2012年12月23日 主日礼拝

「愛するために」 川﨑 公平牧師

 ルカによる福音書第10章25-37節

神の御子、主イエス・キリストの御降誕を喜びながら、その特別な祝いの礼拝のために神が与えてくださったみ言葉であると信じて、主イエスの語られた「善いサマリア人の譬え」と呼ばれる聖書の言葉を聴きました。ふだん私が日曜日の礼拝で説教いたします時には、ルカによる福音書を読み続けております。そのふだんの営みを、今日も変わらず、いつものように続けるだけであります。けれども神は、クリスマスの祝いに最もふさわしいみ言葉を、この教会に与えてくださったと、私は感謝しております。それはなぜかということは、今日のお話の中で明らかにしていきたいと思っております。
いずれにしても、この主イエスの語られた譬え話は単純明解、分かりやすいものであると思います。私がその筋を改めて辿り直す必要はまったくないと思います。こういう話を読むと、おかしな言い方かもしれませんけれども、主イエスという方は物語の天才だなと思います。とっさにこの物語をお語りになったわけで、しかもその即興で作られた物語を、一度聞いたら忘れることができません。それでもなお念のため、最低限の説明を加えるとすれば、ここで強盗に襲われて半殺しにされた旅人を見過ごしにした祭司、レビ人というのは、今で言えば、つまり、私のような牧師ですね。いずれも、見て見ぬふりをして通り過ぎました。けれどもそこになおひとり、サマリア人と呼ばれる人が現れる。このサマリア人という民族は、特に主イエスが地上に生きておられた時代、ユダヤ人(主イエスも律法の専門家もユダヤ人であったわけですが)との対立がたいへん厳しくなっていたと言われます。ですからこの譬えを聞かされた律法の専門家は、なぜここでサマリア人が出てくるのか、なぜこの男はこんな物語を創作するのかと、たいへん不愉快な思いになったに違いないのです。そして主イエスは明らかに、あなたも、あなたがたも、このサマリア人と同じようにしなさいと言われました。非常に単純な言葉です。議論の余地はありません。行って同じようにするだけです。けれどもまた、この主イエスの言葉があまりにも単純であり、率直であるために、さまざまな心の波が私どもの内に起こると思います。そういうことを考え始めますと、何時間語っても語り切れないような思いもいたします。おそらく私どもは一生かかってこの主イエスの語られた譬えを聴き続け、その意味を問い続ける。いや、むしろ逆に、この譬え話によって自分自身が問われ続けるのだと思います。
たとえばひとつ、こういうことがあると思います。自分のことで恐縮ですが、私が牧師になる前、神学校で牧師になるための準備をしておりました時に、夏期伝道実習というのをいたしました。神学生がひと夏の間、どこかの教会に遣わされて、牧師になるための実習・準備をさせていただく。略して夏期伝と申します。その夏期伝先の教会で、この主イエスの語られた譬えを説教したことがありました。その時私が行きました教会は、本来夏期伝というのは訓練を受けるための場所でしょうけれども、私を訓練してくれる牧師はおりませんでした。いわゆる無牧という状態です。それで困っている教会をひと夏ちょっと助けるという趣旨で行きました。まあ要するに、気楽なひとり暮らしで、空家になっていた牧師館に住みながら、自炊をし、説教の準備もするという、たいへんのんびりとした夏をそこで過ごしました。ある土曜日の夜遅く、翌日の礼拝でこのサマリア人の譬えを説教する準備をしていると、どうも外で喧嘩のような声が聞こえてくる。和歌山ですから、当然関西弁で、「こら、待てや」なんて怖そうな声が聞こえる。私も臆病者ですから、もうドキドキしてしまって、しばらく説教の準備などできなくなりました。とりあえず部屋の電気を消し、ブラインドの隙間から外の様子を窺った。幸いにして、すぐに騒ぎは収まったのですけれども、しかし万が一、朝になって出てみたら血だらけになって倒れている人がいたりしたらいやだな、などということまで考えたものです。そこで私がはっきり認めなければならなかったのは、そういう行動を取ってしまう自分を正当化しようとする心の動きです。「今、おかしなことに巻き込まれるわけにはいかない。明日は、わたしは神さまの大切なご用があるから。説教しないといけないから。〈善きサマリア人の譬え〉をね……」。これはどうも複雑な思いになる。こういうことはとても小さなことで、わざわざ皆さんに紹介するほどのこともないことです。けれどもそのような、本当に小さな生活のひとこま、ひとこまの中で、私どもが何を考えているのか、どういう姿を現してしまうのか。主イエスの物語が問うのは、そのことではないかと思います。
