2016年10月30日 主日礼拝

「主の御心であれば」 小泉 健 東京神学大学教授


詩編90篇7―11節
ヤコブの手紙第4章13―17節



 わたしは東京神学大学という神学校で奉仕しています。
 先月の初め、大学の教務課からメールが入りました。その前日から、老人ホームでの実習をするはずの学生がおりました。ところが、その老人ホームから大学に連絡があり、実習に来るはずの学生が来ていない、というのです。大学の教務課が本人に連絡しますが、どうしても連絡がつきません。そこで実家に連絡してみたところ、学生が入院していることがわかった、という連絡のメールでした。
入院した学生は、生まれつきの難病を抱えている学生です。体内のアンモニアを取り除くことができず、血液中のアンモニアの濃度がどんどん上がってしまう病気だそうです。
 彼の兄も、やはり生まれつき同じ病気をもっていて、重い障害に苦しんだ挙句に九歳で亡くなりました。兄のおかけで、早くに病気のことがわかったので、適切な治療を受けることができて、弟は生き延びることができた。学校へはあまり行けませんでした。厳しい子ども時代を過ごしました。アンモニアを増やさないために、食事が制限されます。隠れてカップラーメンを食べて、途端に具合が悪くなり入院する。運動もしてはいけないのです。サッカーが好きで、親に隠れて友達とサッカーをした。夜にはたいへん具合が悪くなって救急車で運ばれる。20歳になるまでに60回以上入院しました。その後、心を尽くして支えてくれていた母親を病気で亡くしました。つらいことばかりです。なんのために生きているのかわからない。だから人生の進路に悩みました。ひねくれた思いにもなった。
 そうした中から献身の志を与えられて、30歳の時に学部一年生から入学しました。入学する何年か前から、病状は安定してきて、入院することはなくなっていました。月に一度病院へ行き、そのまま一日点滴を受けなければならないことはありましたけれども、元気そうにしていました。学校生活に慣れていなくて、最初はぎこちないところがありました。病気のために厳しい食事制限があり、大量の薬を飲んでいましたが、そうしたことをまったく見せませんでした。どんどん明るくなり、積極的に学校生活にかかわるようになりました。
 東京神学大学での生活も三年目となりました。心配したけれど、大丈夫だった。このまま伝道者になっていけると思うようになっていました。その矢先の入院でした。厳しいだろうけれど、しっかりと治療を受け、夏休みの間ゆっくり休んで、元気になってくれるといい。それくらいに考えていました。しかし一週間ほどの入院の後、彼は主の御許に召されました。32歳でした。
 伝道者として召された人が、まだその準備をしているさなかに地上の命を終えることになった。苦しいばかりの生涯を過ごしてきて、ようやく人生の進路が定まったのに、その務めにつかないままになった。病気の苦しみを味わい続けてきて、病院のチャプレンになりたい。病気の人を励ましたい。御言葉を届けたいと願っていました。その志が果たされなかった。「主よ、どうしてですか」と思わずにはいられません。どうしてなのか、わかりません。

 「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」(14節)。
そのとおりです。自分の命のことも、他の人の命のこともわからない。命が突然に終わりになるかもしれない。しかしそのことから目を背けて、命がいつまでも続くかのようなふりをして過ごしてしまいます。

 「『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う」(13節)。
 これは、わたしたち皆の心にある思いです。ここに例として語られている人は、大がかりな貿易商です。当時すでに地中海を間において、物資のやり取りが行われていました。小麦、ぶどう酒、オリーブ油、香辛料、金属や木材などの資源、工芸品、さまざまなものが輸入され、輸出されました。大きな資本を元手にして、大量の物資を動かす商人たちがいました。一年間腰を据えて買い付けをし、倉庫に物資を蓄え、輸送の段取りをつけ、売り払う時期を見極める。
 自分でがむしゃらに働いて麦を育てたり、手を動かして家具をつくったり、小さな店を切り盛りして小売りをしたりしている人ではないんです。大きな資金をもっていて、物資を大きく動かす。それによって利益を生む。その物資がないところにもっていく。品薄になる時期を見計らう。計算に計算を重ねて儲けが大きくなるようにします。ぐずぐずしていられません。今日のうちに契約をまとめる。明日は次の町に移動する。来週の輸送のために船と乗組員を調達しておく。あらゆることを考え抜いて計画を立てる。そして実際に成功していた。
 ここに登場しているのは、一人の有能な社会人です。自分の才覚で仕事をバリバリこなしている。今日すでに、明日のための手を打っている。今日すでに、明日を生きています。来週の予定がきっちり決まっている。来月の段取りをつけている。一年後のことまですでに考えている。一年後をもう生き始めている。彼の言葉は未来形です。
 「わたしはこれこれの町へ行くだろう。一年間滞在することになるだろう。商売をしよう。たくさんのお金を儲けるだろう」。
 わたしたちのことです。今日はこれをしよう。明日はあれを済ませなければ。そうやってきっと来年はこうなるだろう。次々と目標を立て、それを実現します。そうやって人生を形作っている。
 そこで忘れてしまっていることがあります。
 「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことはわからないのです」。
 明日はすべてが崩れ落ちていくことになるかもしれない。一寸先は闇だ。
 これは、しかし、「一寸先は闇」というだけの話をしているのではないと思います。先のことがわからないことくらい、だれでも知っている。物資を乗せた船が沈むかもしれない。当てにしていた小麦が不作で、注文を取ったのに商品が不足するかもしれない。部下が裏切って、資金を持ち逃げするかもしれない。何が起こるかわからない。明日のことはわからないのだ。
 13節の貿易商は、そんなことならよく知っています。そして、そういうことが起きても困らないように、もっと緻密な計画を立てます。保険をかける。商品を得るために複数のルートを確保する。損失が出たときのために蓄えを残しておく。そうしたことを一つ一つ実行する。将来、どんな不測の事態が起こるかわからない、などと言っているのではないのです。
 次々と目標を立て、それを実現することで生きている。そうやって、明日を、次の時間を、自分の自由になるかのように、自分が好きなように使ってよいかのように生きている。自分の命が自分のものであるかのように生きているのです。自分が考え、計画し、実行する、そのすべてのことの上に、全生涯の上に死が脅かしていることを忘れている。
「あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎません」。
わたしたちの命がはかなく、弱く、すぐに消えていくものでしかないことを忘れている。そしてもっと重大なことには、神を忘れている。自分が主人になっています。神を忘れている。そして、神なしには、わたしたちの命がどれほどもろく、みじめであるかを忘れている。そのようであってはならない。ヤコブは神に帰るようにと招いています。

