2018年9月23日 主日礼拝説教

「神を礼拝する」

上野 峻一

ヨハネによる福音書 第4章16-26節

 

 主イエス・キリストと、サマリアの女との二人だけの会話が、聖書の約1ページに渡って記されています。そのような中で、今日の第4章16節では「イエスが、『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』」と、唐突に話が始まったかのようです。何の前触れもなく、イエスさまは、サマリアの女に「自分の夫を、ここに呼んで来なさい」と言われるのです。女は答えます。「わたしには夫はいません。」普通ならば、これで、この話題はおしまいです。恐らく時間にすると、ほんの数分前に初めて出会った人たちですから、それ以上、相手のことを知っているわけがありません。ところが、主イエスは、さらに続けて言われます。「『夫はいません』とは、まさにその通りだ。あなたには、5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」なぜイエスさまは、この女のことを知っているのか。素朴に疑問に思う不思議なことです。どうしてなのか、まったくわかりません。けれども、イエスさまが見事に彼女のことを言い当てたために、「主よ、あなたは預言者であるとお見受けします」と言います。自分のことをズバリと言い当てられる驚くべき出来事が起こりました。さらに、その内容は初対面の人に知られていて、決して心地が良いことではありません。しかし、だからこそ、サマリアの女は主イエスに対して問いかけます。サマリア人なら誰しもが疑問に思う、聞くことが憚れるような、本当に大事なことを尋ね始めます。イエスさまは、この問いに明確に答えられます。

 サマリア人とユダヤ人にとって、どこで礼拝をするのか、より正確に言うのならば、どちらの神殿での礼拝が、正しいのかということは重要な問いでした。けれども、ユダヤ人とサマリア人の間で、このことが話題になれば、結局どちらも譲らずに、言い争いになってしまうのは、わかりきったことでした。それを、サマリアの女は主イエスに問いかけます。19節「女は言った。『主よ、あなたは預言者であるとお見受けします。わたしどもの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。』」彼女は、ユダヤ人とサマリア人の問題の本質に触れました。なぜなら、イエスさまだからこそ、聞いてみたいと思ったのです。この方であればこそ、きっとこの質問にも答えてくださるに違いないと、彼女の思いは、確かに主イエス・キリストご自身へと向けられているものでした。そのようなことがなされたのも、彼女自身の生活に関わる深い問題について、主イエスが、すべてを知っておられたからです。「主よ、あなたは預言者であるとお見受けします。」サマリア人にとって、神の言葉である聖書とは、旧約聖書の最初の5つ、モーセ五書だけであったとされます。そこで記される「預言者」とは、すなわち、モーセです。それは、救いへと繋がる唯一の道であるとも言えます。その預言者だと思われる方が、今目の前におられます。ユダヤ人であるにも関わらず、私に話しかけ、私のすべてを知り、それでも尚、私と積極的な関わりをなさる方がいるのです。

 21節以下「イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でも、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは、知らないものを礼拝しているが、わたしたちたちは知っているものを礼拝している。救いは、ユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理とをもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。』」この山での礼拝が正しいのか、エルサレムでの礼拝が正しいのか、サマリアの女の二者択一の問いに、主イエスは第三の道を示しました。それは、ゲリジム山でもない、エルサレムでもない、まことの礼拝とは、霊と真理とをもって父なる神さまを礼拝することです。つまり、「どこ」ではなく、「どなた」を礼拝することが大事であるかを伝えます。そこに、神を知る本質があります。なぜなら、そこには人格的な関係があるからです。また何よりも、主ご自身が、この人格的な関係の中に、ご自分を置かれています。主イエスは、「父を礼拝する時が来る」と言われ、「あなたがたは、知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している」と続けられます。イエスさまにとって、神とは「父」です。独り子であるイエスさまを、世にお遣わしくださった父なる神さまです。主イエスこそ、誰よりも、私たちがどなたを礼拝すべきであるかを知っておられる方です。

 24節には「神を礼拝するものは、霊と真理とをもって礼拝しなければならない」とあります。この真理とは、真実と言い換えることができる言葉です。主イエスご自身が、「わたしは真理である」と言われたように、主イエスによって示される私たちの真実、自分自身の本当の姿ということができるかもしれません。サマリアの女は、主イエスと出会い、彼女の真実を知ったと言えます。彼女自身すら見たくない、人には隠したい「真実」に気づかされることになりました。イエスさまと出会わなければ、気づかずに過ぎていく生活でありました。けれども、彼女は主イエス・キリストと出会いました。イエスさまの方から、彼女に声をかけ、彼女が本当に求めている、彼女自身さえ知らない「心」を明らかにしました。イエスさまは始めから、この女のすべてを知っていたのです。しかし、それでも尚、イエスさまは、彼女自身に問いかけます。彼女に語りかけることを通して、真実と向き合うための時間をつくります。そして、サマリアの女は、真理と出会い、霊を与えられ、彼女自身が、霊と真実をもって礼拝するものへと変えられていくのです。

 主イエスは言われます。「父は、このように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理とをもって礼拝しなければならない。」私たちは、礼拝する者として、ここに呼び集められています。神の子とされる霊を受け、神と父と呼ぶことが許されています。主イエスと出会い、真実をもって、父を礼拝するものとして、今ここにいます。しかし、主の御前に立つ時、私たちは自分自身の罪に気づかされます。こんな弱く、欠けの多い無力な自分が、周りとの関係の中で、破れと疲れを覚え、どうしても愛することができない自分が、御言葉に聴くことも、主に従うこともできない自分が、心の底に秘めた醜さに、真実に映し出された本当の姿に耐えられないと、私たちは、神に背く自分の罪を知れば知るほど、主への畏れはどんどん深くなっていくものです。けれども、彼女は言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が、来られる時、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」彼女の希望が、ここにあります。救い主が来られるという確かな希望です。私たちが、仮に、どのような自分自身という存在であったとしても、すべてを知った上でさえ、決して見捨てず、そこから救い出してくださる方がおらるのです。

 主イエスは言われます。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」神が、主イエス・キリストが「わたしである」と、目の前におられます。イエスという方が、人と人との関係の中で破れや疲れを覚え、愛のない自分に苦しみ、もうどうしていいかもわからない時であったとしても「わたしである」と、私たちの前に立たれるのです。この方は、ここにいる一人ひとりを、神に選ばれた掛け替えのないあなたを、ご自分の命に代えても救ってくださるのです。主イエス・キリストの十字架と復活は、罪ある私たちが、神に愛され、赦されている確かなしるしです。この方によってこそ、私たちは、新しく喜びのうちに生きることができます。サマリアの女の前に、そして、私たち一人ひとりの前に、主イエス・キリストが立たれます。私たちは、ただこの方に、すべてを委ねて、寄り頼みます。弱くて、臆病で、迷いと不安にある私たちを、大切な人も愛することができない私たちを、神を忘れ、自分のことしか考えない罪ある私たちを、主はすべてご存知です。それでも尚、「わたしである」と主は、立たれます。あなたを愛していると、主は、ご自身の命を捨ててまで、私たちを救われるのです。救いとは、一方的に差し出された神の恵みです。この神さまの愛を受けて、主イエスに従い、御言葉に聴き、祈り続けることで気づかされる出来事があります。この方にこそ、霊と真理とをもって神を礼拝することによってこそ、神の救いの出来事に生きる確かな道があるのです。

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