2019年1月13日 主日礼拝説教

「故郷(ふるさと)」

上野 峻一

ヨハネによる福音書 第4章43-46節
創世記 第12章1-8節

 

 私たちは、誰しもが、必ずふるさとをもっています。それは、時を経て、生まれ育った場所から離れたり、新しいところでの生活を始めたりすると、より故郷への想いは強くなります。そのような「自分の故郷」をもつのが、私たちです。しかし、そのような、この地上の故郷、ふるさとに、私たちの本当の「居場所」があるでしょうか。もちろん、実家に帰れば、まだ自分の部屋がある。母校に戻れば、卒業生としての役割があるかもしれません。けれども、そこには、今の自分はいません。「故郷」には、過去の自分の思い出はあっても、今の自分の生活の場はありません。私たちの帰るべき、本来の自分がいるべきところは、どこでしょうか。

 主イエスにも、「故郷」がありました。それは、神の御子である主イエスが、私たちと同じ人となられ、真の人として、この地上においても「ふるさと」を持っていたからです。ヨハネによる福音書第4章の3節で、主イエスは、「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」とあります。主イエスは、二日の間、サマリアの人々のもとにとどまりました。そこで、多くの人たちが、主イエスの言葉を聞いて、イエスさまを世の救い主と信じます。そして、二日の後、そこを出発して、ガリラヤへと行かれます。ある説教者は、この43節から45節は、主イエスの宣教の場所が、サマリアからガリラヤへと移るつなぎの部分であるため、省略しても構わないという人もいます。けれども、私たちは、この非常に短いこの箇所から、主イエスの御言葉、主イエス・キリストご自身を知らされます。

 44節には、「イエスは自ら『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」と記されています。この御言葉は、他の3つの福音書にも記されています。また、聖書以外の当時の資料においても、主イエスが、この言葉を述べたことが伝えられているようです。つまり、「預言者は自分の故郷では敬われない」という、たった一言は、主イエスご自身が語られた御言葉として、多くの人々の記憶に強く残るものとしてありました。ところが、この御言葉は、解釈が難しいところです。主イエスが、ここで言われた「自分の故郷」とは、一体どこであるのか。普通に考えれば、ガリラヤのナザレです。しかし、そうなると、可笑しなことが起こります。主イエスが、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われているにも関わらず、45節にはこのようにあります。「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。」預言者が自分の故郷で敬われないはずなのに、故郷のガリラヤで歓迎されています。この聖書の矛盾は、一体どういうことなのだとなるのです。

聖書学者たちは、ヨハネ福音書が伝える主イエスの「故郷」とは、一体どこか。大きく2つの可能性を提示します。それは、ユダヤ説とガリラヤ説です。まずユダヤ説ですが、ヨハネ福音書では、そもそも主イエスの故郷は、「ガリラヤ」と考えるのではなく、神の民イスラエルの本拠地である「ユダヤ」と考えるべきだという意見です。主イエスは、第4章3節で、ユダヤを去り、ガリラヤへと向かわれます。ユダヤでは明らかに、敬われなかったのです。またヨハネの特徴として、「ユダヤ人」という言葉が多く出て関心の高さが伺えます。さらに、主イエスを十字架につける時も、その記述からわかることは、明らかに「ユダヤ人」たちの責任が描かれています。ユダヤ人たちは、一時は、イエスさまを信じるのですが、その言葉を聴いては離れ去り、徐々に主イエスに敵対していきます。神がご自分の民とされた人々がいる「ユダヤ、エルサレム」こそ、ユダヤ人でもある主イエスの故郷であるが、敬われることはなく、ガリラヤにおいては歓迎されるのだというのです。

 もう一つは、ガリラヤ説です。ただし、そうなると「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」ということと、故郷のガリラヤで歓迎されたという話のつじつまが合いません。その解決として、「ガリラヤの人たちが、イエスを歓迎した」との「歓迎した」という表現は、本当は受け入れていないことを表現した皮肉、あるいは、のちには拒絶することになることを含ませたものだと考えます。ガリラヤの人たちが、イエスさまを歓迎したのは、イエスさまのなさったことを「見ていたから」です。ヨハネ福音書の終わりは、復活の主イエスが「見ないのに信じる人は幸いである」と言われて幕引きがされます。また、この箇所の前に記されていたサマリア人たちは、主イエスの「言葉」を信じて、主イエスが世の救い主であるとわかったと言います。言葉を聴いて信じたサマリア人と、見て歓迎したガリラヤ人たちとが比較されています。イエスさまが言うように、やはり故郷のガリラヤでは敬われてはいないのだと言われます。

