2017年6月11日主日礼拝説教

「神から遣わされた人」

上野 峻一

教会に一人の伝道者が立てられる時、そこには、その者が、神から遣わされた人であると、受け入れる信仰が問われます。牧師就任式が、まさに、そのことを示しています。なぜなら、教会は、礼拝の説教者として立てられた伝道者によって、神の言葉を聴き、主イエス・キリストを指し示されるからです。このように言われると、神の言葉を語る者には、何か特別な力が与えられていて、牧師や伝道師が少し偉そうな感じがしてきます。確かに、神の言葉を語るという特別な使命と職務が与えられていることは事実です。また伝道者は献身者です。神学校でも、すべてを捨てて、主に従うことが問われます。しかし、それによって、伝道者が何か他のキリスト者と違って偉くなったということではありません。主に愛され、選ばれ、使命を与えられた者という意味では、伝道者も、長老も、教会員一人ひとりも、同じ土俵に立っています。それぞれに与えられた勤めと働きがあるのです。ただ伝道者、説教者とは、何をするにも、主イエス・キリストを、証しするために来た者です。それゆえに、若者であろうと、年配者であろうと、御言葉の役者として大事にされることはあります。

神から遣わされた一人の人として、聖書に名前が挙げられるヨハネは、ここの箇所だけを見れば、具体的には言われていませんが、洗礼者ヨハネのことです。他の福音書では、らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野密を食べていたと、その生活の様子まで記されています。実は、このヨハネは、非常に有名な人物で、当時は、主イエス・キリストよりも、知れ渡っていたとさえ言われることがあります。実際、その時代のヨセフスやタキトゥスといった歴史家の記述には、イエス・キリストに関する言及は曖昧であるのに対し、洗礼者ヨハネに関しては、はっきりと語られています。世の人たち目には、ヨハネの方が偉大だという印象が残っていたとしても不思議ではありません。それだからこそ、福音書は、ヨハネという人物が、「彼を証しするために来た」「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と、注意深く、明確に、彼の役割と目的を記す必要があったのでしょう。「証し」という言葉を言い換えると、指し示すということができます。それは、「わたしではなく、あの人です」と指を指すイメージです。

4月に引き続き、今日のように、これから少しずつこのヨハネによる福音書を読み進めていくと、イエスさまが愛しておられた弟子として考えられる「ヨハネ」という人物もまた登場します。そもそも、地上の歩みをなさったイエスさまをよく知る弟子であって、またイエスさまが愛しておられた弟子です。この福音書が記された背景には、そのヨハネの思想や神学を受け継ぐ教会との関わりが指摘されるほどです。主イエスが地上での歩みを終え、イエスさまの弟子たちが伝道する時代となって、クリスチャンが増えれば、増えるほど、また時代と共に、主を証しする弟子たちは、主を証しする特別な存在となります。弟子のヨハネが、どこか偉い者として、まるで神のように扱われる可能性は十分にあったでしょう。ところが、やはり、ここでも、そのようなイエスさまに愛された弟子であっても、決して、絶対にイエスさまの代わりにはなりません。弟子のヨハネ、彼もまた証しをするためにいたのです。いや、そもそも、この福音書それ自体がそのような全体としての意図をもっています。主イエス・キリストを証しするために書かれたのです。第1章7節以下「彼は、証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためです。」光である主イエス・キリスト、この方の輝きを、私たちの暗闇を照らし出す確かな光を、ヨハネは、聖書は、伝道者は、そして、主イエス・キリストを信じるすべての者は、指し示しているのです。

この世は、言によってなったと聖書は語ります。それは、まさに天地創造における神の言葉における創造です。その言が、主イエス・キリストであると言われます。言によって、世が「なる。」それは、主イエス・キリストによって、御言葉によって、この世界が、初めて存在するということです。聖書は、世が抱える「なぜ」に語りかける神の言葉でもあります。世界に対して、人間という存在に対して、その本質に正しく答えられるのが、神の御言葉なのです。なぜなら、それを造られた方でなければ、わからない、答えられないことがあるからです。そのことを伝えるべく、言は世に来ました。光として、世の暗闇から救い出すために、人々が生きる本当の意味を伝えるために、来たのです。ところが、世は言を認めませんでした。神に創られた民は、それを受け入れなかったのです。