 「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」(15節)。
 主の御心であれば。わたしたちは「御心が成りますように」と祈ります。この祈りを自分自身の生活にかかわるものにします。わたしの生活に御心が実現しますように。御心に従うことを追い求める。
 「主の御心であれば」とだけ言って、やっぱり自分の計画どおりに自分の事業を推し進めてしまうことがありえます。「主の御心であれば」という言葉には「ヤコブの条件」という名前がつきました。この言葉をことあるごとに口にしたり、手紙に書いたりすることが盛んにおこなわれた時期もあったそうです。「主の御心であれば、またお会いしましょう」。「主の御心であれば、これこれの学校に行くつもりです」。「主の御心であれば、お金を貯めて家庭を持ちたいと思っています」。
 信仰深いように聞こえます。でも要するに、自分の願いのままに生きている。立ち止まって、御心を求めているわけではない。「御心であれば」と口で言っているだけで、実際には御心を受け入れる余地などどこにもないんです。自分の計画で自分の時間を埋め尽くしておいて、「これが御心だと言ってください。これを祝福して成功させてください」と言っている。やっぱり、神の意志ではなく、自分の意志で生きている。神の意志を自分の意志に従わせている。違います。
 主の御心であれば、と言う。主の御心をひたすら求め、服従する。扉を広く開けて、飛び込んでくるものを受け入れます。明日のことはわからない。明日、主がわたしをどんなに必要としてくださるかわからない。人のことを配慮するために、思いがけず時間を食うことがあります。自分の計画はすべて狂う。主の御心であれば、そのこともしよう。神ご自身に関わることをせよと、命じられるかもしれない。主の御心であれば、そのことをしよう。

 「人生はため息のように消え失せます。……瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」と詩編の詩人は言いました(詩編90篇 9―10節)。「彼らは朝の霧、すぐに消え失せる露のようだ」と預言者は言いました(ホセア書13章3節)。ヤコブも言います。「あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎません」(14節)。
 頼りない霧に過ぎないわたしたちのために、そのようなわたしたちが消えていかず生きるために、主イエスは死んでくださいました。はかないため息のようなわたしたちのために、わたしたちがただ吐き出されて終わりにならないために、主イエスは命の息をわたしたちと分かち合い、それを父にゆだねきってくださいました。

 詩編90篇は命の日々の短さを語り、その日々をわたしたちが愚かに浪費し罪を重ねていることを語りながら、こう祈ります。
 「生涯の日を正しく数えるように教えてください」(12節)。
 自分が死ぬべき者であることを、生涯の日々の短さを、そしてその日々をどれほど愚かに、罪深く浪費してしまっているかを教えてください。しかしそれだけではない。それだけでは、わたしたちの「生涯の日を正しく数えた」ことにならない。
 「生涯の日を正しく数える」とは、わたしたちの生涯のすべての日々のために主イエスが死なれたことを、正しく受け止めるということです。わたしの生涯の日々のすべてに、わたしの命の隅々にまで、十字架のしるしがついていることを知るということです。ため息のように消え失せるはずの命が神の命としっかりと結びつけられています。

 若くして召された神学生の死も同じことを語っています。もし主イエスがおられなければ、主イエスを抜きにしてこの死を見るならば、まことにはかない、霧のような命です。しかし主イエスにあっては、たしかに神の御手の中に保たれている命です。主の御心によって生きた。神の召しに応えて、全力で献身して生きとおした。そして神の御心によって地上の命を終えました。

 「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」(17節)。
 あなたへの主の御心があります。主が期待していてくださることがあります。それこそが、自分がなすべき善でありましょう。
 あなたが愛を注ぐべき相手がいます。あなたが福音を届けるべき相手がいます。あなたが心を低くして仕えるべき相手がいます。そのことに尽くすことが、またあなたがなすべき善でありましょう。勇気をもって声を上げること、志をしっかり保つこと、限りのない忍耐に生きること、そうしたことがなすべき善であるかもしれない。自分の事業を自分のためにではなく、主のためにすることがなすべき善かもしれない。
 あなたの命に対して、神はもっと大きなことを期待していてくださいます。わたしたちは、主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしましょう。アーメン

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