この譬え話には、それが語られた、具体的なきっかけがありました。ある律法の専門家が主イエスとやりとりをした。明らかに悪意をもって、主イエスを試そうとして、「永遠の命を受け継ぐためには何をしなければなりませんか」と尋ねた。そのための律法の急所とは何か。それは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛すること、また、隣人を自分のように愛することと」。主イエスは、「正しくお答えになりましたね」と言われました。そしてまことに単純に、「その通りに実行すればよいではないですか」と言われたのです。そのあまりに単純な答えに、この人もたじろぐところがあったのでしょう。「では、わたしの隣人とはだれですか」と問いを重ねます。なぜそう尋ねたのか。ルカははっきりと「彼は自分を正当化しようとして」と言います。
「わたしの隣人とはだれですか」と問うことが、なぜ自分を正当化することになるのか。これは、皆さんもすぐにお気づきになると思います。この人は要するに、自分の隣人を限定しているのです。愛さなければいけない隣人と、愛さなくてもいいそれ以外の人と、区別を教えてください。しかし考えてみると、これは非常に愚かな問いで、「わたしの隣人とはだれですか」。「愛さなくてもいい人もいますよね」と、結局、そういうことになるのです。突き詰めていくと、隣人なんかひとりもいないということにさえなるのです。「わたしの隣人とはだれですか」。この人は愛さなければいけない隣人、この人は愛するに価しないそれ以外の人……実はそれは、最初から愛でも何でもないのです。本当はただのひとりも愛し得ておりません。ただの自己満足です。
けれども、私どもはほとんど無意識のうちに、こういう問いを問い続けていると思います。「わたしの隣人とはだれですか」。自分なりに家族を愛し、隣人を愛し、皆さんも精一杯そのように生きていらっしゃると思います。しかし愛というのは、ひとつの面からいうと、私どもの全存在を無制限に要求するところがあると思います。そして無制限となると、それは、ちょっと、困る。そんなことをしたら自分の身がもたない。心がもたない。それこそ、いつか変な人に殴り殺されてしまうかもしれない。私どもは、愛の全能者ではないのです。生身の人間なのです。だから、「わたしの隣人とはだれですか」と、枠を決めるのです。しかし繰り返しますけれども、これは自己正当化の問いなのです。
おそらく私どもは、今日、このサマリア人の譬えを聴いてもなお、このような自己正当化を続けてしまうと思います。いやむしろ、ますます焦って、自己正当化の道を探し始めるのではないかと思います。そんなことを言ったって、と思う。主イエスの語られた、祭司、レビ人の姿を思い浮かべながら、自分はこんなことをしたことはないと考える人は、もしいたとしても少数ではないかと思います。この主イエスの譬えを聴きながら、むしろこの譬えを武器にして、あの人も愛に生きていない、あの人も隣人愛に生きていない、わたしはこんなに傷ついているのにと、他者を裁くためにこの譬えをお読みになる人も、少なくともここにはいらっしゃらないと私は信じたい。誠実な人間であればあるほど、この律法の専門家は、どうも自分に似ているということに気づかないわけにはいかないと私は思います。
