2018年1月14日 主日礼拝説教

「あなたのことが知りたい」

上野 峻一

ヨハネによる福音書 第2章23-25節
ヨブ記 第7章17-21節

 今日の新約聖書は、3節という比較的、短い箇所でした。ヨハネによる福音書の第2章の最後の3節です。次からは第3章になります。ここの箇所は、一般的に第2章と第3章のつなぎの部分であると言われます。第2章で、イエスさまが「しるし」をなさって、第3章では、それを信じた人が、どのような言動をするのか。その間をつなぎ合わせるところです。今日の第2章23節では「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、」と始まります。過越祭は、8日間の祭りです。少なくとも、イエスさまは、一週間以上エルサレムにおられました。その間、主が何をなさっていたのか、その詳細は聖書に記されていません。しかし、続く記事には、「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とあります。イエスさまが、エルサレムに滞在されている間に、「しるし」と呼ばれることをなさって、それを見て信じたのです。ここで「しるし」と言われるものは、主がエルサレムでなさった「すべての業」を指すと言われます。ですから、今日の箇所の前の「神殿から家畜や商人を追い出す」こと、あるいは、水をぶどう酒に変えたような奇跡、言葉や振る舞いも「しるし」に含まれるかもしれません。ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変える「しるし」では、「栄光を現わした」とありました。「しるし」によって、神の栄光が現され、弟子たちがイエスを信じたのです。そして、主イエス・キリストがエルサレムでなさった「しるし」によって、恐らくキリストの弟子たちだけでなく、それ以外の多くの人々も、「イエスの名を信じ」ていきました。そういう出来事が当時のエルサレムでは起こっていたのです。

 多くの人が、「主イエスの名」を信じました。その存在を、その力を、しるしを見たことで、主イエス・キリストを信じたのです。24節「しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった」とあります。それは、イエスさまが、すべての人のことを知っておられたからです。このことを、私ども人間の関係において考えたなら、あまり心地の良い思いはしません。私どもが友人などとの関係で、自分は相手を信じているのに、相手が自分のことを信じてくれていなかったら、悲しい気持ちになるでしょう。何だか、一方通行の関係性のように思えてしまいます。自分も相手を信じて、相手も自分を信じてくれる。信頼関係とは、そういうものだと思います。ですから、どうしてイエスさまは、私どものことを信じてくださらないのかと言いたくなるのかもしれません。

 今日の聖書には、「イエスご自身は、彼らを信用されなかった」とあります。この信用という言葉は、その前の「イエスの名を信じた」と同じ言葉です、委ねる、任せるという意味をもちます。人々は信じたけれど、イエスさまは信じなかった。人々は主にゆだねたけれども、主は人々に御自分をお委ねにならなかった。それは、イエスさまが、人々のことを知っておられたからと言われます。すべてを知っているからこそ、あえて信じないし、委ねないのです。主が、私どもに、御自分を委ねることはありません。なぜなら、私ども人間のことをすべて知っておられるからです。私ども人間の心の中に何があるかを、主はよくよく知っておられるのです。信用されることは、嬉しいことかもしれません。信頼して欲しいと相手との関係を求めるかもしれません。しかし、もしそれに答えられない、自分自身を知っていたらどうでしょうか。その信頼や信用は、自分の重荷や苦しみとはならないでしょうか。決して勘違いしてはならないのは、主イエス・キリストは、相手を信じるとか、ご自分をゆだねるということを越えたところで、私どもを深く愛してくださっているということです。絶対に信じることができないような者を、決して自分を委ねることができない者を、一切の条件をなしにして、ただ私どもを愛するのです。これほどまでの、愛があるでしょうか。けれども、これが、神が私どもにお示しくださった神の愛です。

 しかし、私どもには、神の愛はないのです。それを、イエスさまは、すべてご存知です。人間について、誰からも証ししてもらう必要がないと言われるほどです。ところが、私どもは違います。イエスさまについて、神さまについて、聖霊について、どれだけ力を尽くしても完全に理解することなどはできません。それなら、知る必要なんてない。信じていれば、愛していれば、それでいい。そうかもしれません。けれども、愛するからこそ、知りたいのです。主イエス・キリストに従って、歩むからこそ、あなたを知りたいと願うのです。「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」この御言葉を聞くと、どのように思われるでしょうか。「何が心の中にあるのか。」もし、私どもが、イエスさまというお方を知らなければ、このことは恐ろしいものだと言うほかありません。もし、旧約聖書に記された主なる神しか知らなければ、私どもは神の怒りと裁きを畏れるしかありません。しかし、私どもは、イエスさまが、私どもを深く、深く愛しておられることを知っています。イエスさまを裏切り、主に従うことができない罪ある私どもを、御自分の命をささげてまで、愛してくださいます。そのようなイエスさまが、私どものすべてを知っておられるということは、何という恵みでしょうか。何という喜びでしょうか。この恵みと喜びのうちに、今ここにあるのが私どもなのです。

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