2012年3月4日 主日礼拝

「この神の愛に、なお心動かぬ者は」 川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書 第7章24ー35節

確か、私が2010年この教会に赴任してまだ間もない頃であったと思いますが、この教会のある方から讃美歌のCDをいただいたことがありました。日本人のバリトン歌手が、日本語の讃美歌を歌っているものです。まったく知らない歌手でしたが、しかし聴いてみて、不思議な魅力を持った歌だと思いました。少し興味を持ってこの歌手についてインターネットで調べてみたら、興味深い言葉に行き当たりました。この人は、讃美歌第二編の184番、先ほど歌いましたこの讃美歌を、4節まできちんと歌うと表明した。そういう決断をした歌手として知られるというのです。ちなみにこの人は、声楽家という肩書きだけでなく、「音楽伝道者」という肩書きを持っているそうです。今仲幸雄という人です。ご存じの方はいらっしゃるでしょうか。音楽を通して、伝道のわざに仕える。その人が、その信仰に従って決断したことは、讃美歌第二編の184番を、きちんと4番まで歌うということであった。
そう言われてみれば、私も以前から気になっておりました。皆さんがお持ちの讃美歌の多くは、第4節の歌詞を載せていないと思います。「第4節は適切さを欠いたことばがあり削除しました」という、あまり気持ちの良くない言葉が小さな文字で印刷されていると思います。ですから、今日は3節までをご一緒に歌いました。しかし中には、第4節の歌詞が印刷されている版をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。私は、ずいぶん長い間、この削除されてしまった第4節の歌詞とはどういうものであったのか、気になりながら調べることもしておりませんでした。調べるまでもなく、すばらしい讃美歌だと思っていましたし、讃美歌がすばらしいというよりも、この讃美歌の典拠となった聖書の言葉がすばらしいと言うべきでしょう。ヨハネによる福音書第3章16節。宝のような言葉であります。今日このあとに祝います聖餐においても、この言葉を招きの言葉として読みます。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ひとり子イエスをお与えになったほどに、神はこのわたしをも愛してくださった。そしてその神の愛は、主イエスを十字架につけて、そのいのちをささげるほどの愛であったのだと明確に歌います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。多くの人が暗誦するほどに、心を捕えられてきた言葉です。たとえばどれだけ多くの讃美歌が、この聖書の言葉によって生み出されてきたことでしょうか。
しかし、この讃美歌にはなお第4節が続く。いったいどのような歌詞があったのだろうか。けれどもどうやって調べることができるだろうかと思ったら、私が以前から持っていた、しかしふだんあまり使っていなかった讃美歌にきちんとその第4節の歌詞が載っておりました。今日もその讃美歌を持ってここに立っております。こういう歌詞が続くのです。
かくまでゆかしき 神の愛に
なお感ぜぬものは ひとにあらじ。
「これほどすばらしい神の愛に、それでも心が動かない者は……人間ではないだろう」。讃美歌を持つ手が震えるほどの思いで、私はこの言葉を読みました。激しい言葉です。「ひとにあらじ」。人間ではあるまい。この言葉を漢文調に書くと「非人」となります。この言葉を、不適切であるとして削除してしまった日本基督教団の讃美歌委員会の決定は、もちろんその背後に、多くの人を苦しめてきた差別の現実があったことは私も理解しているつもりですが、それにしても残念な判断であったと、私は今でもそう思っています。他に方法はなかったのだろうかと、何とも言えない思いになりました。皆さんは、どうお考えになるでしょうか。「かくまでゆかしき 神の愛に なお感ぜぬものは ひとにあらじ」。
私がこの歌詞を読みました時に、ほとんど同時に思い出しましたのは、宗教改革者カルヴァンが書きました、ジュネーヴ教会信仰問答という信仰の書物です。子どもたちに信仰の教育をするために書かれ、今なお世界中の教会で大切にされている信仰問答です。その最初のところに、私どもの生きる目的は、神を知ることであると言い、私どもの最上の幸せもまた同じ、神を知ることであると言います。なぜか。神を知らない人間は、獣にも劣るからだと明確に言います。人間ではない、獣と同じだと言ったのではないのです。獣以下だと言ったのです。そしてこの信仰問答を書いたカルヴァンが、もしかしたら思い起こしていたかもしれないなと私が思いますのが、旧約聖書のイザヤ書の最初の言葉、第1章3節です。
