2018年3月4日 主日礼拝説教

「新しく生まれるために」

上野 峻一

ヨハネによる福音書 第3章1-15節
エゼキエル書 第18章30-32節

 ヨハネによる福音書第3章1節以下には、主イエス・キリストとニコデモと呼ばれる人物との対話、その内容が記されています。聖書は、このニコデモという人物が、「ファリサイ派に属する、ユダヤ人の議員であった」と記します。ファリサイ派とは、ユダヤ人たちの一つのグループです。ユダヤ教の律法を厳格に守り、やがてイエスさまを殺そうとする者たち、キリストの敵であると言ってしまっていいかもしれません。このファリサイ派の一人であり、ユダヤ人の議員と言われるのが、ニコデモです。議員という言葉は、「長老」「指導者」と翻訳することもできます。地位や名誉もそれなりにある人です。恐らく年齢も、30代のイエスさまより高かったに違いありません。この議員が、ある夜、イエスさまのところに訪ねてきます。

 ニコデモは、「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」と言います。どうやらニコデモは、イエスさまの「しるし」を見て、信じた者の一人であるようです。この「しるし」とは、カナでの結婚式で、主イエスが水をぶどう酒に変えられたような奇跡などです。奇跡を見て、イエスさまを信じて、ついて行く人はいました。けれども、そのような人々を、主は信用されなかったと少し前の箇所にはあります。なぜなら、しるしを見て信じる人々の多くが、その背後にある真理には気づいていない、あるいは、目の前の奇跡を喜んでいるだけだからです。このヨハネ福音書では、まことに、主イエス・キリストを救い主として信じる者たちに、見ないのに信じる人は幸いであると語ります。信仰を与えられて生きる者は、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐのです。その意味では、ニコデモは、まだ合格点に達してはいないようです。主イエスは、このようなニコデモに答えます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

 明らかに、主イエスとニコデモのやり取りはかみ合っていません。「新たに」という言葉には、「上から」という、まったく別の意味があります。他の箇所の多くでは、「上から」という意味で使われています。もちろん、非常に古くまで遡れば、日常生活の習慣や文化のニュアンスから「新しい」という意味が出てきたらしいのです。しかし、この時代、既に、一つの言葉で二つの意味を持っていたことに変わりはありません。そして、ニコデモの返答からも、ここでは「新しい」という意味で使われていました。普通に考えれば、誤解を避けるために、イエスさまは、率直に「新しい」という意味しかもたない別の言葉をお使いになればよかったのです。けれども、イエスさまは、敢えて、一つで二つの意味をもつ言葉をお使いになられたのです。それは新たに生まれることと、上から生まれることが、一つのことだからです

 主イエスは、このことを新たに生まれること、上から生まれることだと言われます。このことが、水、霊によって、神の国に入ることになるのです。私たちは、この世に生まれる時には水の中にいます。新たに生まれる洗礼も、水によって生まれます。ただし、水からだけではありません。霊から生まれることが大事です。主イエスは「あなたがたは新たに生まれなければならない」とあなたに言ったことに、驚いてはならないと言われました。その理由を、風にたとえて語られます。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである。」風は音を立てて、室内にいても風が、外で吹いていることがわかります。けれども、どこから来て、どこに行くのかわかりません。霊も同じだと言われます。私たちを主の御もとへと導き、新しく生まれさせる霊は、どこから来て、どこにいくのか。風が思いのままに吹くように、その音が聞こえはするけれども、どこから来て、どこへ行くのかを知らないのです。ニコデモは、はじめに、イエスさまに対して、「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」と言いました。けれども、やはり本当には知らなかった、わかっていなかったことが、ここで明らかとなります。ニコデモは言います。「どうして、そんなことがありえましょうか。」イエスは答えて言われます。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことがわからないのか。」

 大人になってしまった者たちが、率直に、心からこのことを認め、受け入れることは、いかに難しいでしょうか。私たち人間は、大人になればなるほど、知らないということを受け入れ、認めることができなくなります。すべてを捨てて、新しく生き直すなんてことはできないと考えてしまいます。それは、すべてをやり直すには、最初から始めるには、精神的にも、物理的にも、持ちものが多すぎるのかもしれません。しかし、新しく、上から、生まれなければなりません。そのためには、一体どうすればいいのでしょう。聖書は、ニコデモが「ある夜、イエスのもとに来た」と伝えます。夜は、闇を表わします。神の御子、イエス・キリストを光として、これに対抗するのが闇です。その闇の中、光であるキリストのもとへとニコデモはやって来たのです。それは自分の地位や名誉、ファリサイ派というキリストの敵となる者たちの一人であるから、きっと夜でなければならなかったのでしょう。ところが、彼が求めて出会った主イエスによって、自分にはわからない、知ることのない自分を突きつけられました。それは、信じることのできない自分、あるいは、信じていると思い込んでいる自分であったのかもしれません。キリストに出会い、信じて生きている者たちに証しされ、その声に聞いていたからこそ、今、私たちもここにいます。それにも関わらず、いつも私たちは、わからない、知らない、そして、それを受け入れないものとして、留まってしまう。あるいは、離れ去ってしまうのです。それが、罪となります。

 しかし、このような罪を知らされたからとって、悲しみ、落ち込む必要は、決してありません。そのすべてを、神の御前にさらけ出しても、それを受け入れ、愛して、赦してくださる方がおられるからです。闇夜にたたずむ光である神の御子、主イエス・キリストがおられます。聖書は、この方を、「天から下って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上ったものは誰もいない」と証言します。天と地をつなぐ方、新しく、上から、来られた方こそ、私たちの救い主です。この方によって、この方がお与えになる霊によって、私たちは、新しく生まれることになります。聖書が告げる霊によって、生まれる出来事が起こるのです。これまでも、今も、これからも起こるのです。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、主イエスは上げられました。旧約聖書の民数記で記されている罪の赦しの出来事を思い起こさせます。私たちも、この挙げられたお方、主イエス・キリストの十字架を見上げます。教会の多くが、その頭上に十字架を掲げます。それを見上げ、私どもは主イエス・キリストの十字架を、その恵みを思い起こします。自分の深い罪を思いつつも、キリストの御苦しみと十字架の死、罪の赦しと神の愛、復活によって示された新しい命に生きる喜びと希望を知らされます。このすべては、信じる者が皆、主によって永遠の命を得るための出来事です。霊よって生まれることとは、今ここに始まっている神の国に喜んで生きることです。主にある喜びの毎日が、今日もはじまります。

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