2017年1月15日 主日礼拝

「ただ愛による選び」

 上野 峻一 経堂北教会牧師


申命記 第7章6―8節
ヨハネによる福音書 第15章11―17節

 

主の選びにおいて

 主イエス・キリストによって選び、召され、今この時、この場所で、御言葉を語る務めが与えられています。この選びは、ただ主の愛による選びです。そして、この愛による選びは、決して御言葉の役者として立てられた者だけに限らず、この礼拝へと招かれ、呼び集められた者すべてに対する神の愛による選びです。それは、ただ確かに、主の御業のみが示されるためです。土の器に過ぎないものに、主イエス・キリストの恵みが、豊かに注がれるためです。

主は、私たち人間が考える以上のこととして、すべての人をお選びになります。なぜ、今、あなたはここにいるのですか。それは、ただ主の愛にゆえにです。他に理由はありません。もちろん、これまで、どのような人生の歩みを経て、今ここに自分がいるかということは大切です。それは、キリストを証しする者として、あなたに主がどのように働かれたかを知ることができるからです。しかし、これまでの人生において、たとえ主イエスと出合う以前の歩みだったとしても、主は母の胎に造る前から、あなたを知り、選び分けておられたのです。

今日の旧約聖書では、主なる神さまは、私たちが他の民よりも貧弱であったと言われます。主が心を引かれてお選びになったのは、私たちが、実に頼りなく、弱々しかったからと言うのです。現代社会においては、貧しいもの、弱いものは、価値なきものとされています。豊かなもの、強いものが、選ばれ、愛され、宝とされるのが世の中です。しかし、主は決してそうはなさらないのです。ここに、主なる神さまの愛があります。主イエス・キリストは、このような神の愛そのものです。私たちは、主イエスを知らなければ、神が自分を選ばれた理由、今この時、ここいる確かな根拠である神の愛を知ることはできません。だからこそ、私たちは、絶えず主の御言葉に聴き続けます。いつも主の御旨を求めて祈り続けます。そして、その度に、主がお示しくださった愛に生きようとするのです。

 

主イエスが語られた愛の文脈

 主イエスは語られます。ヨハネによる福音書第15章11節「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」「これらのこと」とは、イエスさまが、この箇所に至るまでに、お語りくださったことです。一言でまとめてしまえば、愛の掟を守り、主の愛に留まるということでしょう。ぶどうの木の例えにあるように、主イエスにつながっていること、主イエスの愛に留まっていることが喜びであるということです。また、今日の箇所より少し前に遡ると、主イエスが語られていることには、しっかりと文脈があることがわかります。主は、十字架におかかりになる夜、「愛する」とは何を伝えるために、弟子たちの足を洗われました。ヨハネによる福音書第13章1節「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」そうして、主は弟子たちの足を洗われ、その後ユダの裏切りの予告やペトロの背信について、トマスやフィリポとの対話を経て、今日の御言葉へと向かいます。これらの主イエスの語りについて、一般的には「主イエスの告別説教」と言われます。それは、ここに主イエスが十字架の死へと至る前、その地上の歩みの最後において語られた重要なメッセージがあるからです。主イエスが伝えられたこと、またその深い想いとは、「愛」です。ある説教者は「聖書は神さまからのラブレター」と言われました。「神はあなたを愛している。聖書は、こんなにも分厚くて、本当に難しそうだが、このことに信頼にして読めばいい。」聖書を読むこと、また聖書から解き明かされる御言葉を聴くことによって、主イエスの愛が、御言葉によって喜びとして、私たちのうちに満たされていきます。なぜなら、それは、主が私たちを愛していると伝えられるからです。

20世紀最大の神学者であるカール・バルトは、神の御言葉とは、書かれた神の言葉としての聖書、語られた神の言葉としての説教、そして、啓示された神の言葉としてのイエス・キリストだと言いました。この神の言葉は、すべて神さまの愛そのものを指します。私たちには、聖書、説教、イエス・キリストという御言葉が与えられ、神の愛が確かに示されています。今日の「聖書」には、引き続き、「主イエス・キリスト」がこのように「説教」されたとあります。「わたしが、あなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたは、わたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

