2012年4月1日 主日礼拝

「主イエスの求める涙」 川﨑 公平 牧師

ルカによる福音書 第7章36-50節

4月1日、新しい年度を迎えました。特に私どもの教会にとって、いろいろな意味で、新しさを感じる年度替わりになったと思います。4年間この教会で奉仕なさった落合先生をはじめ、先週はここにいたけれども、今日はもう別の土地で新しい教会生活を始めておられるという方が何人もいます。しかしまた、新しく大澤正芳先生、みずき先生をこの教会の牧師として迎えて、新しい年度の歩みを始めています。特に今週あたり、大澤両先生に新しいお子さんが与えられるかもしれないということを、私どもはよく知っております。さまざまな別れがあり、また新しい出会いがあり、そのようにしてこの教会の歩みが造られてまいります。新しいこの教会の歩みの上に、改めて主イエス・キリストの祝福と導きを祈ります。
新年度最初の日曜日、いつものようにルカによる福音書を読み進め、第7章の36節から最後までを読みました。本当にすばらしいみ言葉を神が与えてくださったと、心から感謝しながら説教の準備をいたしました。シモンという名前のファリサイ派の人が、自分の家に主イエスを招いて食事をしていました。もしかしたらこのシモンという人も主イエスに対する愛と尊敬の思いを抱いていたのかもしれません。ところがその食事の席で、ひとりの女が涙を流しながら主イエスに近づき、「泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」。そのような異様な出来事が起こりました。それがきっかけとなり、ファリサイ派シモンと主イエスとの間に、忘れがたい対話が生まれました。
既に先ほど、私の聖書朗読をお聞きになりながら、皆さまの心のうちにもさまざまな思いが生まれたのではないかと思います。どういう感想をお持ちになったか。このようなみ言葉を読みますと、私がひとりでここに立って説教するよりも、むしろ皆さまの思いを、ひとつひとつ伺いたいような思いさえいたします。いやむしろ、そういうことすらせずに、ただ黙って、誰ともしゃべらずに、この聖書の言葉をじっと静かに思い巡らすということをすべきではないかと思いました。自分がこの罪深い女だと思ってみて、あるいは、自分がこのファリサイ派シモンだと考えてこの聖書の情景を思い浮かべて……。あるいはまた、この時の主イエスの思いはどのようなものであったであろうか、そのことを思って聖書を読んでみる。それだけであっという間に時間が過ぎると思います。
私がこの福音書の記事を読みまして、ふと思ったことは、「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」。いったい、これだけのことをするのに何分ぐらいの時間が必要だったかな、ということです。福音書はまことに簡潔に書いておりますが、実際には、1分、2分で終わるようなことではありません。これは、それこそ皆さんにもよく想像力を働かせて、その場面を思い巡らしていただきたいことですけれども、まことに静かな、そして非常に長く感じる時間であったと思います。当時の人たちが食事をする時には、椅子に座ってテーブルで食事をするのではなくて、床にごろんと横になって食事をしたそうです。私は左利きですけれども、たいていの人は右手で食事をするでしょうから、左肘をついて横になって、足を食べ物がある方とは反対側に投げ出すようにして食事をしたと言われます。だから、36節や37節に「食事の席に着く」と訳されている言葉も、本当は「横になる」という言葉なのです。そのように、横というか、後ろに投げ出されている主イエスの足もとに、ひとりの女が後ろから近づいて、涙で足をぬらし……。周りにいた人たちはびっくり仰天したと思います。その女が主イエスに近づいたというだけで、あっと声を上げた人がいたかもしれません。
けれども何よりも人びとを驚かせたことは、主イエスがその女の行為を黙って受け入れておられたことでしょう。5分ぐらいであったか、もしかしたら10分、15分、20分とかかったか。とにかく周りの人びとからすれば、限りなく長く感じる時間であったに違いないと私は思います。誰も何もしゃべりません。静かな時間だったと思います。女の泣く声は聞こえたでしょうか。足に接吻する音、香油を注ぐ音が、静かにその部屋に響きます。その静かな時間、私どもは何を思うか。その静けさとは正反対に、人びとの心の中は静かではなかった、穏やかではなかったと思います。この女はいったい何をしているのだろうか。なぜこんなに泣いているのだろうか。そして、足を投げ出したまま、この女の行為を黙って受け入れておられる主イエスという方は、いったい何者なのだろうか。この女は町でも悪名高い罪深い女ではないか。しかし、そのような呟きを口に出すわけにはいきません。静かな時間であったと思います。