第1章11節「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」この一文を、「最小のイエス伝」と言った聖書の学者がいました。それは、この一言に、イエスさまの地上での生涯が、要約されているという意味です。神の言である主イエスは、神の独り子として、この地上に来られました。それは、私たちを愛する神が、この世を救うための出来事でした。しかし、この世にとって、この人々にとって、この言は、この光は、どうにも受け入れることができないものでした。世は、人々は、暗闇を好みます。悪さをする時は、誰も見ていない、真っ暗な闇の中でしょう。光に照らされて、自分の本当の姿が、明るみに出るのが恐ろしいからです。輝く光によって照らされると、自分のすべてが、真実の姿が明らかになってしまいます。それでは、都合が悪いのです。そして、この光が強ければ、強いほど、影となる部分は、どんどん濃く深くなります。神の言によって、その光によって、人間の罪が明るみに出されるのです。上辺だけで繕っている外側ではなくて、内側の心にまで届き、すべてを知っている神の言が、人間の本質を貫くのです。それに人々は、耐えられません。どうにか避けて通りたいのです。世が、人々が、臨んでいたのは、きっと適度な、ほどほどの救いでした。何となく安心して、ゆったりして、居心地の良い言葉を聴いて、ぼんやり照らされる光を望んでいたのです。ところが、主イエス・キリストはそうではなかった。真の光は、そんなものではなかった。だから、世は、人々は、彼を殺しました。救いを待ち望んでいたはずの地上に来られた神を、新しく生きるための真実の言を、こんなはずではないと、これは違う、偽物なんだと。自分たちが望む都合の良い神のために、自分たちが聞きたい言葉を聞くために、主イエス・キリストを十字架にかけて殺したのです。

ここに罪があります。神の愛を、主イエス・キリストを拒む人間の罪があります。神の愛が示され、与えられた時、世はそれを受け入れられなかったのです。しかし、この光は、それでも尚、すべての人を照らす光です。善人も悪人にも太陽の光が降り注ぐように、神の愛は、いつも、どのような時も、すべての人に与えられています。神は、私たち一人ひとりを愛し、主イエスによって救われます。なぜなら、この主イエス・キリストの十字架の死は、このように、神に背く人間の罪を赦すための出来事だからです。弱く乏しく惨めな私たちを、自分でも愛せないその姿を、私たちが受け入れる前に、神が受け入れてくださっています。ただし、この時、たった一つだけ、私たちが問われることがあります。それが、この神の愛を、主イエス・キリストを受け入れるか、どうかです。
第1章12節には、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってではなく、神によって生まれたのである」とあります。ここにおいて、よくよく気をつけたいことは、「信じる」という言葉です。この「信じる」ということは、自分の力で、何とかして信じてやろうというものではありません。この言葉の元々の意味には、「ゆだねる」というニュアンスがあります。「名」には、そのものの全存在を現します。主イエス・キリストという存在そのものにすべてをゆだね、その中に入っていく。光の中にすっぽりと包まれ、その中に入ってしまえば、どこにも暗闇はありません。私たちには、このゆだねるという決断が求められます。けれども、それは、自分の力、意志に頼るものではありません。「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれる」とは、まさにそのことを示しています。「欲」と訳されている言葉は、本来は「意志」という意味があります。人間の想いや力によるのではなく、神の力による出来事こそが、「神によって生まれる」ということです。神は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えたと言われます。主イエス・キリストを救い主として受け入れた者たちは、神の子として、光の子として生きることになるのです。神から遣わされた人には、主イエス・キリストという方を、証しする役目があります。私たちには、それぞれ御言葉の光を受けて、神の子としての使命があるのです。

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