主イエスは、互いに愛し合いなさいと言われました。その愛を説明するかのように、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と続きます。この言葉は、当時の一般社会において格言化したものであったと言われます。誰しもがよく知っていたことだと考えられます。主イエスは、それを神の愛、アガペーの意味を伝える一つとして用いました。「友ために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない」という愛は、友愛と訳されるフィロスという言葉です。つまり、「友のために命を捨てること」これ以上の大きなフィロス愛、それが主イエスのお示しくださった愛、互いに愛し合いなさいと言われたアガペーとしてもいいでしょう。そして、何よりも重要なことは、この言葉の通りに、主イエスこそ友である私たちのために、御自分の命をお捨てになったということです。それが十字架の出来事です。キリストの十字架は、私たちの罪からの救い、神の愛の出来事です。主イエスは、罪ある私たちのことを「友である」「友と呼ぶ」と言われます。主イエスは、私たちを愛し、赦し、新しい関係をつくられるのです。それは、これまでの主人と僕(奴隷)の関係ではなく、友達の関係です。

 

愛による新しい関係性

 若者の間では、友達の数が人間の価値などと恐ろしいことが言われることがありますが、もちろん、そんなことはありません。けれども、そのように考えられてしまうほど、私たちにとっては友達という存在が、大きな意味をもっていることはわかります。自分たちの友人を思い出してみると、多くの場合は、学生時代からの付き合いや、同じ趣味や職場、境遇であることで友達となった人がほとんどでしょう。まったく自分の違う職業や価値観、共通点のない友達というのは珍しいかもしれません。仮に、あまりにも自分と違う生活や世の中の地位などにあったら、自分がその人の友達として釣り合っていないとさえ考えてしまいます。このような私たちの考え方に対して、主イエスが、私たちを「友」とされることには大きな違いがあります。

雪ノ下カテキズムの問88には、このようにあります。「あなたが、主イエス・キリストと『友』の関係にあるということの特質はどこにあるのですか。答え。『友』とは、肉親でもなく、主従でもなく、ただ相互の愛によって作られた関係に生きる者のことであります。私どもと主イエス・キリストとは、ただ愛により、また深い信頼により結ばれるものであります。それ以外に根拠を持たない絆です。私どもはそのように主を愛することが許されているのです。」もし、イエスさまが、自分を友だと言ってくださることを、真正面から受け止めるならば、あまりにも驚くべきことで畏れさえ感じるかもしれません。こんな自分は、イエスさまの友達として釣り合っていないと思ってしまうでしょう。けれども、だからこそ、かえって、私たちは、またそこに深い喜びをも感じるのです。神の御子であられる主イエスが、私たちを「友」と呼ばれます。それは、愛によって作られる関係の始まりです。雪ノ下カテキズムにあるように、「ただ相互の愛によって作られた関係に生きる者」が、友と呼ばれるのです。それは、人間同士の友達とは、違う確かな信頼のあるものでもあります。なぜなら、主イエスと私たちの友としての関係とは、神であられる主御自身の方から、一方的に私たちを「友」と読んでくださるからです。友達である根拠は、ただ主にのみあります。私たちの友情とは、実は何とも不確かなものかもしれません。友達に裏切られてしまったり、些細なことで友情が崩れ去ってしまったりすることがあります。それは相手への信頼が深ければ深いことつらく苦しいことです。

しかし、主イエスが友と呼んでくださる時、そこにあるのは、まず主イエス御自身の方から、愛し、選び、呼びかけてくださるという関係です。そこには確固たる、揺らぐことない確かさがあります。一方的ということからすれば、主人と僕の関係のように思えてしまいます。けれども、そうではなくて、友達の関係だというのです。なぜなら、主イエスは、父なる神さまから伝えられたことを、すべて包み隠さず私たちに伝えられたからです。僕、奴隷と主人の関係であるなら、「なぜ、どうして、何を」と言った細かいことまで知ることはできませんし、その必要もありません。けれども、友であるからこそ、すべてを明らかにして話すのでしょう。このすべてを話してくださったことが、友達の関係であることを示しています。そこに、信頼関係が生まれます。それは、相手から拒絶されることのない、決して裏切られることのない関係です。そして、この関係にある私たちがなすべきことは、この主イエスの愛、呼びかけ、続く選びに対して、友として応答することです。つまり、私たちもまた主イエスを愛することが許されているのです。

 

