2012年2月26日 主日礼拝

「神に呼ばれて」 川﨑 公平 牧師

コリントの信徒への手紙一 第1章1ー17節

時々このような場所でお話しすることですけれども、私は子どもの頃から教会に通い、教会学校というところで育てられたようなところがありました。そのような私が大学1年生になった時に、今度は自分自身が教会学校の先生をするということになりました。もうひとり、その教会に出席しておられた神学生の方と一緒に6年生を担当することになりました。最初の頃は、必死で奉仕をしていて、「ああ、自分もこういうところで育ったんだなあ」などと感慨にふける余裕は全くなく、日曜日が来るのが少し怖いというぐらいでした。ある日の分級で、どういう経緯だったか忘れてしまいましたが、その6年生の子どもたちと、みんな、いつから教会に来るようになったの? という話になったことがありました。小学校6年生ですから、まあそのくらいの話は自分でできる。何年生の時に友達に誘われて、とか、たまたま入った幼稚園がキリスト教主義の幼稚園で、などというような話を聞きながら、川﨑先生はいつから教会に来ているのかと聞かれたので、私は生まれる前からだと答えました。そこに座っていらっしゃる荒木先生のお腹の中の赤ちゃんと同じような状況ですね。ぼくは生まれる前から教会に来ていたよ。そうしたら本当に生意気な6年生たちで、「はあ? ばかじゃないの」と言われました。ばかとは何だ、本当なんだからしょうがないと反論しましたけれども、何しろまだ大学1年生、指導力にも問題があったのでしょう、「だめだ、こいつ本当にばかだ」と最後までなめられっぱなしでした。ただそういう6年生たちの反応を見ながら、なるほど、実際に教会の中で、生まれる前から教会に体を運んでいる赤ちゃんを知らないと、そういう反応になるのかなと興味深く思いました。確かそういう話をしながら、もうひとりの神学生の先生が、自分で教会に来たという人はひとりもいない、みんな神さまに招かれたから、ここに来ているんだよ、というような話をしておられたように記憶しております。
私が生まれる前、既に父親が教会員で、確かもうその頃から長老だったと思いますけども、私は生まれる前から日曜日になると教会に体を運び、1歳で幼児洗礼を受けました。こういうことも以前どこかでお話ししたことがあると思いますけれども、母親はというと、まだ洗礼を受けようとはしませんでした。いわゆる求道者という立場ですね。私が最初の子でしたけれども、幼児洗礼を受けるという時に、どうも母は大きな衝撃を受けた。ようやくを与えられた最初の子を、いきなり神さまに奪われたような思いがしたそうです。「この子はあなたのものではない、私のものだよ」。そう言って、神さまが持って行ってしまった。そこでやはり思うところがあったのでしょう、私が幼児洗礼を受けたその翌年あたりに、母も洗礼を受けました。そこにも不思議な神の導きがありました。
今日読みましたコリントの信徒への手紙Ⅰ第1章9節に、こういう言葉がありました。
神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
ここにおられる、既に洗礼を受けた方たち、ひとりひとり、同じ経験を持っています。誰でも、初めて教会に来た経験を持っています。そしてひとりひとり、特別な導きがあり、洗礼を受けて、神の子とされました。皆さんはその日のことを覚えておられるでしょうか。この手紙を書いたパウロは、コリントの教会の人たち、ひとりひとりに、そのことを思い出させようとしております。第1章26節でも、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」と言います。思い出してみなさい。あなたがたも神に招かれて、主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたではないか。この第1章9節で「招き入れられた」と訳されている言葉は、少し丁寧に訳し過ぎているようなところがありまして、単純に訳すならば「呼ばれた」ということです。あなたがたは、呼ばれたのです。神に呼ばれた。洗礼を受けるということは、神に呼ばれることです。
もちろんここには、まだ洗礼をお受けになっていない方たちも招かれています。神に、招かれています。どうぞ洗礼を受けて、「わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに」入ってきてほしい。そのような神の呼びかけに、既に気づいておられる方も多いのではないでしょうか。
