2017年12月31日 主日礼拝説教

「終わりは始まり」

上野 峻一

ヨハネによる福音書 第2章13-22節
イザヤ書 第26章7-13節

 本日の礼拝は、歳末感謝聖餐礼拝としてささげています。私ども一人ひとりにとって、この一年はどのような歩みであったでしょうか。嬉しいことも、楽しいことも、また、辛いことも、苦しいこともあったかもしれません。けれども、そのすべての出来事において、主なる神さまが共におられました。その一つひとつに、主の働きがあり、そこには意味があります。私どもが、2017年という一年の終わりを迎えるにあたって、今日、改めて思い起こすことは、やはり神の出来事です。主イエス・キリストという方を通して示される神の愛です。そのことに、私どもの想いを、心を向ける時、終わりは始まりとなります。

 今日の聖書の箇所にも、主によって示された神の出来事があります。当時、神を礼拝する神殿の境内で、動物や両替をすることは、ごく当たり前のことだったと言われます。一年に一度、過越祭にエルサレムの神殿へと礼拝に来るのは、遠くから来る巡礼者も多かったことでしょう。主イエスご自身も、ガリラヤからはるばるエルサレムへと来られます。遠くから遠路はるばるやってくる長旅なら、荷物は少ない方がいいに決まっています。神殿の礼拝でささげる動物が、その場で用意ができるので、とても便利です。また両替だってそうです。神殿の礼拝でささげる献金は、ユダヤ人たちが礼拝で用いる専用のお金でなくてはならなかったと言われます。外国のお金には、その国の王様やローマ皇帝などの人物の絵柄が描いてあったからです。

 「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、」これは、かなり激しい行動です。神殿の境内には、規則として棒などの武器となるようなものは、持ち込めません。ですから、恐らく家畜を縛っている縄などで鞭を作って、大きな動物も追い出して、両替人の机にあるお金を振り払って、その台を手でひっくり返したか、足で蹴り倒したか。そこにいた人々も、また弟子たちも、あっけに取られたことに違いありません。そして、主イエスは、鳩を売る者たちに言われます。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」主イエスが、このような行動をした目的は、はっきりしていました。それは、父なる神の家、神殿とは何かを、私どもに伝えることでした。他にも、神殿で利益を得ていた商売人の悪徳を懲らしめるとか、神殿を清く保つための宮清めであったとか、色々と理由は考えられます。けれども、続く聖書の箇所に記されているように、神がおられる神殿とは一体何か、それを伝えたかったはずです。

 ここでのユダヤ人たちと、主イエスとの会話は、明らかに噛み合っていません。それは、ユダヤ人たちの言う神殿と、主イエスが言われる神殿が違うからです。このように不思議な出来事として、弟子たちの心の中に、主イエスの行動と言葉が残っていました。そのようなことが、いくつも、いくつもありました。それが、主イエス・キリストが、この地上の歩みでなさったことです。イエスさまと出合い、イエスさまの言葉や奇跡の業を通して、本当に多くの人が、主イエス・キリストを信じて、従って行ったことでしょう。しかし、その者たちは、誰一人として、主イエスが、本当は何をお伝えになりたかったのか、主イエスが、本当はどのような方であるのか、知るものはいませんでした。だから、「あなたの家を思う熱意が、わたしを食い尽くした」のです。主なる神を父と呼ぶ主イエスを、神を冒涜する者として、神殿の本来の姿を取り戻そうとした主イエスを、神を蔑ろにする者として、人々は十字架につけて殺します。主イエスのご命令通りに、主イエス・キリストの体である神殿は、人々の手によって壊されたのです。しかし、主の言葉の通りに、神殿は三日で建て直されました。主イエスは、十字架で死に、三日目に復活されたのです。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」

 このヨハネによる福音書において、大事なことの一つは、想起ということです。それは、主イエスの言葉が、神の出来事が、後になってからわかるということです。そこには、聖霊の働きがあります。主イエスは、十字架で殺される前夜、弟子たちに、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言われます。その最も、広く、長く、高く、深くいものとして神が伝えたかった出来事、キリストの愛とは、十字架と復活です。これこそ、私ども人間にとって、主の名によって与えられた聖霊の助けなしには、その意味を悟ることができないものです。主イエスが、私どもの追うべき罪による代償を、十字架において贖ってくださいました。キリストの弟子たちは、このことを、主イエスの復活によって気づかされました。イエスさまが、苦しまれ、死なれたのは、私どものためであった。主イエスのあの言葉も、あの行動も、すべてに意味があったのだと知らされたのです。そして、「聖書とイエスの言葉とを信じた」と言われます。それまでは、信じていたけど、本当にはわかっていなかったのです。口では、イエスさま、主よ、と言いながら、本当には信じていなかったのです。私どもは、主によって与えられる聖霊を待ち望みます。そのようにして、私どもに起こる神の出来事の意味を知ることができるからです。

 弟子たちが、本当に新しく歩み出したのは、すべてが終わってからでした。主イエスの十字架と復活、そして、聖霊が下り、主イエス・キリストによって示された神の御業が、成し遂げられて始まったのです。私どもは、この主イエスの十字架と復活によって、終わりが決して終わりではないことを知らされました。すべての終わりは、同時に新しい始まりであることを告げられました。それは、やがて私どもに訪れる終わりの日においても同じことです。私どもにはどうすることもできない死であっても、決して終わりではありません。終わりは始まりなのです。神の出来事によって、この年を終えて、新しい年を始めたいと思います。今日までの一年の歩みが主なる神と共にあったように、明日からの一年の歩みもまた主なる神と共にありますように。

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