 この両方の説を丁寧に読むと、それぞれに納得できます。そのため、この短い箇所で問題になっている主イエスの故郷が、ガリラヤか、ユダヤか、ということは、未だに結論が出ていません。それだからこそ、少し自由に考えてみます。私たちが海外に出れば、故郷とは「日本」となります。鎌倉や逗子などの地名を答えることはありません。イエスさまの地上での故郷も、日本からすれば、パレスチナです。火星にいれば、地球です。つまり、ユダヤでも、カリラヤでも、どっちでもいいのです。「故郷」というギリシャ語の意味は、父祖の土地です。自分の父がいるところが、故郷、ふるさとという考え方です。ヨハネ福音書は、繰り返し、主イエスが、父なる神さまのところから来られたと伝えます(ヨハネ1:18や告別説教など)。つまり、主イエスの故郷は、父のもと、父なる神さまがおられる「天」にあるのです。実は、数少ないこの主イエスの故郷は、天にあるという説に立つ神学者として、英国オックスフォードの聖書学者ロバート・ライトフットがいます。彼は、ヨハネ福音書の注解書の中で、そもそも預言者とは何かと問いを投げかけます。主イエスが言われた「預言者が自分の故郷では敬われない」という預言者です。そして、ヨハネ福音書では、主イエスの言葉を通して、故郷が、父のもとにあることを伝えようしていると言います。

 もちろん、主イエスにとって、この地上における故郷も、大事な意味をもっています。「救いは、ユダヤ人から来る」とイエスさまが言われたように、神さまは、時と場所を定めて、私たちにイエスさまという世の救い主を与えてくださいました。ナザレのイエスは、この地上で生まれた場所、育った場所をもち、そこにいる人々と関わり、私たちと同じ地上のふるさとをもつ人として歩まれたのです。私たちは、ふるさとを懐かしみ、いつかそこに帰ることができるならと憧れを抱きます。けれども、またいつか、ふるさとへと帰ることができる人は、限られた人たちではないでしょうか。いや、誰しも、この地上のふるさとにおいて、永遠に生きられるわけではないのです。私たちは、いずれ死を迎えます。その時、私たちは、一体どこに帰って行くのでしょうか。私たちの故郷は、本当のふるさとはどこにあるのでしょうか。

 もう一度、主イエスがはっきり言われた「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」という御言葉に戻ります。そもそも主イエスが言われた「預言者」とは、一体、誰のことなのか。私たちは、無批判に「預言者は、主イエスご自身のことだ」と読んでしまいます。けれども、「自ら」という言葉は、必ずしも主イエス自身が「自分は預言者だ」と宣言した決定的な根拠にはなりません。むしろ、この御言葉は、主イエスが、私たちキリストの弟子たちに向けて語られていた言葉ではないでしょうか。人々は、イエスさまを「預言者」であると考えました。人々は、主イエスを偉大な預言者であると考えて、主のもとに集まり、その言葉を聞きました。その言葉には、未だかつてない権威があり、この人は一体何者であるかと問われます。私たちは、主イエスを何者であるというのでしょうか。主イエスを信じ、教会に集い、洗礼を受けた者たちは、キリスト者とされた時、あの日、あの礼拝で、主イエスを何者であると告白したのでしょうか。「主イエスよ、あなたはメシア、生ける神の子です。」

 確かに、主イエスご自身も預言者としての働きを担っておられたはずです。しかし、真の人であるけれども、真の神である方が、私たちの救い主、主イエス・キリストです。この方にこそ、私たちを罪と死から救う力があります。この方にしか、私たちを罪と死から救うことができません。父なる神さまのおられる天に故郷をもち、そこを「ふるさと」なさる主イエスが、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」「もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろう」と、私たちに約束してくださったのです。主イエス・キリストを信じる者たちも、その本当の故郷、本当のふるさとは、天にあるのです。そこには、帰るべき居場所が用意されています。だから、私たちは、今、この地上の歩みを安心して送ることができます。何も心配することなく、今与えられている時を、今与えられている場所で、今与えられている使命に、精一杯に仕えていきます。お祈りをいたしましょう。

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