牛は飼い主を知り
ろばは主人の飼い葉桶を知っている。
しかし、イスラエルは知らず
わたしの民は見分けない。
牛やろばでさえ、自分の主人を知っている。けれども私の民は、神を知らない。同じイザヤ書の第1章は、そのような神の民、イスラエルを神が重荷となさり、これを神ご自身が担ってくださるのに疲れ果てたとさえ記されております。深い畏れを呼び起こされるみ言葉です。「もうわたしは疲れた。あなたのために」。なぜ、神が疲れ果てるのか。私どもの心が頑なだからです。しかしそれはまた、神がそれほどに、私どもを愛していてくださるからだとも言えるのです。もし愛してなければ、疲れ果てることもありません。さっさと見捨てればいいのです。このような、神の愛と分かちがたく結びついている神の嘆きに、私どもはどれほど深く気づいているでしょうか。
今日読みましたルカによる福音書において、主イエスが子どもたちの歌う歌に託して語っておられることもまた、神の深い嘆きを映すものであります。31節以下です。
では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。
『笛を吹いたのに、
踊ってくれなかった。
葬式の歌をうたったのに、
泣いてくれなかった』。
広場で子どもたちが遊んでいる。何して遊ぼうか。皆さんの中で、果たしてそういう遊びをしたことのある方がいらっしゃるかどうか、ひとつは、お嫁さんごっこをしよう、結婚式ごっこをしようと言うのです。けれども誰も乗って来てくれない。それならばと、これはおそらく私どもはしなかったと思いますが、お葬式ごっこをしようかと言う。けれども「そんなのつまんない」と言って、誰も反応してくれない。そういう時に、「あ~あ、つまんないの~」というように歌った子どもの歌が、当時あったのでしょう。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかったじゃないか、葬式の歌を歌ったのに、泣いてくれなかったじゃないか」。その子どもたちの歌に、主イエスはご自分の心を重ね合わせておられます。主イエスも、そして洗礼者ヨハネも、神の歌を歌ったのです。神の喜びの歌を、そして神の悲しみの歌を歌った。そして、あなたがたも一緒に歌を歌ってほしい、心を合わせてほしいと願ったのに、誰も聞いてくれない、誰も歌ってくれない。そのことを嘆きながら、33節以下でこう言うのです。
洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
洗礼者ヨハネは、パンも食べずぶどう酒も飲まず、そのようにして人間の罪を悲しんだのです。神の悲しみの歌を歌い、その存在そのものが神の悲しみそのものになったかのような生き方をしたときに、しかし人びとは、あれは悪霊に取りつかれている、あそこに神のみ心はないと断じたのであります。けれどもまた、主イエスが当時罪人と呼ばれていた人たち、特に徴税人のような人たちと一緒に食事を楽しみ、お酒まで飲んでおられた時、まさしくそのように、主イエスが喜びの歌を歌っておられた時に、しかし人びとは、「何だ、あの食いしん坊の酔っ払いは。あいつも徴税人や罪人の仲間か」と言ってこれをさげすんだと言うのです。
主イエスという方は、どうもこの福音書の記述からすると、ずいぶんお飲みになったようです。キリスト教会の歴史の中にも、一方で禁酒禁煙を大切にするグループがある一方で、いやそんなことを言う必要はない、イエスさまだってお酒をお飲みになったではないかと言って、たとえばこの聖書の言葉が援用されることがあるかもしれません。しかし、まず当然のことを指摘しておきますが、この「大食漢で大酒飲みだ」という言葉は、主イエスに対する賛美の言葉ではなく、誹謗中傷の言葉であったのです。この言葉を酔っ払いの言い訳にするのは、福音書の文脈に沿うことではありません。しかも、もっと大切なことがあります。ある説教者がこの言葉を説き明かしながら、「食いしん坊の呑兵衛だ」というところで切れているのではなくて、それに続けて「徴税人や罪人の仲間だ」という言葉が続いているところが大事だと指摘しておりました。つまり、世の人びとが、いくら何でもこういう人とだけは食事をしたくないと考えた人びとを、主イエスは喜んでご自分の食卓にお招きになったのです。自分の気に入った仲間とだけ宴席を囲み、愚痴を言ったり、その場所にいない人の悪口を楽しむようなわれわれの酒の飲み方とは全く異なる。