しかしまた、私は思います。主イエスはその静かな時間、何を考えておられたでしょうか。この女の涙を、喜んで、受け入れておられたのでしょうか。イエスさまは、嬉しかったでしょうか。周りにいる人びとの心の内の呟きを既に聴き取って、何を思われたでしょうか。それとも、もしかしたら主イエスは既に、この女のためにもわたしは十字架につけられて殺されるのだということを、むしろ重く、悲しく受けとめておられたのではないかとも思います。その主イエスの喜びと悲しみが入り混じるようなお心を黙想するだけでも、許されるならば何時間でも過ごすことができると思います。そのことがまず私どもにも求められているのではないかと私は思いました。皆様はこの聖書の言葉を読んでどう思われたでしょうか。
もうひとつ私がこの聖書の記事を読みまして思ったことがあります。先週の日曜日、この教会で6年間教会生活をなさり、そして5年間神学生としての生活をなさった池田慎平神学生が、この場所に立って礼拝の司式と説教をいたしました。東京神学大学での学びを終えて、今日から、名古屋の金城教会で伝道師としての働きを始めておいでです。先週、その説教の中で、池田先生が初めて鎌倉雪ノ下教会の礼拝においでになった時のことをお話しになりました。その姿を見ながら、その言葉を聴きながら、私は10年前の自分自身のことを思い出しておりました。
10年前、私も神学校を卒業して、私の場合は最後の日曜日に説教するというような機会はありませんでしたけれども、母教会での最後の日曜日、礼拝の後に別れの挨拶をしました。東京の国立教会という、規模で言えば教会員数も礼拝出席者数もちょうどこの鎌倉雪ノ下教会の半分ぐらいの大きさの教会で、9歳から27歳まで、小、中、高、浪人、大学、神学校と、ずいぶん長く生活しました。その教会を離れて、次の日曜日からは松本の教会の伝道師として、毎週自分で説教する生活が始まる。そのような3月最後の日曜日、礼拝の後に挨拶をした。私のほかに、転勤などでやはりその教会を離れる方がふたりくらいいたと思いますが、私は最後に挨拶をしました。その挨拶をする、その瞬間まで、まったく予測していなかったことが起こりました。急に涙が溢れてきて、ほとんどまともに話ができないということが起こりました。自分でも予想していなかったことで、本当に驚きました。人前で話をするときに、つい泣いてしまうという私の悪い癖は、どうもそのあたりから始まっているようです。しかし、それにしても言葉が通じる程度の泣き方じゃないとまずいだろうということを、あとから反省したほどです。その姿を見ていた国立教会の人たちは、何しろ小学生の時から教会に来ていた公平くんのことですから、温かく見守ってくれていたような気もしますが、それにしても心配されてしまったのではないかと思います。この人、だいじょうぶかな。27歳にもなって。来週から松本の教会で、本当にひとりでやっていけるのかな。けれどもおそらく、教会の人たちは、なぜ私が泣いていたか、その理由を知らなかったと思います
私はその時、自分の犯した罪を思っていました。18年間過ごした教会堂のたたずまい。そこで出会った教会の人たちの顔。若い人たち、年老いた人たち、子どもたち、たくさんの出会いがありました。子どもの頃から私のことをよく知っている人たちもたくさんいます。結局神学校に行ってしまったくらいですから、教会のいろんなことを一所懸命しました。一所懸命教会生活をすればするほど、しかしそこで犯した罪もまた大きく、深いものになっていきました。そのような教会の人たちの前に、自分の全身をさらした時に、恥を忍んで申しますが、私は本当に声をあげて泣きそうになりました。それだけは全力で抑えました。繰り返しますけれども、まったく予測していなかったことです。深い悲しみと、申し訳なかったという思いと……しかしそれだけではなかったと思っています。今でもよく思い出すことのできる教会堂のたたずまい。わたしはここでイエスさまに出会わせていただいたのだ。その主イエスは今もここに生きておられる。そのことを思っていました。
