2017年11月12日 主日礼拝説教

「主イエスを信じるために」

上野 峻一

ヨハネによる福音書 第2章1-12節

 私たちの出来事には、いつも主なる神が共におられます。時に、予想もしない悲しい、苦しい、悪としか考えられない出来事もあります。あるいは、反対に、心の底から喜ばしい、嬉しい、良いと思われる出来事もあります。けれども、様々に思えることのすべてにおいて、その出来事の本当の意味に辿り着いたということにはなりません。私たちは、いつも、ぼんやりとした中を、手探りで、戸惑い、迷いながら、一歩一歩と進んでいきます。そのような歩みです。しかし、そこに、光が差し込んできます。どこからともなく、私たちの世界の中に、神の出来事が起こります。権威ある言葉と不思議な業によって、私たちの人生の歩みが、私たちの出来事が、神と共にあるのだと、「私に従いなさい」と、力強く導く方が来られます。

 この出来事が、今日の聖書の箇所にも記されていました。主イエス・キリストの最初の奇跡と呼ばれる出来事です。ここにも、意味があります。それを、私たちは知りたいと願います。主がなぜ、このような奇跡を、この時、この場所でなさったのか。この「しるし」によって、何が起こったのか。その意味を知りたいのです。事が起こったのは、カナというガリラヤの小さな村でした。そこで、結婚式が行われることになりました。聖書には、「イエスの母がそこにいた」とあります。また、イエスさまだけではなく、弟子たちも婚礼の席に招かれています。これらのことから、恐らくこの婚礼は、主イエスと近しい親戚のものであったと考えられます。当時の婚礼の宴は、数日間、あるいは一週間にも及んだと言われます。客をもてなすために、たくさんの食事やぶどう酒を用意しなければなりません。ところが、気がついてみると、ぶどう酒が足りなくなっていました。これでは、婚礼を取り仕切る花婿が、準備が足りなかったと赤っ恥をかいてしまう。あるいは、こんな喜ばしい、嬉しい宴が、動揺や困惑の中でくずれさってしまう。そのようなことが起こったのです。

 母マリアは、このことを、そのままイエスさまの前に差し出しました。第2章3節以下、「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』」誰しもが、何とも、冷たい態度に感じてしまいます。これは、この事件と私とには関わりがない、自分は何もしないぞということでありません。原文を見ると、「わたしとあなたとの間にどんな関係がある」と、母マリアに言ったことだとわかります。それにしても、母親にいう息子の言葉ではありません。けれども、ここにも意味がありました。このことについて、改革者カルヴァンは、このように言います。「キリストは、母の言葉が間違って解釈され、あとに続く奇跡が、まるで彼女の命令で行われたかのように考えられる危険に、備えているのである。」確かに、そうかもしれません。これから起こる奇跡の主権は、主なる神さまにあります。主イエス・キリストが、神の出来事の中心におられるのです。もちろん、母も、そのことを悟っていたと言えるかもしれません。続く聖書の箇所には、「しかし、母は召使いたちに、『この人が何かを言いつけたら、その通りにしてください』と言います。」この言葉から、自分のことを「主のはしため」であると、謙遜に主の御前にひざまずく、あのマリアの姿を見られる気がします。このようにして、彼女は「主の時が来る」のを待ちました。ここでも、信仰者の姿とは、信じて待つ、待ち続けることだということが、よくわかります。そして、待ち続けた忍耐の先に、「その時」に、為すべき事が行われ、その本当の意味が説き明かされるのです。

 この場所には、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてありました。この婚礼の祝いに招かれた者たちの多くは、ユダヤ人であったと考えられます。彼らは皆、神が定めた律法に従って、汚れを洗い落とします。食事の前に手を洗うことはもちろん、他にもユダヤ人として、よくよく水を使いました。そのための水がめが、六つ置いてあります。七つではなくて六つです。聖書は、神さまの御業の完成として、7を完全数とします。その七には、一歩届かず六つの石の水がめです。いずれも、2ないし、3メレステ入りのものと記されています。この大きさを、私たちの生活でザックリ考えれば、1つの水がめは約100リットルです。大きなバケツなら大人2人で何とか抱えて運ぶ量です。100リットル入る石の水がめが、六つありました。それを前に、主の奇跡が起こります。第2章7節以下です。「イエスは、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召使いたちは、かめの縁(ふち)まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへと持って行きなさい」と言われた。召使いたちは運んで行った。世話役たちは、ぶどう酒に変わった水の味見をした。」