「教会」と日本語に訳されている言葉は、元のギリシア語をそのまま発音すると、「エクレシア」という言葉です。この言葉をどこかでお聞きになったことのある方も少なくないと思います。今日読みましたところの2節の最初にも、「コリントにある神の教会」という言葉があります。「コリントにある神のエクレシア」です。このエクレシアという言葉は、もともと、「呼び出された」という意味の言葉です。もともと「教会」という意味はない。宗教的な意味はない。「集会」とか「寄り合い」というような意味です。だからこそここでははっきりと、「神の教会」と言います。神に呼ばれた者たちの集まり。それが教会です。パウロはそのことを、少なくともここでは、かなり意識していると思います。
今日は、いつもより1時間礼拝の時間を早めて、この礼拝の後に定例の教会総会を行います。毎年のことですが、長老選挙を行います。そして来年度の伝道計画と、予算について審議します。昨年度の2月の総会とは違って、と言ってよいかと思いますが、そんなに具体的な、目新しい伝道計画を立てているわけではありません。しかし、私は、今日の総会は非常に大切な意味を持っていると信じて、そのために祈り続けてきました。こういうことをあまり言い過ぎると、押しつけがましいようなことになりはしないかと恐れますが、本当にこの日のために祈り続け、祈り疲れたほどです。改めてこの教会が、祈りをひとつに集め、心をひとつにして、新しい歩みを始めることができるように。10節の後半には、こういう言葉もありました。「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」。この教会が、本当の意味でひとつになることができるように。そのような願いをパウロはこの言葉に込めていると読むこともできると思いますが、また一方で、パウロは、教会はひとつであるという事実を信じて、この手紙を書いていると私は思います。教会は、事実、ひとつです。なぜかと言うと、ただひとりの神に呼ばれたからです。私どもを呼んでくださった神は、いつも変わることなく、ただおひとりの方です。そのただひとりの方、主イエス・キリストに呼ばれて、ここにひとつの教会が作られています。それが、この鎌倉雪ノ下教会です。
コリントの信徒への手紙Ⅰの最初の部分を少し長く読みました。このところを日本語の聖書だけを読んでいると、少し気づきにくい、けれどももともとパウロがこの手紙を書いたギリシア語でこの部分を読むと、ひとつ気づくことがあります。このところに「呼ぶ」という言葉が何度も使われていることに気づきます。たとえば今読みました2節の後半に、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」。コリントの教会の聖さを説明するように、「召されて」という言葉を重ねています。この「召されて」というのが、単純に訳せば、「呼ばれて」という意味の言葉です。誰に呼ばれたのか。「キリスト・イエスによって」であります。皆さんもまた、神に呼ばれて、この教会を形作っています。だからこそ聖なる教会です。
けれどもパウロは、それに先立ってまず1節で既に、「召されて」という言葉を使っています。「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」。なぜ自分は伝道者になったか。神に呼ばれたからだ。これはすべての伝道者、そして伝道者を志すすべての者がわきまえているはずのことです。神に呼ばれて、伝道者の道を志す。その神のお召しのことを、「命を召す」と書いて「召命」と呼ぶこともあります。
本日の週報にも書きましたし、既に先週の礼拝後の報告の時間にも口頭で報告しましたけれども、教会員のSさんが東京神学大学に編入学なさることになりました。改めて、入学式の日程も週報に記しておきました。昨年度も教会員のEさんが東京神学大学に入学なさり、2年も続けてこういうことがあると、本当に不思議なことだと思いますし、この教会に与えられた恵みの不思議さを思います。神学校の入学試験を受けるという時に、もちろん私も同じ経験をしているわけですが、東京神学大学教授会全員による面接を受けます。なかなか緊張します。この教会で洗礼を受ける時の長老18人との面接も緊張すると思いますけれども、神学校の入試の面接の時には、教保はいませんから、完全にひとりです。完全にひとりで、教授会15人ぐらいのメンバーと面接をする。その時に必ず聞かれることがあります。「神の召命を受けて、つまり神に呼ばれたと信じて、入学しようとなさるのですか」。自分で決意して神学校に入る人はいません。そんな人は必ず落第します。神に呼ばれて伝道者になる。これはすべての神学生がいつも知っているべきことです。