この罪深い女が主イエスの足もとで涙を流したという福音書の記事は、教会の歴史の中で、本当に多くの人たちに愛されてまいりました。たくさんの人が、この聖書の言葉について、さまざまな言葉を残しています。人の心を捕えて離さない、不思議な力をもった記事だと思います。ある人がこの聖書の記事について、たいへん文学的な表現で、こういうことを言っていたのが特に心に留まりました。彼女が主イエスの足もとで流した涙、その一粒一粒に、彼女の物語が込められていた。深い悲しみ、苦しみ、心の渇き。何よりも、ここには彼女の罪を悔やむ思いが込められていた。いったいこの女がどういう罪を犯したのか、昔からさまざまな推測がなされましたけれども、聖書は何も教えてくれませんから、無理に推し量ることはできません。ただこの物語が単純に語ることは、ひとりの罪深い女が、主イエスの前で涙を流したということです。
彼女の人生全体が凝縮したような涙であったと思います。何よりもその罪を悔やんで流された涙が、主イエスを愛するささげものとなって、その足もとに注がれました。この女は、主イエスを愛していたのです。そしてその愛を受け止めていてくださる主イエスのお姿に、どれほど多くの人たちが慰められてきたでしょうか。私自身のこととして思います。むしろこの女は、いつも泣いてばかりいた人ではなかったと思います。もしかしたら、何十年も泣くことができなかった人ではなかったかとさえ思います。人びとから後ろ指を指されながら、けれども一所懸命心を固く、冷たくして耐えてきた。人間というものは、自分の罪に気づけば気づくほど、ますます頑なになるものです。ますます罪深くなるものです。けれども、主イエスの前に立った時、心が温められて、初めて悔い改めることを知ったのです。涙を流すことを知ったのです。この人は私の罪を知り、そして赦してくださる。この人の前でなら、安心して涙を流すことができる。私どもが心を打たれるのは、この女の涙そのものではなく、それを受けとめていてくださる主イエス・キリストのお心であります。
しかしこの時、ファリサイ派のシモンは、ここで何が起こっているのか理解することができませんでした。だからこそ主イエスはシモンのために、ひとつのたとえを用いて説明してくださいました。41節以下であります。
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。
ここは単純に考えますならば、500デナリオンを赦してもらったのがこの罪深い女で、安い方の50デナリオンを赦してもらったのがファリサイ派シモンであると、そのように読むことができるかもしれませんけれども、主イエスは、その点を明確にしておられません。ただ、多くを赦された者は多く愛するものだ、と言われただけです。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(47節)。なるほど、もしかしたらシモンは、ここでより少なく赦してもらった、50デナリオンの人にたとえられているのかもしれませんけれども、むしろ主イエスはここでシモンに対して、あなたももっと大きく赦されてほしい、そしてもっとわたしを大きく愛してほしい、この女のように、とシモンを招いてくださったのではないかと思います。私どもも、今、招かれている。招かれたら、その招きに応えたら、いったい私どもに何が起こるでしょうか。招きに応える勇気があるか。多く赦されなければならない自分自身を受け入れることができるか。まずそこでたじろいでしまうかもしれないと思うほどの主イエスの言葉であります。
主イエスは44節でこうも言われました。「そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。『この人を見ないか』」。この、「この人を見ないか」という新共同訳の翻訳は、原文のギリシア語を読みますと、実はずいぶんうまい工夫をして訳されていることが分かります。「この人を見ないか」。ファリサイ派のシモンが、この女をよく見ていなかったことを暗示しています。どうしてあなたは、この女を見ないのか。いや、シモンは見ておりました。見ていたけど、見えていなかった。
しかし、このところは原文のギリシア語を読みますと、必ずしも疑問文に訳す必要もない言葉です。最も単純な訳し方をすると、「あなたはこの女を見ている」という文章です。あなたはこの女を見ているね。この女のしたことを、一部始終よく見ていたね。もっとよく見てほしい。もっとよく見て、気づくべきことに気づいてほしい。
「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」(44~46節)。主イエスはここで、この人を見ないか、この人を見てほしいとおっしゃりながら、明らかにシモンにも泣くことを求めておられる。主イエスを愛するがゆえの涙、多くを赦されたがゆえの涙です。
