2012年4月22日 主日礼拝

「神の言葉は実を結ぶ」 川﨑 公平牧師

ルカによる福音書第8章4-18節

主イエス・キリストがお語りになった、「種を蒔く人のたとえ」、そのように新共同訳が小見出しを付けております、ひとつのたとえを共に聞きました。さまざまな感想を抱かれた方があると思います。分りやすい聖書の言葉のひとつだと思います。なぜかと言うと、このたとえについては、主イエスご自身が、ご自身の語られた言葉について改めて説明をしてくださっているからです。種とは神の言葉である。その種がさまざまな場所に落ち、さまざまな運命をたどるように、神の言葉がさまざまな人の心の中に蒔かれ、あるいはさまざまな人の生活の中に蒔かれ、さまざまな運命をたどる。もうこれ以上、説明はいらないと思います。既に私が聖書朗読をした時に、よくお分かりになったと思います。せっかくイエスさまがみ言葉を説き明かしてくださったのだから、私が何か余計な言葉を足す必要もないとさえ言えます。
今日初めてここに来て、初めてキリスト教会で語られる言葉を聞いた、聖書の言葉を聞いたという方も、いらっしゃるかもしれません。しかしまた、ここにいらっしゃる方の大部分は、繰り返し日曜日になるとここに来て、聖書の言葉を聞き続けています。神の言葉であると信じて、その〈言葉〉を聞き続けています。それは言い換えれば、主イエスご自身が、この場所で、神の言葉を種を蒔くように、私どもの心にみ言葉の種を蒔き続けてくださっているということです。
けれども後から悪魔がやってきて、その心からみ言葉を奪い去ってしまう。最初は喜んで受け入れたはずの聖書の言葉を、しかし試練がやってくるとたちまち忘れてしまう。人生の思い煩いや、富や快楽に覆いふさがれて……。この「覆いふさがれて」と14節で訳された言葉、あるいは7節で「押しかぶさってしまった」と訳されている言葉、これは元の言葉をもう少し強く訳すと、「窒息させる」という意味の言葉です。み言葉を一度聞いたのに、人生の思い煩いや富や快楽の中で、いつの間にかその神の言葉が窒息してしまっている。息ができなくなってしまっている。自分の生活の中で、もう発言できなくなっている。聞こえてくるのは自分の声ばかり、他人の声ばかり。ああそうだな、自分にもそういうことあるなあと、この福音書を書いたルカも、あるいは最初にその福音書を読んだ人たちも、そうだそうだと頷きながら、この言葉を読んだのではないかと思います。
ところで、この主イエスの言葉を伝える聖書の言葉を読みます時に、皆さんの注意を喚起しておきたい言葉がひとつあります。8節の最後に、「『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた」とあります。皆さんがこういう言葉を読んだときに、どういう心の動きが生まれたか。「大声で言われた」。私はこの言葉を最初に読んだときに、はっとする思いがいたしました。長く教会生活をしておられる方は、マタイによる福音書やマルコによる福音書にも、こういう主イエスのたとえが記されていることにお気づきになると思います。そして、そのマタイ、マルコ、ルカの書き方を丁寧に比較してみると、この「大声で言われた」という言葉はルカによる福音書だけが伝えていることに気づきます。本当に主イエスは大声で言われたのだろうか、小声で言われたのだろうか。ルカによる福音書だけが「大声で言われた」と書いているけれども、本当のところはどうなのだろうかと推測しても、それは分かるはずがありません。大事なことは、ルカ自身が、このイエスの言葉を大きな声として聞き取ったということだと思います。「聞く耳のあるものは聞きなさい」。そうだ、わたしは聞かなければならないのだ。
おもしろいことに、この「大声で言われた」と訳されている言葉が、この同じ第8章の54節にも出てきます。ヤイロという名前の会堂長であった人の娘が、12歳という幼さで命を落とすという悲しいことが起こりました。ところが、既に動かなくなっていた12歳の娘の前に主イエスが立ち、「泣いてはならない。この子は死んではいない。眠っているだけだ」。そう言って、「『娘よ、起きなさい』と呼びかけられた」とあります。この「呼びかけた」と訳されている言葉も、8節の「大声で言われた」と訳されている言葉と同じ言葉です。死んだ娘を呼び起こすような、力ある呼びかけを、既に8節でルカは聞き取っていたのだと思います。そうだ、主イエスはわたしにも呼びかけてくださったではないか。大きな声で。その主イエスの声を聞いたから、わたしはここに生かされているのではないか。
この主イエスの大きな声、大きな呼びかけが、この教会を生かし、またこの世界を生かします。主イエスが今も、どれほど切なる思いで、どんなに大きな声で、み言葉を語ってくださるか。その主のみ声を聞きながら、この教会もまた、み言葉を語り続ける歩みを造るのです。そのために主イエスは教会を立て、キリスト者ひとりひとりを立てておられるのだと、改めて気づかされます。
