2018年10月14日 主日礼拝説教

「主イエスのもとへ」

上野 峻一

ヨハネによる福音書 第4章27-30節

 本日の説教の題は、ヨハネによる福音書第4章30節後半「イエスのもとへやって来た」という御言葉から取りました。第4章30節「人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」このようなことが起こったのは、どうしてなのか。一体、何があったから、人々がイエスのもとへやって来ることになったのか。聖書は、主イエス・キリストを証しする書物であると言われます。別の言い方をすれば、主イエス・キリストと出合った者たちが、「どのように、キリストを証言しているのか」ということです。このことは、聖書に記されている登場人物だけのことでありません。今この時代、イエスさまを救い主として信じる者たちは、現代における生きたキリストの証し人、証言者です。2000年前に十字架で殺されたナザレのイエスが、なぜキリストであると、どうして私たちの、この世界の「救い主」であると信じるのか。主イエス・キリストを知らず、キリストと出会ってない方々を前にする度、たとえ言葉にならなくても、いつでも私たちは、このことを問われているのではないでしょうか。

 今日の箇所には、一人の伝道者の姿が描かれています。ただし、本人は決して自分のことを「伝道者」などとは思っていないでしょう。普通の女の人です。聖書を読むとすぐわかるのは、この人は普通とは言えないような、もっと困難や課題を抱えていた女性であったことが伺えます。この女性は夫が5人も変わり、今連れ添っているのは夫と言うことができない人であると言われます。また本来は、数人のグループで朝夕に水くみに来るところ、人目を避けて一人で水くみに来ています。この女は「サマリアの女」と呼ばれる女性でした。サマリアとは「異邦人の土地サマリア」と言われるように、主イエスや弟子たちユダヤ人が、決して関わりをもたない人々が住むところでした。厳格なユダヤ教徒たちは、サマリア人に話しかけるどころか、目も合わせないようにしたと言われます。そのようなサマリアの女と主イエス何やら真剣に話をしています。27節「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのに驚いた。」それもそのはず、相手はサマリアの女です。そもそも、この時代、白昼堂々、女性と男性が話し込んでいる光景は見ることはありません。ある研究者によれば、ユダヤ人の男性は、女性とは通りで話をしてはいけなかったようです。弟子たちが戻って来て、それを見て驚いても無理はないことでした。

 27節後半「しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった。」弟子たちは、ユダヤ人である自分たちの先生が、サマリアの女と話をしている驚くべき場面を目の当たりにしても何も言わなかったと言います。「何か御用ですか」とか「何をこの人と話しておられるのですか」という記述は、本当はそう聞きたかった弟子たちの思いでしょう。けれども、何も言わなかった。いや、もっと正確に言うならば「言えなかった」のです。弟子たちは驚いて、本当は「何か御用ですか」とか「何をこの人と話しておられるのですか」と言いたかった。しかし、言えないような「何か」が、そこにあったのです。宗教改革者カルヴァンは、この弟子たちの沈黙には「神への畏れとキリストの崇敬の思い」があるとします。さらに、彼は弟子たちが、ここで「驚くこと」さえ間違っていて、弟子たちもまたサマリアの女と同じように、何の値打ちもない、惨めな人たちであり、言わば、社会の屑であるのに、このように名誉ある身分に高められたと言います。

 このような弟子たちとサマリアの女は、どこか重なるところがあったのではないでしょうか。28節「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。」サマリアの女は、「水がめ」をそこに置いていきました。水をくみに来たはずなのに、水をくんで帰ることが目的だったにも関わらず、彼女は「水がめ」をそこに置いて町へと帰って行ったのです。彼女は水がめを置いて町に行くほど、急いでいました。彼女は主イエスと出会い、主イエスによって、決して渇かない生きた水、永遠の命に至る水があることを知らされたのです。もう「水がめ」は必要ありません。その場にいた弟子たちは、水がめをそこに置いたまま町へ帰って行く女に、自分たちを重ねたはずです。なぜなら、彼らもまた主イエス・キリストと出会い、網を捨て、そこに舟と家族を置いたまま、主イエスに従った弟子たちでした。彼らだからこそ、主イエスと出会い、見た水がめを置いたまま町へと向かう彼女の姿を前にして、何も言うことはできなかったのでしょう。