皆さんは、泣いているでしょうか。
この36節以下を読みます時に、どうしても省略することができないみ言葉が、これに先立って第7章31節以下にルカが記している主イエスの言葉です。先々週発行されました雪ノ下通信の3月号に、この部分の説教を載せました。「この神の愛に、なお心動かぬ者は」という説教題をつけました。そこで私が特に中心的に説き明かしたのが31節、32節のみ言葉であります。読み返していただくことができればありがたいと思う説教です。
「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。
『笛を吹いたのに、
踊ってくれなかった。
葬式の歌をうたったのに、
泣いてくれなかった』。
主イエスは、子どもたちが広場で遊んでいる時の歌に託して、なぜわたしと一緒に泣いてくれないのか、なぜわたしの心にあなたがたの心を合わせてもらえないのかと、嘆いておられます。それは、「今の時代の人たち」と言われておりますけれども、まさに現代の心をそのまま説き明かしたようなみ言葉だと私は思います。涙を失っている。主イエスと共に流すべき涙を流すことができなくなっているのです。まさにそのことを、主は嘆いておられる。そしてルカによる福音書は、それに続けて今日読みました36節以下の記事を書きながら、この罪深い女こそ、主イエスの呼びかけに応えて、共に涙した存在であると言いたかったのではないでしょうか。
今日から、教会の暦で言うと、受難週が始まります。明日月曜日から金曜日まで、毎朝毎晩、祈祷会をいたします。牧師だけが聖書の説き明かしをするのではなく、教会員の人たちに聖書を説き明かしていただくという、この教会で長く続けられてきた習慣を今年も続けます。さまざまな事情で祈祷会に来ることのできない方が多いということは、よく承知しております。しかし、最初から自分は出席は不可能だと決めつけないで、どこか一回だけでも来ることはできないかと、もう一度考え直していただければありがたいと思います。このような祈祷会ですることもまた、神のみ思いに私どもの思いを合わせていく、そのような歩みであると思います。週報に、祈祷会で読まれる聖書の箇所をすべて印刷しておきました。祈祷会に来ることができなくても、その聖書のみ言葉を読み続ける生活を造っていただければ、それだけでもありがたいと思います。
明日月曜日の朝は、嶋貫神学生が奨励をなさいます。マルコによる福音書第14章の最初の部分、そこにも思いがけず、今日読みました記事とそっくりな場面が出てきます。主イエスが十字架につけられる二日前のことであったと言います。主イエスが、(ここに出てくるファリサイ派のシモンではなく)重い皮膚病のシモンという人の家で食事をしておられた時に、ひとりの女が近づいて、自分の大切にしていた香油を主イエスの頭から注ぎかけた。その時、主イエスはこのようなことを言われました。この女がしていることを咎めないでほしい。この女は、わたしの葬りの準備をしてくれたのだ。それもまた、異様な出来事であったと思います。周りの人びとが言葉を失うほどの出来事であったと思います。主イエスのお心はどのようなものであったでしょうか。主イエスはその時、喜んでおられたでしょうか。嬉しかったでしょうか。しかしまた、わたしはこの女のためにも、十字架につけられて殺されるのだということを、重く受け止め直しておられたのではないでしょうか。悲しみと、ひとりの女性の思いがけない愛のしるしを受けたその喜びとが、入り混じったような主イエスの心であったのではないかと私は思います。
私どもが受難週の歩みを造り、聖書を読みながら、しかし私どもの心が神のみ心によって動くことがなければ何にもなりません。主イエスは私どもをも招いておられます。この女の姿を見てほしい。そして、あなたももっと多く赦され、もっと大きくわたしを愛する者になってほしい。
この神の愛に心動かされ、柔らかな心をみ前にささげることができる、そのような受難週の歩みを造りたいと心から願います。皆さまひとりひとりの心を、神の聖霊が動かしてくださいますように。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、私どもの心の頑なさを思います。もう一度、初めてあなたに出会ったあの時のように、あなたのみ心に心動かされる経験を、今ここですることができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン
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