やはり週報の同じ項目に並べて記しておきましたけれども、この教会で長く生活をなさった池田慎平さんが神学校の学びを終えて、4月から名古屋の金城教会に赴任なさいます。卒業式の日程も週報に記しておきました。そのような時にも「神に召されて」伝道者として遣わされる、という言い方をします。神に呼ばれたのです。この春、私どもの教会は大澤正芳、みずき両先生を牧師としてお迎えします。教会総会の議を経て、私どもがこのふたりを招聘した。一方ではそう言うことができます。けれども他方で、いつでも覚えていなければならないことは、この牧師たちは決して私どもに呼ばれたからこの教会に来るのではないということです。誰に呼ばれたのでもない、神に呼ばれた。私ども夫婦も神に呼ばれて伝道者になり、神に呼ばれてこの教会に来ました。皆さんに呼ばれたからではありません、と言うべき面もあると思っています。パウロはまた別の手紙では、わたしが伝道者になったのは人によるのではない、神によるのだということを、これでもかという口調で書いています。パウロが1節で、「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」と言っているのは、そういう意味です。伝道者という存在は、神に呼ばれた存在です。けれどもパウロはそこで、われわれ伝道者はあなたがたとは違うのだ、ということを言いたかったのではありません。すかさずそれに続けて、コリントの教会の人たちのことをも「召されて聖なる者とされた人々へ」と言います。「召されて」と同じ言葉を重ねております。そこには深い思いが込められていたと私は思います。
私も14年前に神学校を受験しました。もうそんなに昔の事になるかと思いますけれども、神学校を受験する時に必ず受験生が提出させられる文章があります。「なぜ神学校を受験するか」、その動機を書かされます。そこに私はこのような主旨の文章を書きました。昨日、その文章を探してみようと思ったのですけど、どうしても見つからない。ついに紛失してしまったかと思いましたけれども、主旨はよく覚えております。私は今初めて献身するのではない。私は今初めて神のお召しを受けたのではない。私は1歳の時に幼児洗礼を受けた。その時既に、神に呼ばれたのだ。洗礼を受けるということは神に呼ばれることです。パウロがコリントの教会の人たちに対して、「召されて聖なる者とされた人々へ」と書いた時に、あなたがたも神に呼ばれたのだ。私と同じだね、という思いがあったのかもしれません。
なぜ教会に伝道者という存在が必要なのか。私は、この教会に集められているひとりひとりが神に呼ばれた存在であるという事実を明らかにするために、また特別な形で神の呼びかけを受けた伝道者という存在が立てられているのかもしれないと思いました。パウロを見れば分る。ああ、あの人は神に呼ばれたのだ。しかし、あの人はわれわれとは違う、というように思われることはパウロの本意ではなかったと思います。皆、神に呼ばれた。私も今、パウロに倣って皆さんに告げる。神に呼ばれた者として皆さんに告げます。神に呼ばれて聖なるものとされた鎌倉雪ノ下教会の皆さん。皆さんも、神に呼ばれたのです。
そのことを、パウロが特に、コリントの教会に手紙を書いた時に強調したということには、やはり深い意味があったと思います。誰に呼ばれたのか、よく分からなくなっていた教会であったからです。パウロがなぜこの手紙を書かなければならなかったか。その具体的な状況は、あまり詳しく説明しなくても、お分かりになったかもしれません。10節以下に、こういう言葉がありました。
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。
コリントの教会がどれほどの規模の教会であったのか、少し調べてみようかと思いましたけれども、学者によって意見が分かれ、よく分かりません。しかし、現在の鎌倉雪ノ下教会よりはずっと小さな教会であったことは確かです。その小さな教会が、少なくとも4つに分かれて争っている。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」。一切の説明を省略しますが、ここに出てくる3人の名前は、コリントの教会に関わった伝道者たちの名前です。おもしろいのはその次で、「わたしはキリストにつく」と言い始めた人たちがいたそうです。分派争いというのは、はたから見ると、非常に醜いものです。キリスト教会というものが、教会に来ていない人たちに対して一番つまずきを与えてしまっていることは、幾つもの教派に分かれているということかもしれません。「わたしはルターにつく」「わたしはカルヴァンに」「わたしはローマ教皇に」、そういう争いを嫌って、「われわれはキリストにつく」。誰の指導も受けない。自分たちだけの特別な聖霊体験によって、直接キリストと交わる、などと言い始めたのでしょうか。だがそのようにしてまた新しい分派が生まれていくということが、コリントの教会の中でも起こっておりました。