 彼女は、町へ行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」「さあ、見に来てください」とは、「来て」「見なさい」との順番で2つの言葉からできています。「来て」「見る」ことでしか、決して知ることができないことがあります。サマリアの女は、ここで「メシアかもしれません」と、実に曖昧な仕方で伝えています。彼女は、実は自分自身でも、イエスさまのことを正しく証ししていないことを知っています。メシアとは何かも、よくわかっていません。しかしながら、それが、私たち人間ではないでしょうか。仮にイエスさまといつも一緒にいた弟子たちであったとしても、主イエスのことをわかってはいなかったのです。もし本当に、主イエス・キリストとは、どのような方であるか、神からの救い主とは何であるかを知っていたら、決して誰もイエスさまを裏切り、見捨てて逃げ去ることはなかったはずです。サマリアの女も、弟子たちも、そして、私たちも、本当のところは、主イエスのことをわかってはいない者だと言えます。

 けれども、それでも尚、大事なことがあります。サマリアの女が言った「わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます」という言葉には、「初めから終わりまで」というニュアンスがあります。つまり、これは「自分のことをすべて理解してくれた」という意味をもちます。彼女はイエスさまを理解していませんでした。いや、理解などできないのです。弟子たちもそうです。しかし、主イエスは違います。主イエスは、私たちのすべてを理解し、すべて受け止め、それでも尚、愛してくださるのです。サマリアの女は、このことを知りました。このことだけを知ったのです。私たちがする主イエス・キリストの証しというものは、いつだって不確かなものです。牧師だから、クリスチャンだから、と言って、神さまを、聖書を、主イエスを、完全に正しく伝えることはできません。もちろん、正しく伝えたいと真剣に願います。少しでも正しくありたいと、決してあきらめません。けれども、サマリアの女が、人々を主イエスのもとへと向かわせることができたのは、決して彼女が正確に主イエスを証しし、伝えたからではありません。

 主イエス・キリストと出会って変えられた彼女だからこそ、町の人たちを動かしたのです。恐らく、息苦しい生活をしていたでしょう。どこで自分は間違えたのか、どうしてこんなことになったのか、人目を避けて、後ろめたさや寂しさ、罪悪感の中で生きたことでしょう。誰しもが、どこかで不安になります。どこかに寂しさや、悩みを抱えています。しかし、そのような中でうずくまってしまわないのは、それでも尚、笑顔で明るくいられるのは、すべてを理解し、受け入れ、愛してくださる方がいるからです。主イエスがすべてを受け止めてくださるからこそ、自分でも赦せない、受け入れられないものを抱えながらも、心を高くあげることができます。神は、その独り子を、主イエス・キリストを、十字架につけるほどに私たちを愛されました。私たちが、主を知らなくても、主が私たちのすべて知っていてくださいます。

 町へと帰って行ったサマリアの女は、もうそれまでの彼女ではありませんでした。「さあ、来て見てください」と必死に伝える彼女は、まったく新しい人として、そこにいたのです。主イエス・キリストと出合い、生きた水を与えられた者として、そこにいたのです。彼女が求めたことは、ただ一つです。それは、彼女ができた精一杯のことでした。それが、ただ「主イエスのもとへ」ということでした。それさえすれば、他のことは何も心配しなくていい。私のことが信頼できなくても、いや、自分のような人間なんて信頼できないからこそ、むしろ、あなた自身の目で見て、出会って欲しいからこそ、「主イエスのもとへ」と、呼びかける彼女の姿がありました。この彼女は、きっと、これまでの彼女の人生の中で、一番輝き、魅力的な姿だったのではないでしょうか。そこには、確かに、キリストの香りを放つ、御言葉に生きる者の一人の愛された喜びを知る女性がいたのです。

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