2017年8月13日 主日礼拝説教

「あなたは何者ですか」

上野 峻一

ヨハネによる福音書 第1章19-28節

 「あなたは何者ですか。」そのように、本日の説教の題を付けました。今日の聖書の箇所からすれば、洗礼者ヨハネが問われた「あなたは、どなたですか」ということです。「あなたは一体、何者か。」あるいは、「わたしとは、誰なのか。」これら問いは、私たち人間が、その生涯において問われ続けるものです。もちろん、こういう問いで悩むのは、思春期や青年期の若者に多いのかもしれません。しかし同時に、歳を重ねて、社会で活躍して、生涯の終わりが見え始めると、私たちは、もう一度、この問いと向き合わなければならないはずです。それまでは、一応それなりに自分自身というものに納得して忘れていたことが、再び顔を出してきます。時が経ち、社会での立場や、家族や友人との関係が変化する中で、改めて、私という一人の人間が、この世界にたった一人しかいない特別な存在が、「何者であるのか。」この問いに、確信をもって答えつつ、生きることが必要かもしれません。

 「さて、ヨハネの証しはこうである。」そのように、今日の新約聖書の箇所は始まりました。これより、ヨハネという一人の人物が、「あるお方」を指し示す具体的な出来事が語られていきます。この前の箇所までは、「ヨハネが証しをする」ということは言われていましたが、それは非常に説明的なものでした。それが、ここからは、具体的な出来事として語られていきます。「証し」という言葉は、裁判に使われる用語です。何かの証言です。事実は事実として、そうでないものは、そうではないと、自分が見たことを、そのまま伝えるという意味です。それが、この箇所から始まります。そして、「ヨハネの証しはこうである」と始まって、徐々に証しをしたヨハネが消えていくことに意味があります。ヨハネは、「あるお方」を指し示し、その役目を終えて、この地上を去っていきます。それが、洗礼者ヨハネという人物です。それは、まるで、山びこのように、山の上で叫んだ声がこだまして、少しずつ遠くへ行ってしまうように、ヨハネ自身もまた、やがて消えていく者だということです。

 このヨハネとは、何者なのか。そのことを問いかけたのは、ユダヤ人たちでした。彼らは、ユダヤ人の中でも、政治をつかさどる立場にあった地位の高い人たちと言われます。福音書の中で、主イエス・キリストを十字架へと追いやった者たちです。その者たちが、祭司やレビ人を遣わして、ヨハネに問いかけます。「ヨハネは、公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した」とあります。ここでの言葉の意味は、はっきりと認め、否定しないということです。自分が何者であるか、とはっきりと力尽く言い切ったのです。ただし、そのやり方は、「自分は~ではない」という否定からの始まることでした。ヨハネは、はじめに、自分はメシアではないと言います。メシアとは、キリスト、油を注がれた者、救い主のことです。ヨハネが、人々に洗礼を授けていると知ったユダヤ人たちは、彼こそが、世が待ち望んだ救い主ではないかと考えました。けれども、そうではなかった。「では何ですか。あなたはエリヤですか。」エリヤは、旧約聖書の預言者の一人です。生きたまま天にあげられ、終わりの日には再びやって来ると信じられていました。それも、違う。さらに「あなたは、あの預言者なのですか。」あの預言者とは、旧約聖書の中でも、一番有名なモーセです。主なる神さまは、やがてモーセのような神の言葉を語る預言者を立てると、旧約聖書で約束されています(申命記18:15以下)。しかし、そうでもない。「では一体、誰なのか。私たちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だというのですか。」いよいよ、彼らは、自分たちで考えられる答えを出し尽くしたようです。ヨハネ自身が、いよいよ自分は何者であるのかを語り出します。ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いていった。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

 ヨハネは、自分はメシアでもない。エリヤでもない。あの預言者でもないと、自分に考えられる可能性を次々に否定していきました。「自分は違う」「そうではない」と、自分で様々な自分自身を削ぎ落としていきました。そうして、出てきたヨハネという人物は、荒れ野で叫ぶ「声」という存在でした。それは、やがては消えていくものです。一見すると、その声に、どんな自分がいるのかと疑いたくなるものです。その声が、一体誰のものかもわからない可能性だってあります。顔も見えず、誰にも届かず、かき消されていくかもしれません。しかし、大切なことは、この声が、その時、その場所で、確かに叫ばれる必要があったということです。実は、そのことが、この聖書箇所では、はじめから貫かれています。ヨハネによる福音書が、他の福音書と違うところの一つは、洗礼者ヨハネが活動した場所の名前がはっきりと出てくるところです。今日の聖書箇所の最後、第1章28節には「これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった」とあります。現代では、このベタニアという場所の特定は困難であるとされます。けれども、確かに、2000年前のある時期、この場所で、ヨハネという名の者が洗礼を授け、それが広く知れ渡っていたことは事実でした。そこには、このヨハネという人にしかできない使命がありました。

