2016年7月31日 主日礼拝

「神の子らは、平和を造る」 川﨑 公平 牧師

マタイによる福音書第5章9節

「平和を実現する人々は、幸いである」。直訳すると、「平和を造り出す人」ということです。難解な言葉ではありません。それだけに、痛いほどによく分かる言葉ではないでしょうか。「平和を愛する人」「争いを好まない人」というのではありません(それなら、まだ気が楽だったかもしれません)。平和のないところ、争いのあるところに飛び込んで行って、そこに平和を造り出すのです。「あなたがそれをするのだ。そのあなたを、わたしは神の子と呼ぶ」。つい首をすくめたくなります。
「自分さえ平和であればいい」と言って安全地帯にうずくまっている人ではなくて、積極的に平和を造り出す人。そういう人が祝福されるのです。そう言えば、近年日本の首相が「積極的平和主義」という言葉を口にするようになりました。日本という国家が、自分たちだけ平和であればいいというのではなくて、積極的に平和を造り出していく。そのために何をすべきか。日本国憲法第九条は、果たして今のままでよいのか。そういうことについても、延々と議論をすることができるかもしれません。けれどもここで私どもがすべきことは、主イエスの言葉を聴くことです。
平和を実現する人。それは具体的にどういうことを意味するのか。たとえばマタイによる福音書第5章23節以下で、主イエスはこう言われました。「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。自分と誰かとの間に平和がないということに気づいたとき。悪いのはあっちだ、なぜこっちから出かけて行かなければならないかと思うところで、そうではない、あなたの方から和解を求めて行動を起こしなさい、というのです。あなたが平和を造るのだ。これこそ本当の積極的平和主義でしょう。しかし正直に言って、私どもにとってこんなに耳の痛い話もないのです。
ところで、この「平和を造る人」という言葉は、もう少し丁寧な説明が必要です。今お話ししたことだけでは、この言葉のニュアンスをきちんと捉えることができないのです。原文のギリシア語ではひとつの単語で、新約聖書の中ではここにしか出てこない言葉です。語学的に珍しいというのではなくて、特定の場面でしか用いられない言葉でした。たとえば典型的な用例は、当時のローマ皇帝が、「平和を造る人」という称号を持っていたそうです。「ローマの平和」という言葉をお聞きになったことがあると思います。強大な軍事力でたいへん広い地域を征服し、かつては争いばかり起こっていたところが、すっかり平和になった。そのような世界で、「平和を造り出す人」という言葉が生まれたのです。人間が手に入れることのできる最も偉大な称号であったのです。そういう言葉を主イエスがここでお用いになったとき、人びとは耳を疑ったかもしれません。いくら何でも大げさな、という感想が生まれたかもしれないのです。
この「平和を実現する人」という言葉は、 われわれ庶民には縁がない感じがする一方で、しかし私どももそういう〈英雄〉に心惹かれるところがあると思います。ある説教者は、テレビドラマに出てくる水戸黄門のことを思い出していました。まさに平和を造る英雄です。善良な人びとを苦しめる悪人を、正義の男が、格さん助さんと一緒にねじ伏せて、平和を回復させるのです。こういうテレビドラマが、驚くほど長い期間、しかも驚くほどの高視聴率を維持し続けました。皆そういう話が大好きなのです。そして実際、当時の人びとはローマ皇帝を「平和を造る人」とたたえました。そして、そのような力あるローマ皇帝が、実にしばしば自らを「神の子」と呼ばせたのです。
けれども、主イエスが「平和を実現する人々は、幸いである」と言われたとき、私どもひとりひとりを招いておられるのです。それはいったい、どういうことなのでしょうか。
先週、もしかしたら皆さんも似たようなことをお考えになったかもしれませんが、かつてドイツで、ヒトラーという人が圧倒的な支持を得たことがありました。このヒトラーが熱心に論じたのも、真実の平和とは何かということでした。多くの人が、ヒトラーこそ「平和を実現する人」と信じたのです。
ヒトラーが数百万人のユダヤ人を殺させたことはよく知られていますが、それと並んで、数十万人のいわゆる障害者を殺させたことは、あまり知られていないのではないかという論評を、先週読みました。特に当時多くの医師たちが、このヒトラーの思想を支持したと言われます。
こういう人たちを殺せば、われわれは幸せになれる。豊かになれる。真実の平和がもたらされる。けれどもそれは、狂気でしかありませんでした。そんなことは誰にだって分かりそうなことです。他の誰かを力でねじ伏せることによって造られる平和というのは、何かが間違っているのです。しかも私どもは、実はひとりひとり、心の深いところで、こういう間違った平和に憧れているところがあると思います。「あの人さえいなければ……」。そういう私どもだからこそ、平和を造ることができないのかもしれません。
古くから伝わる、こういう祈りがあります。 世の罪を除く神の小羊よ、私どもを憐れんでください。 世の罪を除く神の小羊よ、私どもを憐れんでください。 世の罪を除く神の小羊よ、私どもに平和を与えてください。
憐れんでいただかなければならない私どもであることを正直に認めるところからしか、この聖書の言葉を読むことはできないのではないか。神よ、憐れんでください。私どもは、平和を造ることができないのです。どうかあなたが、本当の平和を与えてください。
主イエスが語られる「平和」ということを考えるときに、合わせて読まなければならないのは、マタイによる福音書第10章です。その直前の第9章36節にはこういう言葉があります。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。私どもも弱り果て、打ちひしがれているのかもしれません。なぜなのでしょうか。「飼い主がいない」と主イエスは言われました。そこで主は一二人の弟子たちを選び、遣わされ、こうお命じになりました。