神の一方的な選びと信仰

選びというものは、一方的なものです。そこにおいて、まず大事なことは、「誰が」選んだかということです。また次に、選びにおいて多くの場合は、選ばれた側にはわからない、選んだ方の目的や意図があります。主が私たちをお選びになる時も同じです。もちろん、その目的や意図が明確であるとは限りません。むしろ、私たちの日常生活においては、主なる神さまのなさることのほとんどが、終わりの日にならないとわからないことばかりのように思えてしまいます。しかし、今日の箇所の主イエスの選びにおいて、主は、はっきりと目的を伝えておられます。また、何よりも主イエス御自身が、確かに、わたしたちをお選びくださったということが明言されています。主イエスは言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出掛けて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」私たちは、他でもない主イエス・キリストによって選ばれた者たちです。神の独り子である主イエス、私たちを愛し、友と呼ばれる方に選ばれたからこそ、私たちは二つの目的を知ることができます。主は、わたしたちが出掛けていって実を結ぶように、その実が残るようにと、私たちを選ばれました。この実は、私があなたがたを愛したように互いに、愛し合いなさいという掟に基づく実です。福音を宣べ伝えた伝道の果実とも言えるでしょう。私たちは御言葉を聴いて、この礼拝からこの世へと出て行きます。それは、主イエスの愛の掟に従い、互いに愛し合うために出て行くのです。

さらに、主イエスに選ばれたからこそ、主イエスの名によって願うものを父なる神さまが、何でも与えてくださるとも言われます。学生時代の恩師は、私たちの祈りとは、神さまへのお手紙だと教えてくださいました。これは先程の御言葉という神さまからのラブレターへの返信だともいうことができるかもしれません。この神さまへの手紙の送り主には、自分の名前だけでなく、イエスさまのお名前が記されていることが大事だと言われます。それが、祈りの最後に「主イエス・キリストの御名によって」ということです。そして、神さまは、その送り主として記された名前のところに、主イエスのお名前が記されているのを見て、喜んで私たちの手紙を開いて読んでくださると言うのです。確かに、そうだと思います。私たち人間は、罪によって父なる神さまとの関係の破れがあります。主イエス・キリストの十字架の贖いなしには、私たちは神の御前に立つことはできません。今この礼拝に、神の御前に、私たちが招かれ、呼び集められているのは、主の一方的な恵み、赦しのゆえです。キリストの十字架の和解なしに、私たちは、父なる神さまとの正しい関係にあることはできないのです。

 

ただ愛による選び

本日の聖書の箇所において、雪ノ下カテキズム問33では次のことが言われています。「あなたが信じることができるかどうか、あなたの救いはそれにすべてがかかっているかのようです。あなたは、自分の信仰の確かさを確信することができますか。答え。それはできません。しかし、それよりも先に言わなければなりません。私の信仰にすべてがかかっているとは思いません。聖書は、私が確信をもって主イエス・キリストの父である神を選ぶことによって救いが起こるのではないと告げます。むしろ神が確かに私を選んでいてくださるがゆえに、この喜びがあるのだと教えます。私が地上に存在するに先立って、神はあらかじめ私を選び分けることを定め、恵みによって召し出してくださったと言うのです。その通りであります。救いの確かさは、神の確かさです。(以下、省略)」私たちのうちには、確かさなんてこれっぽっちもないのかもしれません。もし確信があるとしたら、それすら主なる神さまから与えられたものです。私たちの救いは、ただ神にのみ根拠があります。私たちが選ばれたのは、ただ神の愛によるものです。

それは、どれだけ伝道しても、自分ではどうすることのできないものだとも言えます。どうやっても何にもならないことだとも言えます。しかし、私たちは、どうにかして、何とかなる最善の方法をも知らされています。主イエスは、このすべてを私たちに伝えてくださいました。だから、私たちを友だと言うのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」私たちのうちにはない愛でも、主によって愛することが許されます。私たちのうちにない信仰でも、主によって信仰が与えられます。私たちは、ただ愛によって選ばれた者たちです。神に愛されているのが私たちなのです。だからこそ、今度は、この愛されたものたちが、愛するものへとして変えられ、遣わされていきます。ただ愛によって選ばれた者が、同じように、愛によって選ばれた者たちへと主の御言葉を伝えます。このキリストの愛に確かに留まる時、わたしたちの内には、主の喜びが満ちるでしょう。そして、私たちは、今日もまた、この愛へと大切なあの人を導くべく、主にすべてをゆだねて、この礼拝から主の命令に従い、互いに愛するものとしての歩みを始めるのです。

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