私が鎌倉にまいりまして、3回目のクリスマスを迎えます。今年初めて私が経験したひとつのことは、鎌倉の友の会という集まりに呼ばれて、クリスマスの礼拝で説教させていただいたことです。この友の会というのは、今では家計簿とかお料理とか洋裁とか、そういうことで有名になっていますけれども、もともと羽仁もと子というキリスト者によって始まった、信仰的な志によって生まれた運動体です。私が鎌倉に来る前、信州におりました時から、クリスマスになると、よく友の会に呼ばれて喜んで説教をしたものです。今年初めて鎌倉の友の会に呼ばれて、その時に私は、こういうお話をしました。私が初めて友の会に呼ばれたのは、私が住んでいたのは松本でしたけれども、長野市にあります友の会でした。この長野の友の会のクリスマスの席に、共働学舎という集まりを始められた宮嶋眞一郎先生という方がご出席でした。羽仁先生の教え子のひとりで、当時既に86歳でした。今でも健在だと聞きます。共働学舎というのは、最近ではおいしいチーズとかクッキーが有名で、東京と北海道にもありますが、もともとは長野県の山中に、この宮嶋眞一郎という人が志を立てて、特に心身に障害を持つ人たちを集めて、農作業のようなことをしながら共同生活をする。共に生きる、共に働くということを大切にした信仰的な交わりです。私も長野県におりました時に、ときどき教会の人たちとこの共働学舎を訪ねまして、草取りのようなことをしたものです。
この宮嶋先生が、長野の友の会の席で挨拶をなさった。86歳とは思えない、などと言うと失礼ですけれども、その言葉の持つ迫力に、私はほとんど圧倒されたような思いがいたしました。宮嶋先生が羽仁先生にしつこく言われ続けたことがあった。「この国をよくするために、何かしろ」。もうひとつ、「本当の友になれ」。その羽仁先生の声が、86歳になっても耳元から離れないのだ。しかもこのふたつのことは、実はひとつのことだと言いたかったに違いない。自分なりに志を立てて、共働学舎というものを造って、いろんな人たちと一緒に生きてきたけれども、その働きがこの国をよくするために、神さまのお役に立っているかどうか。本当の友を造り得ているか、どうか。今もそのことを問い続けているのだと言われました。
「この国をよくするために何かしろ」。そのために大切なことは、「本当の友になること」。しかし、それが実は本当に難しいのだと言われました。なぜかと言うと、こういうこともおっしゃいました。本当の友を作らなければ、この国はよくならない。利害関係でつながる友ではだめだ。けれどもわれわれの友人関係というのは、どうしても利害関係になってしまう。それではだめだ。本当の友を造らなければ。利害関係というのは、つまり平たく言えば、いやな人とは友達になりたくないということでしょう。この人と一緒にいても自分が傷つくばかりだと思えば、なるべく近づかないようにしようということでしょう。自分の好きな人とだけ付き合う。けれどもそれは本当の友でも何でもない。宮嶋先生のその言葉は、教会に行っていない人たちも大勢集まる席でしたけれども、その場にいる人の心を打つ言葉になったと思います。「この国をよくするために、何かしろ」。「本当の友になれ」。
そしてこの宮嶋眞一郎先生が一番の愛唱讃美歌となさったのが、このあと私どもも歌います讃美歌121番であると聞きました。「馬槽のなかに うぶごえあげ、たくみの家に ひととなりて」と、これもひとつの言い方をすれば、クリスマスの礼拝において歌うべき歌だと思います。この、家畜小屋に生まれてくださった主イエスの歩みを、この讃美歌は、その第2節でこう歌います。
食するひまも うちわすれて、 しいたげられし ひとをたずね、 友なきものの 友となりて、 こころくだきし この人を見よ。
「友を作ることほど、難しいことはない」。そう語りながら、けれども主イエスは、われわれの友になってくださったではないか。利害関係を超えて。「この人を見よ」。すばらしい信仰の証しを聞いたと思いました。いったいそこで証しされた主イエス・キリストの恵みとは、何を意味するのでしょうか。
そういうことを考えながら、もうひとつ、鎌倉の友の会でお話したことがあります。それをここで繰り返すことをお許しいただきたいと思います。友の会を始めた羽仁もと子先生が、「子供之友」という子ども向けの絵雑誌を創刊なさいました。残念ながら、戦時中に国家の規制により廃刊せざるを得なくなったと聞きました。戦後にも「こどものとも」というものがありますけれども、それはその名前だけを引き継いだものです。この戦前、戦中に発刊されていた「子供之友」という絵雑誌の原画展のパンフレットをなぜか妻が所有しておりました。この「子供之友」の創刊から終わりまで、ずっと続いたシリーズがあったそうです。