もうひとつ、今日読みましたところで、皆さんがわかりにくいに違いないと思った言葉があります。主イエスの語られたたとえと、その説明の間に9節と10節の言葉があります。弟子たちが、このたとえはどんな意味かと尋ねた。よく分からなかったのかもしれません。さまざまな種がさまざまな場所に落ち、さまざまな運命をたどると言われる。しかしなぜ主イエスはこんなことを語られたのだろうか。もっと深い、別の意味があるはずだと思った。イエスさま、どういう意味ですか。そもそもなぜ、たとえを用いて話すのですか、という問いでもあったと思います。
そこで、主イエスはこう答えられました。
「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、
『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」。
これは私どもの思いに逆らう言葉だと思います。あなたがたには神の国の秘密を悟ことが許されている。あなたがたは弟子だからそうだけれども、他の人びとにはたとえを用いて話すのだ。言い換えれば、まだ主イエスを信じていない人ということでしょう。そういう人にはたとえを用いて話すのだと。ここまで聞きますと、私どもは次のように読み取るかもしれません。そのままでは通じにくいから、伝わらないから、まだ信仰の初心の人たちには、なるべく簡単に分かりやすく、たとえを用いて説明してあげるのだ、と。けれども、主イエスがここで語られたことは、明らかにそうではありません。「彼らが見ても見えず、聞いても理解できないようになるためである」。神さまのことを分からせないようにする。そのためにわたしはたとえを用いて話すのだと、主イエスは明確に語っておられます。非常に分りにくい言葉だと思います。いったいどういうことでしょうか。
言うまでもなく、主イエスがわざと分かりにくい説教をなさったというのではないでしょう。どうせお前らには分からないだろう、などと高みに立って、そこにいる人たちを裁きながら、語られたのではない。それは明らかだと思います。主イエスは、そうではなくて、「聞く耳のある者は聞きなさい」と、大声で言われたのです。どうか聞く耳を持ってほしい。それが主イエスの願いでありました。今日お読みしたところを読むだけでも分かる。主イエスが、どんなに心を込めて、神の真理を教えてくださったことか。しかし、その主イエスが語られた真理の言葉が、人びとの心を柔らかくしたかというとそうではなくて、むしろ主イエスが語れば語るほど、人びとの心は固くなり、頑なになったのです。そのことに、主イエスは既にお気づきになっていたのではないかと思います。
そして、その心の頑なさがどこに向かったかというと、福音書は明確に告げる。主イエスを十字架につけるところにまで行きついたのです。主イエスは、既にそのことを覚悟しながら、語っておられるのです。
しばらく前に、ある集会で、この聖書の言葉を教会の人たちと共に読み、共に語り合うということをいたしました。やっぱり9節と10節はよく分からないという話になりました。なぜ、たとえを用いて話すのか。なぜ、見ても見えず、聞いても理解できないようになるために、主イエスの言葉が語られたというのか。けれども、たとえばこう言ってもいいのではないかと思いました。なぜ、私どもの心が石地であるということが分かるのか。なぜ、私どもの心が、たとえば茨という植物によってたとえられるということが起こるのか。み言葉の種が蒔かれて初めて、そのことが明らかになってしまうのではないか。それまでは気づかなかったのです。自分の心が石地だなんて、そんなことは考えたこともない。けれども、主イエスの言葉を聞いたときに、改めて自分の心がどのような地面であるかが明らかになってしまう。神の言葉が蒔かれて初めて、そのことが浮き彫りになってしまう。だから、どうかその心と正直に向かい合ってほしい。もう一度、あなたの心の頑なさと戦ってほしい。主イエスは、そうお語りになるのです。
目の前に「大勢の群集が集まり、方々の町から人々がそばに来た」と福音書は伝えます。さまざまな求めを持って、さまざまな願いを抱いて、主イエスのもとに来たのだと思います。病を癒していただきたい。悪霊を追い出していただきたい。この人生を生きていくために必要な知恵をいただきたい。さまざまな願いを抱いて、主イエスのもとに集まってきた人たちであったと思います。けれども、主イエスは少なくとも、ここでは癒しのわざをなさったのでもなく、お腹をすかせた人びとのためにパンを増やされたのでもなく、ただ、み言葉をお語りになりました。人びとの心をじっとご覧になって。今ご自分がしなければならないことを、じっと見据えて。今わたしは、あなたがたの心にわたしの言葉を蒔く。けれどもそのことによって、あなたがたが石地であることが明らかになってしまうね。茨によってわたしの言葉を窒息させてしまうような心であることが明らかになってしまうね。けれどもまた、ある種は100倍の実を結ぶ。その喜びを主イエスがどのような思いで見ておられたか。そこに、主の声も大きくなるということが起こりました。「聞く耳のある者は聞きなさい」。