「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる」(第10章12、13節)。
主イエスはここで弟子たちを、平和を持ち運ぶ人として遣わしておられます。もちろん、ここにいる私どもも、主イエスの弟子として遣わされるのです。けれども、主はさらにこうも言われます。
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」(16節)。
狼の群れに送り込まれた羊。他の誰かをねじ伏せることによって造られる平和とは正反対です。逆に狼に食われてしまうかもしれません。だからこそ26節では「人々を恐れてはならない」と言われるのです。
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(28、29節)。
平和を造り出す人として主に遣わされる私どもの姿が、このように記されているのです。ずいぶんきつい言葉です。いったい、羊と狼の間にいかなる平和が成り立つのでしょうか。
ある説教者が、この主イエスの言葉を説き明かしながら、マーティン・ルーサー・キング牧師の言葉を引用していました。アメリカ公民権運動において大きな働きをした牧師です。白人の暴力に対して、われわれ黒人は非暴力で対抗すると言い切った。狼の群れの中に遣わされた羊が、いったいどういう姿を現すのか、どういう言葉を語るのか。そのこと明らかにする言葉であると思います。
あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようにやりなさい。それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。……しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る、つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ……。
「あなたがたをも勝ち取る」というのは、「あなたがたを私たちの友として勝ち取る」という意味です。私たちは、必ず勝利する。必ずあなたがたと和解してみせる、あなたがたとの間に平和を実現してみせると言っているのです。 正直に申しまして、私は、キング牧師の言葉を引用してよいかどうか迷いました。あまりにも激しすぎる言葉だからです。しかし私どもは、このキング牧師の言葉を口にすることが許されないのでしょうか。そんなことはないと思います。私どもは、自分の責任で平和を造り出すわけではない。私どもも、主イエスに遣わされているのです。主がどんなに深い思いを込めて、私どもを選び、遣わしてくださるか。そして今も、主イエスは私どもを励ましていてくださるのです。
「その家に入ったら、「平和があるように」と挨拶しなさい」。 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」。 「人々を恐れてはならない。……体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。
キング牧師の戦いもまた、このような主イエスの励ましに支えられてのものであったのです。私どもも同じ場所に立たせていただくのです。
しかも主イエスは、おかしな言い方ですが、ご自身の言葉に責任を持ってくださるお方です。弟子たちを羊のような者として遣わされた主ご自身が、まさに世の罪を除く神の小羊として、狼に殺されてしまわれたのです。 狼は羊を殺すものです。そういう世の定めが、主イエスの十字架という場所において最も際立った形で現れてしまいました。そのようなこの世界を、主がどんなに深く憐れんでくださったことでしょうか。
けれども主の憐れみは、遂に息絶えることはありませんでした。父なる神は、御子イエスを死者の中から復活させられました。神の愛が、人間の暴力に勝利したのです。その事実を知らなければ、私どもは決して羊になる勇気も出ないし、平和を造り出す勇気も出ないでしょう。自分のなし得る範囲で、狼になろうとするほかありません。それはしかし、臆病者のしるしでしかないのです。
 
 主イエスは今も、この世界にご自分の弟子たちを遣わされる。狼の中に羊を遣わされるのです。けれどもこの羊たちは、主が生きておられることを知っています。そのような羊でなければ決して告げることのできない平和を、私どもは告げるのです。
 
「右の頬を打たれたら、左の頬もさし出せ」と主は言われました。泣き寝入りしろということではありません。まさにそこで、永遠の平和を告げるのです。キング牧師のように。主イエスの十字架と、そして復活のいのちを知らなければ、決して告げることのできない、まことに力強い平和です。
この復活のいのちに根ざす真実の平和の実現のために、私どもも遣わされます。やはり不安があります。共に生きる隣人のこと、この日本のこと、世界のことを思うとき、「平和」という言葉を聴くだけで、かえって私どもは絶望しそうになります。けれども、そんな私どもに先立って主イエスご自身が遥かに深く、この世界のために悩み抜いてくださったことを忘れてはならないと思うのです。
新しい思いで、主の招きの言葉、祝福の言葉を聴き取りたいと思います。「あなたも、わたしの労苦を一緒に担ってくれないか。あなたもわたしと同じ、神の子と呼ばれるのだ」。皆さんのすべてのわざが、主の愛を映すわざとなりますように。
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