男女3組の子どもたちのキャラクターが出てきて、その子どもたちの名前が、上太郎・中太郎・下太郎、甲子・乙子・丙子(これは今の若い人には分からないかもしれませんが、昔、学校などで成績を「甲・乙・丙……」とつけたのです)。たとえばその原画展のパンフレットに紹介されていたのは、「おふろはいり」。「さっさと一人で じゅんじょよく はいれるようになった 甲子さん 上太郎さん」「あそんでばかりいて、のぼせてフラフラになってしまった 乙子さん 中太郎さん」「ああこう もんくばかりつけて ぐずぐずしていて とうとう かぜをひいてしまった 丙子さん 下太郎さん」。この上太郎・中太郎・下太郎、甲子・乙子・丙子というのが、よほど評判がよかったらしく、遂に「甲子上太郎會」という会が作られ、「甲子上太郎會のうた」という歌さえ作られたそうです。
甲子上太郎會のうた  羽仁もと子作 だれでもなれる丙子さん下太郎さん だれでもなれる甲子さん上太郎さん どつちになるか みんな甲子さんになりませう 勇氣を出したらおもしろい みんな上太郎さんになりませう フレー フレー 甲子さん 上太郎さん 甲子上太郎會が開かれる時は、どこでも、いつでも、この歌を歌ふやうにしませう。そのために羽仁先生につくつていただいたのです。
私は、いろんなことを思いました。たとえば、このパンフレットに、物理学者の湯川秀樹のコメントが添えられていて、甲子・乙子・丙子とか、この名前を見ただけで既に敬遠したくなる人が多いであろう、と言います。確かにそうだと思います。ちょっと露骨ですからね。反発する人が多いとは思います。ただ私は、これは正直な感想ですけれども、別に悪くないと思っています。「みんな甲子さんになりませう、みんな上太郎さんになりなりませう」。結構なことだと思うのです。ただし私がそこで考え込んだことは、なぜわれわれはこのような歌を敬遠するのでしょうか。なぜこういうキャラクターは、現代では反発を招くだろうと予想するのでしょうか。甲子さんと丙子さんは絶対仲良くできないと、どこかで思い込んでいるからではないでしょうか。上太郎と下太郎は友達にはなれないと、どこかで予想しているからではないでしょうか。けれども、聖書の教えるところ、下太郎くんと仲良くできない上太郎くんは、本当のところ、上太郎でも何でもないのです。そして私どもにとって一番難しいことは、さっさとひとりでお風呂に入れる上太郎くんと、文句ばかりつけてとうとう風邪をひいてしまうような下太郎くんが、友になることなのです。「本当の友になれ」。利害関係でつながる友ではだめだ。上太郎くんにとっては、下太郎くんと付き合ってもあまりいいことないですから。それでは困るのです。
今日は少しいろいろな話をするようですが、この善きサマリア人の話を読みます時に、私がほとんど反射的に思い起こしますのは、三浦綾子さんというキリスト者の書いた『塩狩峠』という小説です。少し不思議なことに、私はこの小説を中学生の時に読んだ。なぜかと言うと、学校(ふつうの公立の中学校です)の国語の授業で、先生がいろんな小説を紹介してくれる。なぜかその中に、この三浦綾子さんの『塩狩峠』がありました。なぜ公立の中学校でそんな小説を紹介してくれたのか。ある程度実話に基づく、ひとりの人の入信、そしてその後の信仰の歩みを語る物語です。この小説の中で、この主イエスの譬えがひとつの焦点となって浮かび上がってまいります。
いろんな経緯があって、遂にこの小説の主人公が洗礼を受けることを決心する。けれども、その時牧師に問われたことは、「あなたの罪が主イエス・キリストを十字架につけたことを認めますか」。いや、そんなことは身に覚えがない。そんなことをした覚えはない、と答えると、それでは洗礼を受けることはできませんよ、と言われてしまいます。そう言って、この牧師が、たとえば、こういうのはどうですか。聖書の中の、どの戒めでもかまいません、徹底的にその戒めに生きることを始めてみてはいかがですか、と提案します。その時に、この主人公が深く心を捕えられたのが、善きサマリア人の譬えであったのです。正義感の強い人です。先ほど私は、自分はこの祭司やレビ人のようにはならない、などと思う人は少数だろうと言いましたけれども、この主人公は、自分は決してそんな薄情なことはしないと考える。その時に自然に思い出したことは、自分の職場の友人のことで、同僚の給料をねこばばして、当然のごとく、くびになりそうであった。そうだ、今こそ俺があいつのために隣人になってやらなければ。そこで、一所懸命この友人を愛してみる。上司の家に一緒に行って、玄関の前で土下座して、どうか彼をくびにしないでくださいなんてことまでいたします。けれども、何しろ、同僚の給料に手を出すような下太郎ですから、どうもうまくいかない。感謝なんか一切しない。「善人面すんじゃねえ」という態度に出る。
