2018年4月8日 主日礼拝説教

「光のもとに」

上野 峻一

ヨハネによる福音書 第3章16-21節
出エジプト記 第34章29-35節

 ヨハネによる福音書は、主イエス・キリストを「光」として描きます。神は、この世界に、神の御子である主イエスという光をお与えくださいました。この光に、対して記されるのは、闇です。闇は、世であると言われます。神は、この闇に光を投じました。この世界を照らすために、神の御子主イエス・キリストによって、世が救われるためにと、光を与えられました。第3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」宗教改革者マルチン・ルターが、この箇所を、福音のミニチュア、小福音書と言ったことは、教会では有名な話です。聖書のエッセンスが、ここにあるとも言えます。

 「神が、私たちを愛しておられる。」「神は、愛である。」これが、教会で語られる中心的なメッセージと言えるでしょう。けれども、このことを聴く度に、いつも問わなければならないことがあります。それは「愛とは一体何か」ということです。確かに、神は愛です。けれども、反対に、愛は神ではありません。もし、そんなことになれば、自分が誰かを愛することで、勝手に神さまを作り上げていくことになってしまいます。この世には、およそ愛とは呼べないものも、愛としてまかり通っていることがあるからです。親が、子どもを愛することは、当然です。しかし、これは愛だ、しつけだと、心と体を傷つけることは、果たして愛でしょうか。愛とは何かを知らずに、誰かを愛することはできません。自分が愛する愛こそが正しいと、神のようになることほど危険なことありません。なぜなら、私たちに人間は、その内側に真実の愛を持つことができない生き物だからです。この愛がないことに気づかない、自分は誰かを正しく愛していると思うことが、闇の中にいるということです。闇は、光がなければ、自分が闇であることも認識できません。もし、この世界に闇しかなく、一切の光がなかったならば、闇は自分が闇であることも知りません。しかし、このままでは人間が滅びてしまう、悪を悪とすることもなく、真実の愛を知ることもなく、互いに傷つき、悲しみの中で、消えていってしまうと、父なる神は、その独り子を世にお与えくださったのです。

 聖書の「滅びる」との言葉は、文字通りに「消滅」というニュアンスをもつ言葉です。よくよく考えると、とても恐ろしい言葉です。学生の頃、真剣に「死」について考えたことがあります。取り憑かれたように、死に関して哲学の本を読みました。自分の信仰と向き合うためか、反対に、信仰が弱ってしまっていたのか、復活の希望を語る聖書でも、神の救いを知る神学でもなく、神の存在を認めない哲学によって考えてみました。難解なものが多くて内容すら、よく覚えていませんが、言うなれば、死とは「滅び」でした。消滅です。自分の心も、体も、感情や意識さえも、消えてしまうのです。ただし、すべてが消えてしまうから、不安や悲しみを感じることさえもないという結論になります。心の底から空しくなりました。すべて意味がないのだと虚無感に襲われました。それが「滅び」なのかもしれません。しかし、神は、このような滅びではなく、独り子を信じる者が、一人も滅びないで永遠の命を得るために、世を愛し、イエスさまを与えてくださったのだと言われます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」です。

 もし自分の子どもが犯罪者になってしまった場合、親が感じるのは、子どもに対する怒りよりも、後悔と責任の重圧であると言われます。どこで何を間違ってしまったのか、一体これからどうすればいいのか、決して他人事として切り離すことなどはできません。むしろ、自分のこと以上に苦しみ、深い悲しみと痛みが襲ってきます。神が世を愛したということは、世の罪を神ご自身が、その身に負うということでした。闇の中で罪を罪とも思わず、本当の愛を知ることのない人間を、神ご自身が、痛みと苦しみをもって引き受けます。それほどまでに、神は私たちを愛しておられるのです。何とかして、闇の中で、悲しみ、苦しむ者たちを救いたいのです。

 私たち人間は、誰しもが、深い闇の中を生きています。心に闇を持たない者など、誰一人としていません。教会にいるあの人も、この人も、みんな正しい者ではないのです。伝道者パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、詩編の言葉を引用し、「正しい人いない、一人もいない」と断言します。誰しもが、神に背き、光よりも闇の方へと向かおうとする罪人なのです。人間には真実の愛がないと言いましたが、それは、人間が、本質的には誰かを愛することよりも、自分を愛することを第一にし、自己愛という殻の中に閉じこもるからです。古代の神学者アウグスティヌスは、この人間の自己愛を、罪であるとしました。結局は、私たちは何をするのも自分のため、自己愛という仮面をかぶった罪人であると言うのです。この罪が、この心の闇が照らされ、すべてが明らかになってしまうのが、人間は恐くてたまらないのです。だから闇の中でいいと、光のもとには来ないのです。

 しかし、この闇から救うため、罪の中で滅びてしまわないために、神は、主イエス・キリストという光を与えてくださったのです。本当の愛とは何かを、私たちにお示しくださったのです。神に背き、罪ある人間のために、神の愛さえ払い退けて、闇の中で生き続けようとする者のために、御子を世に遣わされたのです。そして、この方は、私たちの罪のために、私たちが負うべき償いのために、十字架へとおかかりになられました。私たちが裁かれ、私たちが苦しみ死ぬべきであったのに、神は、世を、私たちを愛するために、自分のたった一人の御子を十字架につけられたのです。主イエス・キリストの十字架によって、私たちは罪を赦され、本当の愛を知らされました。「友のために命を捨てること、これ以上の愛はない」と言われた主ご自身が、私たちのために死なれたのです。これが真実の愛です。この出来事が、このお方が、私たちの闇を照らし出す光となります。この光のもとに、私たちは立たされます。自分を愛することを第一に考え、愛を持つことのない人間に、神の愛が与えられました。もう闇の中で隠れる必要も、恐れ惑う必要もないと、光のもとで神は語りかけられます。

 私たちは、いつも光のもとにありたいと願います。本当の愛を知り、決して滅びることのない命に生きるため、主イエス・キリストの光のもとに、教会に集います。私たちの生き方によって、神に導かれてなされたということが明らかになります。過去の自分の行いや、自分自身がその出来事に相応しいというものではなく、ただ神の愛のゆえに、今ここにあるのです。この神の愛を、主イエス・キリストを受け入れるかどうか、今を生きる私たち自身が、いつも繰り返し問われます。そして、主イエス・キリストの十字架と復活という出来事を前にして、神の愛によって、光のもとにあり続けるために、神は御言葉を今日も語り続けられるのです。

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