2018年7月29日 主日礼拝説教

「神の家族がある」

上野 峻一

ルカによる福音書 第8章19-21節

 主イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカによる福音書の第8章21節)と言われました。イエスさまの母とは、兄弟とは、つまり、主の家族とは、一体どういう者かを主イエスが明確に答えられています。主イエスの家族とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことです。日本人の場合、家族ということを無批判的に血族として考える人が多いかもしれません。もちろん、それが法律によって定められているために、家族としての法的、社会的な責任をもちますが、やはり「彼の母とは、彼女の兄弟とは、誰か」と考える時、血がつながっているかどうかが、一つの判断の材料となります。家族は「血縁関係があって、一緒に住んでいる人たち」ということが、日本の社会通念としてあります。

 聖書の背景にある時代、その歴史とユダヤ人の社会においても、この血縁関係ということは、大事にされていました。神の民イスラエルは、12部族によって構成され、荒れ野を進む中での兵役や約束の地を嗣業として神から受ける時も、すべて部族ごとに仕切られてきました。レビの家系は、神殿におけるレビ人としての働きが産まれた時から決まっています。系図を重んじ、どういう家の誰の子かということを細かく記録されています。ただし、血のつながりというものを何の前提もなしに絶対視はしません。それは、神の民イスラエルのルーツであるアブラハムが「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記第12章1節)との神の言葉によって、土地や血縁から離れ、神の民として新しい出発をしたからです。つまり、神の御言葉に聴き、約束の地が与えられるという神との契約が第一にありました。血縁関係よりも契約関係を、優先するのが聖書の伝える神の家族です。

 イエスさまも、ご自分を生んだ母親、幼い頃から一緒に生活をした兄弟、家族のことを気にかけていたことは確かでしょう。またイエスさまの家族もまた、イエスさまのことが心配でたまらなかったと思います。マルコによる福音書では、今日のルカによる福音書と同じ出来事が、主イエスが悪霊を追い出された出来事の後に記されています。周囲の人々から、あの男は気が変になっていると言われて、イエスさまを連れ戻そうと身内のものがやってくるのです。家族が心配して、イエスさまの働きをやめさせようとしました。マルコ福音書やマタイ福音書では、人間関係における家族、イエスさまの家族について、あまり好意的ではないかもしれません。この二つの福音書では「預言者が、敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言われています。しかし、ルカ福音書では、この言葉が「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(ルカによる福音書第4章24節)となり、「家族」という言葉がなくなっています。

 今日の箇所では、母マリアや兄弟たちが来たのは、イエスさまに会いたいという理由だけです。ルカは、マルコやマタイよりも「家族」について語る箇所に一つの確信をもっていたのです。それは、この家族もまた、必ず主イエスを救い主と信じる者とされるということです。なぜなら、ルカによる福音書を書き、そして、その続きの使徒言行録を書いたルカは、主イエスを産んだ母マリアや、その兄弟、つまり、血のつながった家族が、やがて主イエスを救い主と信じる者となった姿を知っていたからです。使徒言行録のはじめでは、復活された主イエスが天へ昇られた後、弟子たちと「イエスの母マリア、またイエスの兄弟たちが心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒言行録第1章14節)とあります。血のつながったイエスさまの家族も、弟子たちの中に、共に祈る者として加えられていたのです。

 後に、主イエスは、大勢の群衆がついて来るのを振り返り、「もし、誰かがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に、自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカによる福音書第14章25節以下)と言われます。それは、まさに主イエス・キリストご自身が、経験された孤独な出来事です。主イエスが、神の御言葉に聴き行うために、家族も、命もすべてを捨てて、十字架を背負い、十字架への道を歩まれたのです。しかし、主イエスは、そこにおいても、たった一つのことを続けられました。それが宣教の始めから、折に触れて、特徴的に記している「祈る」ということです。主イエスは、祈られました。弟子を連れて、また一人であっても、いつも、どのような時も、ひたすらに祈り続けておられたのです。

 誰よりも長く一緒に人生を歩んできた最も身近な夫や妻に、時間も何もかもささげて自分にできることは何でもしてきた娘や息子に、文字通り目に入れたとしても痛くもない孫たちに、どうしたら届くのだろうか。それこそ、教会の外に、神の言葉の外にいる、大切な「あの人」に、どうやったら、神の御言葉が届けられるのだろうか。わかって欲しい、でも伝えられない。よくよく自分も相手も知っているからこそ、生活や性格もわかっているからこそ、言いたいけど言えないもどかしさがあります。そのために、教会も、伝道者も、私たち一人ひとりも、決してあきらめずに、福音のためなら何でもします。しかし、それでも、解決できない家族の悩みは、決して尽きることはありません。その悩みに、主イエスは寄り添ってくださいます。一緒に悩んでくださいます。しかし同時に、主イエスは、私たちが為すべきことを、主ご自身のお姿を通してお教えくださるのです。それが、決してあきらめずに祈り、そして、神の御言葉に聴き行うこと、つまり、愛することです。

 もちろん、私たち人間の愛は不完全です。けれども、それだからこそ、私たちは主の愛を求めます。大切な家族を、友を、与えられた隣人を、心から愛したいと願います。神の御言葉に聴き、行う人でありたいと、どのような時も祈り、神の御言葉を求め続けるのです。その祈りに、主は必ず答えてくださいます。家族のために祈り続けた主イエスは、愛のない私たちのためだけでなく、その家族のために、そして、新しく神の家族とされるもののためにも、神の御子の命をささげてくださったのです。私たちを、主なる神は愛しておられるのです。この確かなしるしが、主イエス・キリストが、私たちの罪のために、ただ一人で負ってくださった十字架です。ここに、神の愛があります。このもとに、神の家族があるのです。主イエスの言葉に聴き、行う者たちが、互いに祈り合い、どんなことも赦し合い、決してあきらめずに愛し合うことができるように、今日も、主イエスの家族であるようにと呼びかけられます。神の愛に生きる神の家族としてあるように。お祈りをいたしましょう。

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