こういうことは、大なり小なり、どこの教会でも起こることで、教派分派と言わず、教会の中でも、わたしは何々先生にということが起こると思います。しかもこういうことはなかなか微妙な問題を含んでいて、どれが正しいなどと言いにくいことです。パウロもここで、そういう議論をしてはおりません。いったいどのグループが正しいか。パウロの気持ちからすると、やっぱりパウロ派が一番正しいだろうと言いたい誘惑もあったかもしれませんが、そうは言いません。そんなことに興味はない。こう言うのです。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」。
気をつけていただきたいのは、パウロはここで「仲良くしましょう」などと言っているのではないということです。パウロはここでただ、単純に事実だけを告げております。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」。そんな事実はどこにもない。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」。そんな事実はどこにもないと。私どもを呼んでくださったキリストはただひとり。決して分けられることはない。私どものために十字架につけられた方はただひとり。だからこそ教会は事実いつもひとつだとパウロは言うのです。私どもを呼んでくださったただひとりの方を紹介しながら、そしてパウロはここで、「わたしたちを呼んでくださった方」とは言わず、「わたしたちのために十字架につけられた方」と言います。さまざまな伝道者がこの教会にも遣わされさまざまな働きをした。しかし、この教会のために命を捨ててくださった方はただひとり。このキリストのもとに帰ろう。パウロはコリントの教会の人たちに呼びかけております。私どもを呼んでいてくださるキリストの呼び声を紹介するように語りかけています。
ところで、先ほどこの手紙の最初の部分に「呼ぶ」という言葉が繰り返し現れると申しました。もうひとつその言葉が現れるのは、2節の前半に、「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に……」。これも単純に言えば「主イエス・キリストの名を〈呼ぶ〉」という言葉です。教会とは何か、キリストに呼ばれ、それゆえにまたキリストの名を呼び続ける者の集まりです。誰の名を呼ぶのでもない。私どもがここで呼ぶべき名は、私たちのために十字架につけられたお方、キリスト・イエスただおひとりです。神に呼ばれ、キリストの名を呼ぶ。そのようにして教会の歴史が作られてまいりました。
2011年の1月に、教会員のEさんが東京神学大学の受験の志願をなさり、長老会で面接をしたことがありました。今から10年以上前、受洗して約1年という時に、既に伝道者としてのお召しを主イエス・キリストから受けた経験をなさったと聞きました。けれども生まれつき全盲である自分が伝道者になることは不可能だろうと思い、そう思い続けながら10年間、キリストの呼び声を聞き続けてこられたと聞きました。その際、10年以上変わることなく、このEさんにとって大きな問いかけとなり、また大きな導きになったのは、ヨハネによる福音書第21章17節の主イエスとペトロとの対話であったと聞きました。お甦りになった主イエスが改めて弟子のペトロの前に立ち、「わたしを愛しているか」と三度を繰り返してお尋ねになりました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。三度繰り返してそう尋ねられたので、ペトロは悲しくなって、三度繰り返して申しました。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがよくご存じです」。そのように問いかけてくださる主イエスの問いかけ、主イエスの呼びかけ、そこに生まれた悲しみもまた、自分自身にそのまま当てはまることだと言われました。