さまざまな感想を呼び起こす主イエスの言葉であろうと申しました。そもそも、この11節以下のたとえの解説の部分は、主イエスご自身が語りになった言葉ではなく、後の教会の人たちが主イエスのたとえについて、これはこういう意味ではないかと解釈し、語り合った、その記録ではないかという意見もあるほどです。しかしそれもまた意味深いことだと思います。後の教会の人たちも、実際に自分の生活の中で、この主イエスの言葉と対話をしたのです。主イエスよ、これはどういう意味ですか……。
なかなか自分の生活の中に主のみ言葉が根づいていかない。そのことを嘆きながら、この主イエスの言葉を読んだ人もあったかもしれません。しかしまた、教会の伝道の責任を担う人たちが、なかなか教会の伝道が思うように実りを見せないということに悩みながら、この主の言葉を読み取ったかもしれません。一度洗礼を受けても、さまざまな試練があり、そのために身を引いてしまうということが起こる。たとえば、その言葉を、ルカによる福音書を書いたルカ自身が、どんなに厳しい思いをもって書き記したことかと思います。「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たち」。私は思います。ルカはこの言葉を書き記しながら、具体的な人の名前と顔を想い起こしていたに違いない。
今日は教会総会を行います。教会総会の資料の表紙に、現住陪餐会員584名とあります。たとえば、その数字を見るだけでも、私はさまざまなことを思います。さまざまな事情で礼拝に来ることができなくなり、いつの間にか現住陪餐会員の名簿から外されてしまった人たちもたくさんいるのです。礼拝に出ていなければ、それはすなわち試練に遭って身を引いた、石地の人たちであると、杓子定規に決めつける必要もないでしょう。やむを得ず礼拝を休む人たちを、不用意に裁くことのないように気をつけたいと思います。毎週礼拝に出ていても、試練に遭うとみ言葉から身を引いてしまうということは、いくらでも起こるのです。けれどもそれだけに、この福音書を共に読み、この意味はどういうことでしょうかと分かち合った教会の人たちが、どれほどの思いでこの言葉を聞いたのだろうかと思うのです。今私が繰り返しております「試練に遭うと身を引いてしまう」という言葉は、私の独断と偏見でこの言葉を取り上げて強調しているのではなく、これもまたルカ福音書だけが伝えているルカ特有の言葉なのです。マタイやマルコにはそのような言葉はありません。ルカ自身が、自分自身の教会での生活を反省しながら、このような言葉を改めて使ったのだと思います。
この「身を引いてしまう」という言葉は、もう少し直訳風に訳すと、「捨てる」という言葉です。そして、ギリシア語をよく勉強した人たちが教えてくれることですけれども、文法的には二種類の読み方があります。ひとつは、「自分自身を捨ててしまう」という訳です。試練に遭うと自分自身を捨てることになってしまう。こう読むと、その言葉の鋭さが少しよく分かってくるかもしれません。もうひとつの訳し方は、「み言葉を捨てる」。そのように読むべきではないかという意見もあります。しかし、厳密に区別する必要もないかもしれません。しばらくは信じても、試練があり、誘惑があり、一度聞いた神の言葉を捨ててしまう。そうすると、結局自分自身を捨ててしまうことにもなるのです。そこで私は思います。そのように主イエスの言葉が捨てられ、その結果自分自身をも捨ててしまう私どもの心をじっとご覧になりながら、そのことを主イエスがどんなに悲しんでおられることか。しかも、そこで結果として捨てられているのは、誰でもない、主イエスなのです。
「試練に遭うと身を引いてしまう」だけではありません。蒔かれた種がさまざまな道をたどります。悪魔に奪い取られ、あるいは人に踏みつけられ、空の鳥に食べられてしまう。芽を出すものの、水気がないので枯れてしまう。茨にふさがれて実を結ばない。ひとつひとつ主イエスご自身が経験なさったことではないか。「聞く耳のある者は聞きなさい」と主は言われました。耳のあるところ、耳のあるところ、主イエスはどこででもみ言葉をお語りになりました。けれども、さまざまな出会いの中で、その言葉はあっという間に奪い去られ、あるいは、人びとに踏みつけられ、捨てられ、身を結ばない。そのことを主イエスご自身が、ここでどんなに悲しまれたことかと思います。