そして、こういうところに三浦綾子さんという人の信仰がよく現れていると思いますけれども、まさにそのうまくいかないところで、この主人公は、洗礼の決心をするのです。
この教会でも洗礼を受ける人は、その前に長老会で、自分の言葉で信仰の言い表しをしなければなりません。この主人公もまた、教会の前で言い表すための信仰の告白の文章を書いた。その中で、(もちろんある程度フィクションでしょうけれども)具体的にこの友人のことを書いているのです。
「わたくしは彼を救おうとしました。だが彼はわたくしの手を手荒く払いのけるのです」。「わたくしの心は彼への憎しみで一ぱいに満たされてしまいました。そしてわたくしはやっと気づいたのです。わたくしは最初から彼を見下していたということに、気づいたのです。毎日毎日が不愉快で、わたくしは神に祈りました。その時にわたくしは神の声を聞いたのです。お前こそ、山道に倒れている重傷の旅人なのだ。……わたくしこそ、ほんとうに助けてもらわなければならない罪人だったのです。そして、あのよきサマリア人は、実に神の独り子、イエス・キリストであったと気がついたのです」。
ここに明確に現れている、イエス・キリストこそ善きサマリア人だという解釈は、教会の歴史において、古くからひとつの伝統を作ってまいりました。古くからある解釈ですし、現代でも多くの人が注目いたしますのが、33節の言葉です。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って……
ここに、「見て、憐れに思い、近寄って」という言葉が出てきます。主イエスの救いの出来事、神の憐れみの出来事を言い表すために、このルカによる福音書が、ここぞという時に繰り返し用いた表現です。たとえば第7章11節以下に、一人息子を失った母親を主イエスが見て、この母親を慰めてくださった、一人息子を返してくださったという記事があります。その時にも、「主はこの母親を見て、憐れに思い、そして近づいて」と言われるのです。「見て、憐れに思い、……そして近づいて」と言われます。ここに、主イエスの救いが凝縮して言い表される。もうひとつ、第15章20節、「放蕩息子の譬え」、「失われていた息子の譬え」と呼ばれる物語の一部です。長く父親の家を離れていた息子が、飢え死にしそうになって父親の家に戻る。その時、「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。主イエスにおいて、神のまなざしが私どもに注がれる。そこで、神の御心が激しく動くのです。そうしたら、神はもうじっとしてなんかいられない。走り寄ってくださいます。そのような神のみ心の動き、主イエスにおいて鮮やかに示された神の激しい心の動きを、主イエスはここでも、ひとりのサマリア人の姿に託して語っておられるのではないかと読むのです。「その人を見て憐れに思い、近寄って……」。私どもに近寄ってくださる神の憐れみは、二千年前、ベツレヘムにお生まれになった幼子イエスという姿において示されました。なぜ神が人となられたのか。なぜ御子イエスが、この地上に来てくださったのか。神の憐れみの心が動いたからです。
神の憐れみを呼び起こした、私どもの傷とは何か。本当の隣人になり得ない、本当の友になり得ない、私どもの愛の貧しさのことでしかありません。このような主イエスの譬えを聞いても、いや、聴いているからこそますます、ますます焦って自己正当化を続けて、ますます愛の傷を深くしてしまうのが私どもです。しかもその惨めさにも気づいていないのです。気付いておられたのは、主イエスだけです。主イエスを遣わしてくださった父なる神だけです。その自分の傷に気づいているであろうか。