しかもこれは、すべてキリスト者として神に呼ばれた人が、どこかで共有している体験であろうと思います。「わたしを愛しているか」。そのように主イエスが私どもに問いかけ、呼びかけてくださるのは、もちろん主イエスご自身が私ども愛していてくださるからです。そのように尋ねられている自分は、ペトロと同じように、どこかで主イエスを裏切ってしまっている自分です。悲しみを覚えないわけにはいきません。けれども悲しみながらもなお、やはり「わたしはあなたを愛しています」と言わないわけにはいかないのです。主イエスを愛している自分を欺くことはできない。皆さんひとりひとりがそのような思いをどこかで知っておられるのではないでしょうか。主イエスの「わたしを愛しているか」という問いかけに対して、「愛していません」と答えることもできず、悲しみを知りつつもなお、やっぱりわたしはあなたを愛しています。神に呼ばれ、それゆえにキリストの名を呼ばざるを得なくなっている私どもです。
パウロがこのコリントの信徒への手紙Ⅰの最初のところで語っていることも、そのようなことではないかと思います。主に呼ばれ、主を呼ぶところから教会の歴史は始まりました。主イエスとペトロとの対話から教会の歩みは始まったのであります。そこに与えられた主イエスのご命令は、「わたしの羊を飼いなさい」というものでした。「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」。微妙に言葉遣いを変えながら、しかし3度、主イエスはペトロにお命じになりました。そしてこの「わたしの羊」とは言うまでもなく、神に愛され、神に呼ばれ、そして今、キリストの名を呼び続けている私ども教会のことであります。主イエスに愛されて、それゆえに主イエスを愛さざるを得なくなっている私どものことであります。
このただひとりの主のもとに帰ろうと、パウロはここでもコリントの教会の人たちに呼びかけるのです。私たちはひとりの神に呼ばれた、だからこそ「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と、10節で「勧告」するのです。ただし、この第1章10節の「勧告します」という言葉は、もしかしたら強く訳しすぎてしまったかもしれません。この言葉も実は、元の意味にたどって訳すならば、「呼ぶ」という言葉なのです。ですから、ある人は「あなたがたに呼びかけます」とそのまま訳しましたし、またある日本語の翻訳では「お願いします」と訳しました。もう少し正確に言うと「そばに呼ぶ」という意味の言葉です。そしてこの「そばに呼ぶ」という言葉が新約聖書の中で、しばしば「慰める」とも訳されることがありました。わたしは主イエス・キリストの名によってあなたがたをそばに呼びます。あなたがたをひとつに集めます。そのようにしてわたしはあなたがたを慰めます。わたしたちを呼んでくださった、ただひとりの方のもとに帰ろう。神が私どもを「あなたもこっちにいらっしゃい」と、羊飼いが羊を一匹一匹、その名を呼んで集めてくださるように、招いてくださる。それが私どもの知る「慰め」です。その神の慰めの言葉をなぞるようにして、ここでパウロは、「あなたがたに勧告します。お願いします。思いをひとつにし、心をひとつにし」と言うのです。
今日、この後行われます教会総会で改めて祈りをひとつに集めたいことは、この教会が〈慰めの共同体〉として生きることであると、その総会資料に記しました。〈慰めの共同体〉、この教会では使い古された言葉にすらなっているかもしれませんが、神のそばに呼ばれた人たちの集まりと言い換えることもできると思います。伝道者パウロも、アポロも、ケファも、皆ひとりひとり神に招かれました。そしてコリントの教会に集まるひとりひとりも、皆神に呼ばれたのです。神に招かれて、キリストとの交わりに招き入れられたのです。その神の呼びかけを聞こう、ただひとりのキリストのもとに帰ろう。私もまたひとりの伝道者として、皆さんに勧めます。思いをひとつにし、心をひとつにして、ただひとりの方、キリストの十字架のもとに帰ろう。私どものひとつになるところ、それは私どもを呼んでくださり、私どものために十字架につけられてくださった主イエス・キリストです。そこに、ただひとつの聖なる公同の教会が作られてまいります。ここに、ただひとつの私どもの帰るべき場所があります。この恵みにとどまりたいと、心から願います。お祈りをいたします。
コリントに教会を建て、ひとりひとりを集めてくださった私どもの父なる御神、私どものために命を捨ててくださった主イエス・キリストの恵みを見失うことがありませんように。私どもにとってもまた、キリストの十字架こそ帰るべき原点です。その原点に今改めて帰ることができますように。主の御名によって祈ります。アーメン
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