 世話役たちが、味を見た時には、既に水は、ぶどう酒となっていました。聖書をみても、一体いつ、どこで、どのようにして、水がめの水が、ぶどう酒に変わったのかわかりません。けれども、確かに、かめの縁まで満たされた水がめの水が、ぶどう酒に変わっていたのです。もちろん、世話役たちは「このぶどう酒がどこから来たのか」知りません。知っているのは、その水がめを任され、運んで来た召使いたちだけです。しかし、繰り返しになりますが、召使いたちも、どうやって、水がぶどう酒へと変えられたのかは、わかりませんでした。ヨハネ福音書は、私たちのこの「変化」の意味を伝えます。

 私たちは、主によって変えられなければならない者たちです。一番の問題は、自分自身さえ、そのことに気づいていないことです。古代の神学者アウグスティヌスは、自己中心性の中に罪をみます。他人のことなどはどうでもいい。自分さえよければ、自分さえ幸せなら、それでいい。自分以外の者を顧みず、神さえも忘れ去り、自分の力で、孤独に完璧になっていこうとする。人間の哀れな姿が浮かび上がってきます。しかし、主はそのような者を見捨てることはありませんでした。主イエスは、ご自分に定められた「その時」、このような愚かで、卑しい私どものために、その命を差し出されたのです。この神の出来事がなければ、私たちには救いがありません。自分のことしか考えず、出口のない暗闇を、罪の中を歩み続け、自ら滅びへと突き進んでいくしかないのです。ここに差し込まれた光があります。神の出来事です。暗闇から光の方へと歩み出す道が備えられました。この光の中を、主イエス・キリストという道を進むことが、私たちが、神によって「良い」とされる確かな生き方であると言えます。

 第2章9節です。このぶどう酒がどこから来たか知らない世話役は、花婿を呼んで言います。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、良いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」これは、花婿への嫌味でも何でもなく、事実を述べた言葉です。そのぶどう酒が、どこから来たものであったか知らないものでさえ、良いものは良いと認めます。なぜならば、それは事実、「良い」ものであるからです。主イエスの奇跡によって、変えられた者が、良くないはずがありません。もともとは、ただの水です。どこで組んできたかも知れません。けれども、主によって変えられたのです。神の出来事が起こりました。どのような不完全なものであったとしても、主によって必ず良きものされます。ここに、主のしるし、奇跡をみることができます。

 第2章11節「主イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで弟子たちはイエスを信じた。」時々、奇跡について言われることがあります。もし今でも、水をぶどう酒に変えたり、病をいやしたり、水の上を歩いたりする聖書の奇跡がたくさん起これば、もっとクリスチャンが増えるのではないか。確かに、そう言えるところもあるかもしれません。しかし、それと同時に、誘惑や疑いは、どんどん増えていくのかもしれません。奇跡によって本当に大事なものが、ますます見えなくなるでしょう。奇跡だけに心が奪われ、御言葉が軽んじられる可能性だってあります。だからと言って、奇跡が起きない、奇跡はないとは言いません。今も、この時代も奇跡は起きています。私たちが、それに気づかないだけです。信仰の目でみれば、主が私たちに与えてくださった「しるし」を知ることができます。主の栄光は現わされています。それを見たものが、主イエスを信じるのです。つまり、主イエス・キリストを救い主として、信じて生きている者たち皆は、主が現わされた栄光を、主がなさったしるしの目撃者であるのです。それを、語り伝えいくことが、主イエス・キリストを証しし、伝道していくことです。

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