主は、罪人を招かれました。人びとはそこに躓いたのです。本来、招かれるはずのない人から順に、招かれたのです。けれども、その〈罪人〉とは、実はわたしのことであったのだとすぐに気づくべきです。主イエスは赤ワイン、白ワインを愛された方でした。けれども、何よりも、私どもを愛してくださったのです。十字架の死に至るまで、その主の愛は貫かれた。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」であります。
主イエスの造られた食卓は、そのような神の愛が鮮やかに現れる場所となりました。神の喜びの歌が、はっきりと聞こえてくるような場所となりました。その場所に、まず最初に招かれたという徴税人、罪人と呼ばれる人たちは、どうも不思議な思いがしたかもしれません。どうしてこの人は、われわれのような人間と一緒に食事をしたがるのだろうか。どうしてこの人は、こんなにうれしそうな顔をしているのだろうか。そのことを訝りながらも、気づかされていったのではないかと思います。「神は愛なり」。神が、このわたしを愛してくださるのだ。神の愛についての理屈を聞いたのではありません。現にここで、自分たちのことを喜んでいてくださる、主イエスの喜びの声を聞いたのです。「ああ、わたしは今、人間として重んじられている」ということに気づいたのではないでしょうか。考えてみれば、徴税人という人たちは、他の人びとから、特にファリサイ派のような人びとから、はっきり言って人間扱いされていなかったようなところがあったと思います。そして徴税人たちもまた、「どうせ俺なんて」と開き直るように生きていたのだと思います。けれども、主イエスというお方に出会って、驚いた。このイエスという方は違う。わたしのことを、人間として重んじてくださる。わたしのことを、こんなに喜んでいてくださる。なぜこの人は、こんなに嬉しそうな顔をしているのだろうか。神が、喜んでおられるのだ。そのことに気づかされながら、自分たちもまた、その神の喜びに心を動かされるということが起こった。主イエスは、そのようなご自分を中心とした宴席を、神の国の喜びの席だとさえ言われました。今ここにも、その神の国が作られております。教会の歴史は、そのようなところから造られてきたのです。
主イエスは、28節で驚くべきことを言われました。「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」。なぜかと言うと、このヨハネが、主イエスを指し示す指となったからです。主イエスを指し示しながら、「神の国は近づいた」と言ったからです。このような言葉は、旧約聖書に出てくるいかなる預言者にも与えられなかったものです。けれども、「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。その神の国とは、主イエスが罪人たちと食事の席を造っておられる、その場所に見えてきたものであります。それほどに、神が私どもを重んじてくださるのです。
私が最近、とても喜んでいることは、日曜日の朝の求道者会がとても盛んになっていることです。数か月前に比べると、ほとんど考えられないほどの熱気ある集まりになっています。求道者、まだ洗礼を受けておられない方だけでなくて、最近洗礼を受けたばかりという人たちも出席してくださっている。むしろそういう方たちのほうが多いかもしれません。
先日、その求道者会で、洗礼を受けた時の話になりました。涙を流しながら洗礼を受ける人もいるけれども、そうでもないという人もいます。まだ洗礼を受けていない人からすると、洗礼を受けるとどうなりますか、何が変わりますか。そこが気になるところかもしれません。何も変わらないかもしれませんよ、ということにもなりかねないわけで……。けれども、こういうこともあるかもしれません。ある方がこの教会で信仰を言い表した。しばらくして、ある東京の教会の牧師から電話がかかってきました。神学校の、私より1年先輩の牧師です。先日誰それさんが信仰告白なさったそうだね。その人の親戚がうちの教会にいて、とても喜んでいたよ、と報告をしてくださった。ただその親戚の方が気がかりだったことは、司式をした牧師(つまり私のことですが!)がぽろぽろ泣いているのに、本人はずいぶんケロッとしていた。それが申し訳ないとおっしゃっていたよと、電話で聞きまして、こちらが恐縮してしまいました。けれども、案外そういう経験をしている人は多いかもしれません。自分が心を動かされている以上に、けれども、おや、どうしたことか、なぜこの牧師はこんなに嬉しそうなのだろうか。なぜこんなに泣いているのだろうか。以前にもお話ししたことがあると思いますが、私の妻が洗礼を受けた時、特に大した感激もなかった。けれどもむしろ不思議だったのは、教会の人たちがやたらと「おめでとう、おめでとう」と声をかけてくれる。何がそんなにおめでたいんだろう、この人たちはどうして自分の洗礼をそんなに喜んでいるんだろう。そのことがむしろ驚きであったと言いました。
