2017年7月23日 主日礼拝説教

「メリークリスマス?!」

上野 峻一

ヨハネによる福音書 第1章14-18節

 この世界には、数え切れないほどのたくさんの物語があります。その中に、毎年、必ず、ある時期になると繰り返し語られる物語があります。それは、今から2000年ほど前、パレスチナ地方のベツレヘムという町で起こった小さな小さな出来事です。ところが、その物語は、数多ある他の物語とは、決定的な違いがありました。なぜなら、その物語は、神の物語であったからです。「言は、肉となって、わたしたちの間に宿られた。恵みと真理は、イエス・キリストを通して現われたからである。」私たちが、今も生きる世界に起こった神の出来事、それが、クリスマスの物語です。

 鎌倉雪ノ下教会では、数年前から、ウェルカム礼拝」と題して、普段にあまり教会に馴染みのない方をお誘いするための礼拝をしています。メッセージのタイトルは、「メリークリスマス?!」ある教会では、毎年12月には「クリスマスは教会へ」と、教会の前に大きな立て看板を立てているようです。どれだけ、教会や聖書に馴染みのない人でも、クリスマスならば、「教会」ということが、何となく思い浮かぶかもしれません。もちろん、それだけの理由で、今日の聖書があるわけではありません。ヨハネ福音書を最初から順番に読んでいて、今日たまたまクリスマスに読まれる箇所となりました。偶然与えられた箇所ですが、ここにも神の導きがあると信じています。教会に来てもらいたい理由は、ただ一つです。主イエス・キリストという方を知ってもらいたいのです。そして、願わくは是非この方を信じて、受け入れて生きて欲しい。なぜなら、それが、その人の掛け替えのない物語を豊かにし、神の愛のうちに幸せに生きることだと、確信しているからです。ただ、このことを、お勧めしたいと教会は、祈りつつ神と人とに仕えています。

 クリスマスとは、主イエス・キリストの誕生を祝う日です。けれども、教会は、主イエス・キリストが、この世界に与えられたという喜びの出来事を、何もクリスマスだけに覚え、感謝し、賛美するわけではありません。神の子、救い主が、私たちのために来られたというのは、教会が年がら年中、いつも語り、覚えていることです。ある意味、クリスチャンは、クリスマスではなくても、いや、日曜日の礼拝ではなくても、仮に教会に来ない時でも、主・イエスが、この私の救い主として来られたと、神の深い愛を思い起こし、心穏やかになったり、励まされたり、力づけられたりします。それは、神がいつも私たちと共におられるからこそ起こるのです。神の豊かな恵みとは、どんな時も、どんな所にいても、私たち一人ひとりに与えられています。

 実は、この「恵み」というものは、イエス・キリストを救い主と生きるクリスチャンであっても、あるいは、まったくイエス・キリストのことを知らない人、まして教会や聖書も知らず、神などいるもんかと言う人であっても、すべての人に等しく与えられている神の恵みです。イエスさまが、「敵を愛しなさい」と言われたことは有名ですが、その理由の中で、「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるから」と、言われます。神の恵みは、皆に等しく与えられているのです。また、今日のヨハネによる福音書を読み進めると、「神が、この世を愛されている」ということが、確かに語られます。そして、神は、この愛のゆえに、独り子なるイエス・キリストを犠牲にしてでも、世界を、人間を救われたと言います。つまり、神が、この世界を、そして、私たち一人ひとりを愛しているということが、教会が発信する聖書の大事なメッセージなのです。

 皆さんは愛されていますか。ここで、即答できる人は、「幸せ」と言えるかもしれません。結婚すると、恋人同士の時のような恋愛とは違って、徐々に相手が冷たくなると、結婚前に散々友人たちから脅されました。ところが、例えば、教会の中を見てみますと、教会員のご夫婦の先輩方が、愛し合っていないとは、どうにも思えません。それは、「牧師の目が節穴だから」と言われてしまえばそれまでですが、恐らくそうではなくて、それは愛し方が、愛の表現の方法が、変わっていっているからではないでしょうか。世の中には、様々な幸福論があります。しかし、「幸せ」とは何かと、一言で言うならば、愛という関係があるかないかです。もちろん、「愛されていますか?」と問われた時に、ちょっと考えてしまって、「いや、最近一人でご飯を食べる日が多くなった。そう言えば、今日は誰とも会話をしない」とか。「日々、病院に行くことばかりだ。収入もどんどん少なくなっていく」など、振り返ってみて、「孤独や寂しさ」あるいは、「病気や人生の不安」を思うと、私たちは「幸せ」を見失います。幸せだったものが、別の何かにすり替えられて、不幸なんだと感じるのです。本当は、私たちは、誰しもが幸せであるはずです。いや、神が私たちを愛しておられるから、幸せでないはずはないのです。