先ほど申しました、この聖書の言葉を共に語り合ったという集会の中で、たとえばこういう感想もありました。なぜ石地と分かっていながら蒔くのか。なぜ茨が生えると分かっていながら蒔くのか。こういう感想もまた、既に最初にこのたとえを聞いた人たちの中に、あるいはルカによる福音書を最初に読んだ教会の人たちの中にもあったかもしれません。特に昔の人たちのことです。種蒔きの方法もよく分かっていたに違いない。主イエスの言葉を聞きながら、自分だったらそんな種の蒔き方はしない、もうちょっとうまく種を蒔くよ、というような感想を抱いた人もいたかもしれません。しかし、主イエスが私どもに神の言葉を蒔いてくださった時に、ここは石地だからやめておこう、ここは茨が生えそうだからやめておこう、ああ、ここは良い土地だから一所懸命種を蒔こう、そういう種の蒔き方を主イエスはなさったか。そんなことは決してないのです。ここは石地だ。じゃあここには種を蒔きません、と言われたのが主イエスであったとしたら、私どもはここにいないと思います。
私は先ほど、この主イエスのたとえは分かりやすいと申しました。確かに分かりやすい。ただし、その分かり方というのは、こういうものであるかもしれません。自分はこの四つのうちのどれかな。悪魔が来て、その心からみ言葉を奪い去る。そこまでひどくないかもしれない。けれども、試練に遭うと身を引いてしまう。自分はだいたいこのへんかな。あるいは、さまざまな富や快楽の誘惑に遭って実を結ばない、ああ、まさに自分のことだ。そのように主の言葉を理解する。けれども、わたしこそ良い土地に落ちた種です、100倍の実を結んでおりますと、胸を張ってはなかなか言いにくい。それが、私どもの分かり方であるかもしれません。しかしそれが正しい理解でしょうか。私はどうしてもそうは思えません。主イエスはこのたとえを語りながら、群衆の姿をじっと見ながら、ああ、あの人は石地だな。あの人は茨だな。そのように人びとを区別しながらこの言葉を語ったのだろうか。それは違うと、私は思うのです。主イエスの願いは明らかだと思います。「聞く耳のある者は聞きなさい」。あなたがたには耳があるだろう。どうか柔らかな心でわたしの言葉を聞いてほしい。主イエスの深い願いが込められた言葉であると思います。
この福音書の言葉を共に分かち合ったその集会で、ある方がこういう感想を述べました。この主イエスの言葉は、どこかがおかしいのではないか。どこか間違っているのではないか。なぜ間違っているかという根拠を示して、イザヤ書の第55章お開きになりました。今日の礼拝でも、旧約聖書のテキストとしてイザヤ書第55章を読みました。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。
そう書いてあるはずなのに、主イエスの言葉はそれを裏切っているようではないか。神の言葉が、むなしく枯れてしまう。茨の中で窒息してしまう。どうもイザヤ書の言葉と矛盾しているのではないか。大胆に主イエスの言葉を批判するとは、おもしろい感想だと思いました。しかしまた、非常に急所を突いた聖書の読み方だと思いました。しかし、私はそのイザヤ書の言葉を改めて読みながら思いました。そもそもイザヤ書は、なぜわざわざこういうことを語らなければならなかったか。「わたしの言葉はむなしく戻らない。わたしの言葉は必ず望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」。神の言葉がむなしく消えていくのではないかと危惧される現実があったからです。そういう悲しみを、神ご自身がよく知っておられたからです。そして、主イエスもこのイザヤ書が語る神の悲しみを受け継ぐようにして、このたとえを語られたのだと思います。わたしは石地にも種を蒔く。聞く耳のある者は聞きなさい。そのわたしの言葉は必ず、望むことを成し遂げ、使命を必ず果たす。そこには主イエスの十字架の覚悟があると私は思います。
「それはわたしの望むことを成し遂げ……」。これは、イザヤ書がここで初めて語った言葉ではありません。このイザヤ書第55章から、ページを1枚めくるだけで、第53章が出てきます。そのイザヤ書第53章の10節にこういう言葉があります。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。