ですから、私が洗礼を受けようとする人の準備をする時に、必ず言うことがあります。この教会で洗礼を受けると、ただ礼拝後に紹介されるだけでなく、そのあと玄関に立つことを求められて、次々に教会の人たちが「おめでとうございます」とあいさつをしてくれます。そのことを大切にしてほしいと、私は必ず言います。何がめでたいんだか、実感が湧かないということが、もしかしたら起こるかもしれない。それでも、「おめでとう」と言われることを大切にしてほしい。それは、神ご自身があなたのことを喜んでいてくださる。その神の喜びを大切にしてほしいということです。その神の喜びに巻き込まれるようにして、自分の心の中にも喜びが生まれてくるということが、きっと起こります。
29節に「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた」とありました。「神の正しさを認めた」という言葉は、「神を義とした」とも訳し得る言葉です。教会の歴史の中で、この「義とする」という言葉は大切な意味を持つようになりました。救われるということは、「神に義とされる」ことである。神は、私どもを罪人として裁くのではなく、義としてくださる。けれどもここでは、人間たちが神を義とすると言うのです。私どもを義としてくださる神を、私どもも正しいと認める。洗礼を受けるということは、そういうことです。「神よ、あなたのお考えは正しい」と受け入れることです。そのように、神の喜びの歌に心を合わせるのです。
ですからある人は、このところを「心から神を讃美した」と訳しました。語学的にはずいぶん思い切った意訳だと言えますが、その趣旨をよく伝えていると思います。神の歌を聞きながら、自分たちもまたその歌に心を合わせるように、洗礼を受けたというのです。
実は今日お読みしたところに、もうひとつ、「義とする」という言葉が出てきました。35節、「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」。これも、「知恵は、その子どもたちによって義とされる」という言葉です。新共同訳はずいぶん大胆な意訳をしたことになります。
「知恵」とはもちろん、人間の浅知恵ではなく、人間には計りがたい、神の深いお考えのことです。人間には計りがたい神の喜びのことであり、悲しみのことであると言い換えてもよいと私は思います。その神のご意志がどこで明らかになるかというと、「その子どもたちによって正しいとされる」。「神のみ心の正しさは、その子どもたちを見れば分かる」と言ってもよいのです。この教会を造っている私どものことです。今は、神の愛に心を動かされている私どものことです。その私どもの喜びを見て、洗礼を受けた人が神の喜びに気づかされるということさえ起こるのです。
讃美歌第二編184番は、「神の愛に心動かされない者は、人にあらじ」と歌います。かなりはっきりとした、呪いの言葉です。けれども私どもが決して忘れてはならないことは、実際に呪われて殺されたのは、むしろ主イエスであったということです。「罪ゆるされんため われにかわり、み子イエス十字架に 死にたまえり」。神が歌われたのは、喜びの歌だけではありません。主イエスが十字架につけられた時、そこで歌われた神の悲しみの歌は、本当に深いものがあります。けれども私どもは、今は知っております。ここに、神の愛が明確に示されました。なぜ神は、そこまでなさらなければならなかったか。そうでもしなければ、私どもの心が動かなかったからです。神の御心に心を合わせることができなかったからです。けれども今は、私どもも神を知りました。神の御心を知りました。今、心新たに、神の歌に心を合わせ、歌を合わせたいと願います。ここに、人間が、最も人間らしく生きる道があるのです。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、あなたに出会って、私どもも、ようやく人間になることができました。それほどに、私どもを大切にしてくださった、あなたの御心を心から感謝いたします。あなたの悲しみを共に悲しみ、あなたの喜びを私どもの全存在をもって担うような、そのような教会であることができますように。どうぞ私どもの固い心を、あなたがいつもみ言葉をもって、柔らかく耕し続けてくださいますように。何よりも主の十字架を、いつも鮮やかに仰ぎ続ける教会であることができますように。主イエス・キリストのみ名によって感謝し、祈り願います。アーメン
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