 「愛の反対は、無関心。」そう言ったのは、マザー・テレサでした。道端で一人孤独に死んでいく貧しき者たちを見て、彼女は、神の愛とは、主イエス・キリストが来られた意味とは、この者たちを、決して一人にしないことだと悟りました。私たちも、もし神の子である主イエス・キリストが、この地上に来られなかったとしたら、「幸せ」という本当の意味を知ることができなかったと思います。「愛されたことのないもの、愛を知らないものは、愛することはできないのです。」けれども、仮に、自分を生み育てた親を知らず、自分を理解する友もおらず、誰一人自分を省みる者がいなくても、その人も愛されています。なぜなら、人間という存在の孤独や貧しさ、苦しみや悲しみをすべて受けて、私たちの身代わりとなって、主イエス・キリストが十字架で死なれたからです。ここに神の愛の証拠があります。

 「言は、肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」神が、世界のはじめから、旧約聖書を通して語り続けられてきた神の言が、弱くもろく、やがては朽ちていく私たちと同じ人間となって、ご自身を現されました。それは、他でもない私たちの社会のただ中にです。神の子イエス・キリストは、ある特定の時間と場所に、たった一度だけ現われました。私たちの人生という出来事は、たった一度、「わたし」という主人公の掛け替えのない物語です。それは、主イエス・キリストと出会った人たちも、同じです。ヨハネによる福音書は、その初めに、洗礼者ヨハネという一人の人物に注目します。彼は、その一度限りの彼の人生の意味を、ただ主イエス・キリストを指し示すものだと理解しました。そこにあるのは、この聖書を記した「私たち」と言われる人たちが、いつの時代であっても、声を張り上げて叫んだヨハネのように、この方を、主イエス・キリストを、証しし続けるということです。なぜなら、この方によってしか、私たちは、神を知ることができず、聖書に記された「神の愛」に辿り着くことができないからです。キリストなしに真実の愛を知るすべをもたないのです。先に、このことを知らされた者は、何とか、声を張り上げて、自分が愛する、大事な人にこのことを伝えようとします。今日もし誰かにここへと誘われた方がおられるなら、あなたは、確かに愛されています。

 聖書は、この愛について、はっきりと「神は愛です」と語ります。何によって、愛を知るか明確に示すのです。ヨハネによる福音書3章16節には、このようにあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」ここには、神の愛の出来事と理由が記されています。このことが、誰一人、分け隔てなく、すべての人に与えられている恵みです。今日の箇所では、「私たちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」と言われます。主イエス・キリストは、満ちあふれる恵みの源泉です。そこから、私たちに分け隔てなく等しく神の愛が注がれます。すべての人が、神によって愛されているのです。だから、敵を愛せと言われたイエスさまの言葉に聴きつつ、クリスチャンは、出会いを与えられた人の隣人となって、その人を愛そうとするのです。

 今日の聖書の箇所の最後には、このようにあります。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」もし、神を見ることができれば、神を信じるという人はいるかもしれません。しかし、仮に、目の前に、自分が神だと名乗るものが現われたら、間違いなく偽物です。私たちは、神を見ることはできません。それは、遙か昔から、人間が望み続けて来たことです。実際、主イエス・キリストが、地上の歩みをされている時も、誰もが、彼がまさか「神」とは、考えもしませんでした。だから、聖書にもあるように、弟子たちは、いつも主イエスの行動や言葉に困惑します。そして、彼が捕まり、十字架で殺される時には、彼に従っていたすべての者たちが、彼を見捨てて逃げ出します。誰しもが、神から与えられた恵みを捨て去ったのです。イエスさまは、ご自分に与えられた人々を、一人ひとり大切に愛しました。しかし、その愛は、無残にうち捨てられ、キリストは、ただ一人孤独に、悲しみと苦しみの中を十字架へと歩み、最も過酷な方法で殺されたのです。ところが、神の物語は、それで終わりませんでした。神は、主イエス・キリストを死者の中から復活させ、もう一度、その愛を、人々に手渡したのです。失って初めてわかるものがあります。後悔しても、悔やんでも取り戻せないものがあることを私たちは知っています。それが、再び与えられた時、弟子たちは、もう決して、それを手放したり、うち捨てたりすることはありませんでした。彼らは、神の栄光を見たのです。神を見たことのない人間が、神の出来事と向き合い、その物語の中で、立ち上がったのです。その時、彼らの物語は、彼らだけでない神の計り知れない大きな物語の中にあることを知りました。

 今日ここにいる私たちは、それぞれ掛け替えのない自分の物語を生きています。しかし、あなたのことを心から愛するものによって、この場所へと呼び集められました。それは、自分の物語が、決して自分だけの物語ではないということです。神の物語の中にあり、あなたのことを愛する人の物語の中にあるということです。「言は、肉となって、わたしたちの間に宿られました。」神ご自身が、どうしても、人となることでしか、伝えられないことがあったのです。どうか、与えられたその愛を捨てないでください。それこそ、私たちが、真実の物語へと、本当の幸せへとつながる確かなものなのです。

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