この譬えについて、ほとんどすべての人が指摘することがあります。律法の専門家は、「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねました。けれども主イエスはその問いを言い換えて、「この人の隣人になったのはだれか」と問い直しておられます。そこに急所があると言います。このことについて、もうくどくど説明を加える必要もないと思います。「わたしの隣人とはだれか」という問いは、結局のところ、自分の好きな人だけを愛するという、都合のよい生き方の中にうずくまるところに行き着くのです。今、隣人を必要としている人のところに出かけて行って、その傍らに立つ自由はありません。まさに利害関係の奴隷です。それでもやむを得ず、割に合わない下太郎のために何かしてやらなければいけないとなると、苛立ちとつぶやきが生まれます。まことに不自由です。私どもは、愛するということにおいて最も不自由になるのです。けれども神は、私どもの隣人になる自由をお持ちでした。神は何の妨げもなく、何の不自由さもなく、自由に私どもを愛してくださいました。その神の愛を、今私どもも思い起こさせていただきながら、改めて主イエスは、「この人の隣人になったのはだれか」。あなたが、隣人になるのだ。その自由を得ているか。そう言われたのです。この自由を与えてくださるのは、神の憐れみ以外の何ものでもないと私は信じております。この神の愛に触れて、私どもも癒されるのです。あの旅人のように。
もともとこの譬えは、「永遠の命を受け継ぐ」という主題をめぐって語られたものです。そこに、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい」という答えが出てきました。そこで主イエスが、「あなたの答えは正しい」と言われた時、決して嫌味や皮肉を言われたわけではないと思うのです。「本当にそうだよ。あなたは正しく答えた。それを行え。そうすればあなたは永遠の命を得る」。主イエスはここで明確に、私どもに〈いのちの道〉を示してくださったのだと思います。あなたは愛によって生きる。愛することによって生きるのだ。愛を失うとき、あなたは死ぬ。死んではならない。愛の望みに向かって私どもを送り出してくださる主イエスのお言葉であります。逆に言えば、永遠のいのちの望みを失う時に、私どもは、この地上の利害関係のとりこになり、愛の望みに生きることができなくなるのだと思います。
しかもここで主イエスが示された愛のわざは、実は、デナリオン銀貨2枚を差し出しただけです。ただ一日、自分の旅を遅らせただけです。また自分の生活に戻って行きました。ある人はこの箇所について黙想を記しながら、実はこのサマリア人よりも、宿屋の主人のほうがよっぽど苦労したのではないかということを延々と記しています。そうかもしれません。それだけに、このサマリア人のささやかな愛のわざを主イエスが祝福していてくださることに心を打たれます。あなたも永遠の命に生きることができるのだ。ささやかな愛のわざに生きながら、私どもは、そのことを確信させていただくのです。けれども、どんなにささやかな愛のわざであっても、それを支えていてくださるのは、もう一度申します、この主イエス・キリストによって示された神の憐れみでしかないのです。神のまなざしが注がれ、憐れみが注がれ、走り寄っていただいた皆さんひとりひとりの歩みの上に、心より祝福を祈ります。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、もう一度新しく愛の志をみ前に立てさせてください。心から、あなたを愛することができますように。隣人を愛することができますように。あなたに愛されている自分自身を愛することができますように。恐れを捨てさせてください。人を裁く思いを捨てさせてください。幻想に過ぎない罪の力をかなぐり捨てることができますように。自由に、解き放たれて、今隣人のもとに赴くことができますように。いつも私どもと共に歩んでいてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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