人たち問われて答えたのは、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」ということでした。この病を癒された人自身が、自分を癒してくれた方が、どなたであるか知りたかったどうか、それは聖書に書いてありません。ところが、しばらくして、主イエスの方から、この人を見つけ、出会ってくださいました。なぜ、主イエスは、この人をわざわざ見つける必要があったのでしょうか。イエスさまには、彼に伝えるべきことがありました。見つけ出してまで、言わなければならないことがあったのです。それが、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」ということです。一見すると、この御言葉は、忠告、一歩間違えれば、脅しのようにさえ受け止められてしまいます。そう聖書を読んでしまうと、この忠告に反して、この人は、自分を癒したのは、イエスだとユダヤ人たちに密告しているようです。

 確かに、彼が、ユダヤ人たちに「知らせた」ことによって、イエスさまはユダヤ人から迫害され、やがては、イエスさまの殺害を企てていくことになります。しかし、病を癒された人は、主イエスを裏切るつもりで知らせたのでしょうか。イエスさまが、この人を見つけ出してまで伝えたことは、忠告や脅しだったのでしょうか。そうではありません。15節には「この人は立ち去って、自分を癒したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた」とあります。この「知らせた」という言葉には、「密告」というような否定的なニュアンスは一切なく、むしろ、この言葉が他の箇所で使われる時は、いつも肯定的な意味の「伝える、宣伝する」ということです。実は、病を癒された人は、イエスさまと再会して、いや、主イエスの方から彼を見つけ出してくださって、気づくべき何かがあったのではないでしょうか。この方が、私の病を癒されたのだ。この方こそ、わたしの救い主イエスさま。ユダヤ人たちに知らせたことは、密告や裏切りのようなものではなく、主イエス・キリストを証しする出来事であると考えることができます。だから、16節「そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた」のです。安息日に神の御業をなし続ける方、このような権威ある主イエスを証しする者たちが現われました。

 主イエスは、この病を癒された人に対して、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言われました。このことは、忠告や脅しでもなく、主を証しする者へと促す言葉となりました。主イエスは、何よりもまず「あなたは良くなったのだ」と、病が癒されたこと、そして新しい人生が始まったという救いの宣言をされます。確かに、目に見えて良くなった事実がありました。主イエスによって起き上がり、立ち上って、新しく歩み始めたのです。もう、罪を犯してはいけないのです。「もう、罪を犯してはいけない。」この言葉の意味するところは、解釈の分かれるところです。旧約聖書のユダヤ人たちは、「病は罪によって起こる」と考えていました。けれども、イエスさまは、病の原因は罪であるとは考えません。むしろ、ヨハネ福音書の第9章では、「病気は、神の御業が現われるためである」と語られます。そうであるならば、この「もう」「再び」「繰り返し」ということは、何を意味しているのでしょうか。ここまでの聖書にあって、この人がしてしまった過ちがあるとしたら、それは13節「しかし、病気をいやしていただいた人は、それが誰であるか知らなかった。」つまり、イエスさまに出会い、癒されたにも関わらず、主イエスが「どなたであるか」わからなかったということです。

 教会で語られる「罪」ということがわからない。「罪」と言われるには重すぎるなど、よく「罪」について問われることがあります。罪という言葉には、元々「的外れ」という意味があります。人間という生き物は、神さまの方へ向き、神さまのもとへと向かっていくべき存在にも関わらず、的を外してしまいます。神さまではない的へと大きくそれてしまうのです。主なる神さまを忘れ、神に背く、それが聖書で言われる罪です。そして、この人間が神さまから離れて生きる「罪sin」から、いわゆる「犯罪crime」とされる窃盗や人殺しが生じます。主イエスと出会っているにも関わらず、癒しと恵みのうちに生きているにも関わらず、主を知らないと生きていくことは、もっと悪いことが起こるかもしれません。これは、この人が、癒される前よりもっと悪い病気になるとか、もっと生活が苦しくなるとか、そういう話ではありません。主イエスがどなたであるか知らないならば、気づかないうちに、主なる神さまの救いの御業から、その愛か、ら滅びへと歩み始めてしまうのです。しかし、私たちが、決して忘れてはならないのは、この人にも、私たちにも、どのような人であっても、主イエス・キリストご自身から出会ってくださるということです。主イエスが見つけ出し、御言葉を語り、赦されるのです。そして、それは、「再会の喜び」であると言えます。私たちは一人ひとり、それぞれ主イエスとの出会いの真実を知らされ、自分が何者であるか、自分がどのように生きるべきか、いつも帰るべきところ、向かうべき方を目指していきます。私たちにもまた、必ず神の御子である主イエス・キリストとの出会いが与えられています。今も生きて働かれおられる主が、イエスさまが、私たちを見つけ出して、出会ってくださるのです。私たちは今日も、この方によって、主なる神さまが捜し求める、神に愛されている者としての歩みを始めます。お祈りをいたしましょう。

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