イザヤ書第55章の言葉は、この第53章の言葉をもう一度重ねて記したにすぎません。「主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる」。言うまでもなく、このイザヤ書第53章というのは、主イエスのことを直接見聞きした人が書いたのではないかと思われるほどに、十字架につけられた主イエスのお姿を、不思議なほどに見事に描き切っている旧約聖書の言葉です。私どもの罪のために苦しみを受け、人びとに見捨てられ、蔑まれた主イエス・キリストのお姿であります。なぜ、この人はこんなに軽蔑されているのだろうか。なぜ、この人はこんなに傷付けられているのだろうか。そこでわたしたちは思った。この人は神に捨てられたのだ。ところがそうではなく、この人はわたしたちの病のために、わたしたちの罪のために苦しんでいるのだ。そう言って、このイザヤ書第53章はこう言うのです。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。
このお方によって成し遂げられる主のみわざ、このお方によって100倍の実を結ぶ主の御言葉です。しかし、不思議なことだと思います。先日もある若い求道者の方と信仰の学びをしていて、なぜ主イエスは十字架につけられなければならなかったかという話をいたしました。けれども、私はその信仰の急所に触れるような時に、どうしても語る言葉を失います。神を信じる、主イエスを信じるということは、主イエスの十字架を信じるということです。その十字架の意味を信じるということです。けれども、私は信仰を得ようと志している人たちと語り合いながら、いつもそのところで言葉を失います。あなたの心にも神の言葉を踏みつける思いがあるでしょう。さまざまな茨が生い茂る中で、神の言葉を窒息させてしまう心があることに気づいているでしょう。そのことを、たとえばハイデルベルク信仰問答という古典的な教会の信仰の書物は、「われわれは生まれつき、神を憎む心を持っているのだ」と言い切りました。激しい言葉です。その私どもの心が結局のところ、主イエスを十字架につけたことを思う時、けれどもその主イエスの十字架が、「主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる」という、この主の言葉の実現のためであったということに気づく時に、やはり私は言葉を失う思いがいたします。他の何によっても説明できないことだと思います。この教会の存在をもって説明するほかないことだと思います。皆さんひとりひとりがなぜここにいるか。主が望まれることが実現したからにほかなりません。ひとりひとり、主イエスの言葉と向かい合い、何よりも踏みつけられた主の言葉、踏みつけられた主ご自身、十字架の主イエスと向かい合い、けれどもどういう導きがあったのでしょうか。その主の御前にひざまずき、この主イエスを、まさにわたしの主として受け入れ、洗礼を受けるに至るという不思議な出来事が起こりました。主イエスは既にその十字架の覚悟をしながら、このたとえを語られたのだと思います。
多くの人がここで、ヨハネによる福音書第12章の言葉も引用しております。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
主イエスはみ言葉の種を蒔き続け、ついにご自身を種として蒔かれました。そこに多くの実を結んだのが、この鎌倉雪ノ下教会です。そして今も主イエスは、そのご自身の言葉を語り続けられる。「聞く耳のある者は聞くがよい」と大声で語り続けられる。すぐに石地になってしまうことを嘆かざるを得ない私どもであるかもしれません。茨の現実の方が100倍強いと思ってしまうかもしれません。そこになお響く主の言葉を明確に聞き取りたいと思います。
もう一つイザヤ書第53章の、今度は11節の言葉を読み、説教を終えます。
彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
主イエスの満ち足りたお顔が見えるでしょうか。自らの苦しみの実りをご覧になりながら、こんなに豊かな実りが実っているではないか、これがわたしの苦しみの実りだと言われるのです。その苦しみの実りを実らせるために語られた主の言葉です。だからこそ、この教会もまた、他の何をするのでもありません。主の〈言葉〉を語り続けるのです。主の実りに仕えるために。この教会の歩みの上に、改めて主の祝福とみ言葉の導きを祈ります。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、御言葉を聞かせてください。柔らかな心を与えてください。そのために命まで捨ててくださった主の愛に気づくまっすぐな心を、今新しく与えてください。この礼拝をもって今年度の定例教会総会を始めます。この教会の歩みが、ひたすらにあなたのみ言葉を聞き続け、そこに豊かな実りを実らせる歩みであることを確信することができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン
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