 ヨハネは、ユダヤ人たちに問われます。「メシアでも、エリヤでも、あの預言者でもないのに、なぜ洗礼を授けるのか。」それは、別の言い方をすれば、「何のために、何のつもりで、そんなことをしているのか。」ということです。洗礼は、やがて来る終わりの時、救いへと至る確かなしるしです。それは、神から特別な召しを受けたものしか許されていないことです。メシアでも、エリヤでも、あの預言者でもないなら、洗礼など授けていいはずがないと言えるでしょう。また、「何の意味があって、お前のような人間が、洗礼を授けているのか」と、今起こっている現状を理解できないという思いがあったかもしれません。今この時、この場所で、洗礼など授ける必要があるのかという疑問です。これに対して、ヨハネは、自分の使命を明確に答えます。それは、ヨハネという存在が、声であるヨハネが、何者であるかということの決定的な理由です。「ヨハネは答えた。『わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人は、わたしの後から来られる方で、わたしはその履き物のひもを解く資格もない。』」履き物のひもを解くことは、奴隷がしていた仕事です。「資格もない」という元々の言葉は、そのような価値はない、それをするに値しないという意味をもっています。つまり、自分は、その方と比べたら奴隷以下の存在であって、まして、その人に触れることなんてできないということです。ヨハネは、ここおいて、自分の後から来るその方によって、その方によってこそ、自分自身が一体何者であるかを伝えます。

 人間という生き物は、集団の中で、共同体の中で生きる者です。反対に言えば、人間という存在は、そのような共同体の中でしか生きることができません。しかし、それだけでは、決していつまで経っても、真実の自分の姿は見つかりません。私たちが、本当の自分を知るためには、「あなたは何者ですか」という問いに答えるためには、確かに、向き合うべき、問いかけるべき方が必要なのです。私たちが、自分を知るには、まったく曇りのない鏡と向き合わなければなりません。真実を映し出す方にこそ問いかけなければならないのです。それが、ヨハネが指し示したお方、神の御子である主イエス・キリストです。それは、まったく曇りのない鏡であるイエス・キリストと、自分という人間を見比べることです。家族も、友人も、先生も、もちろん私のことを知っています。鏡というものがなければ自分自身を見ることはできません。人間は、共同体の中で、関係性の中で、「自分が何者なのか」という答えを見出していきます。けれども、また、それだけが本当の自分でないことは、私たち自身がよく知っています。どれだけ信頼できる人に聴いても、どれだけ自分と比べても、自分自身を正確に映し出す鏡とはなり得ません。それだからこそ、私たちは、聴くべき御言葉があります。それが、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」ということです。私たちには、神の愛によって、既に、言が肉となり、私たちの間に宿られたお方がおられます。その方が、確かに、おられるのだと、その方を指し示すのが、ヨハネの使命でした。その声に耳を傾け、私たちは、神であられる主イエス・キリストと向き合うのです。

 今日の旧約聖書の箇所で、モーセは、神に問います。「わたしは何者なのでしょう。」神は、何よりも、先に答えます。「わたしは必ずあなたと共にいる。」いつも共におられるお方、私たちを確かに映し出される方と、しっかりと向き合い、私が何者であるか、真実の姿を知るのです。けれども、忘れてはならないことは、主イエスと向き合い知る人間という存在は、決して光り輝く、美しい自分ではありません。主イエス・キリストの苦難と十字架という出来事を通して、また神の愛そのものであるイエスさまを知って、私たちは自らの罪を明らかにされます。愛のない自分の姿を突きつけられるのです。私を愛し、私のために命をささげられた方さえも、愛することのできない、醜い自分に気づかされます。しかし、それだからこそ、そのような人間だからこそ、主なる神さま以外にはより頼むべき方はおられないのです。なぜなら、そのような私たちの罪を赦し、すべてを受け入れてくださる方、主イエス・キリストだからです。私たちのために命を捨て、死に打ち勝ち復活された神の子だからこそ、恐れずに、すべてを委ねることができます。この方が、私たち一人ひとりと、今も、これからも共にいてくださいます。あなたは何者ですか。私たちは、どんな時も神に愛されて生きる神の子どもです。それは、主なる神さまに問いかけ、主イエス・キリストを見つめてこそ、恐れずに自分と向き合い知らされてゆく出来事と言えます。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください